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あさかぜさんは見た

日記

05/06

Wed

2026

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09/25

Mon

2006

こどもたちの将来 利益

少年たちの凶悪犯罪が取りざたされる中で、統計的な結果を論拠として、子供たちの凶悪犯罪化は今にはじまったことではない、たいした変わらないと言う人がいる。

社会というものは、
というよりも、大人というものは、目に見える結果で持って何かを論じようとする癖がつくようだ。
そして、その目に見える結果のみを強く論拠とし、論拠を示さない示唆の批判にも使われる。
その側でとある子供は「ああ、やっぱり大人ってやつは、何も理解しようとしない」と大人に対して仮面をかぶる。

今年のはじめめに、ホリエモンが逮捕された。
私は常々この人が嫌いだった。
彼が絶頂期の頃、彼のことが嫌いだと書けば、とてもめんどくさいことになるので、細々と別のところでぼやいたことがある。

そもそも、通貨とは信頼で成り立っている。
一万円と印刷された紙切れを、一万円の価値として皆が認めているのは、「信頼」があるからに他ならない。
その中に、本当にカラーコピー機で印刷された、見分けのつかないような精巧な印刷紙が混ざっていたら、「信頼」はなくなる。

「商売」、というのは利益行為だ。
生産し、「通貨をやりとり」して、売り上げを伸ばそうと様々なことを考える。
通貨をやり取りするということは、「信頼」をやりとりしているということだ。
つまり、商売の信義則とは、「信頼」をお互いやり取りしなければならないものを、彼はフジ株を買うときに、見事に「信頼」をぶち壊した。
この行為は「商売人」がすることではない、と思っていた。
「商売人」ではないのだから、彼がやっている行為も「商売」にはならない。
これは長く続くはずがないと密かに思っていた。

彼が逮捕されて社会からほぼ抹殺された状態を見て安堵している人がいるかもしれない。
だが、残念ながら私は20年後、彼のような行為を行うことが「常識」になると思っている。

よく、チャットをする。
お互い姿が見えないので、中学生や高校生とも話をすることがある。
みんながみんなそうではないとあらかじめ言っておく。
十人十色なのだが、本音の飛び交う中でちらほらと気になることがある。
特に低年齢になるにつれ、「友達だからこうすべき」とか、「ああしたらこうしなければならない」という考え方をする子供が多いことに気がつく。
これは、「お金払ったからあんたはこうすべき」という大人の理屈をそのまま受け継いでいる。
その考え方は「思いやり」とは、程遠く、似てもにつかぬものだが、子供はそうすべきことが思いやりの表現と思っている。
よく考えてみれば、都会の子供は外で遊ぶよりもインドア派だ。
テレビ画面を見ながら、生身の感覚をやり取りするのではなく、感覚をともなわない現象だけをやり取りする。
格闘ゲームなどでの痛みのともなわない暴力。
カードゲームでさえ「トレード」がある。
自分の有利なカードをもらおうと交渉する。
小さい頃に養わなかった肉体感覚は、大人になって養われることは滅多にない。
これは、「脳と体の分離」を指す。
(これがちょっと進むと、どうにも体が動かなくなったりするのだが、それはまた気が向いたら書きます)
これらの理屈だけ学んで、感覚をともなっていかないと、当然友達感覚にも「取引的なもの」が反映される。
やはり子供も何が「利益」かをよく考えて行動している。
この「利益重視」の考え方が顕著になると、「自己中心的」となる。

彼らは大人になり、社会の重心を占めるようになり、ホリエモンのような行為をし、そのちょっと上の世代から、非難を受ける。
すると彼らは言う。
「僕ら何も違法行為なんかしてません。すべて合法ですけど何がいけないのですか?」
今なら違和感のあるこの言葉が、きっと違和感がなくなる。
そして社会は疲弊する。

利益という言葉がある。
やはり大人になると利益というものは、数字で顕著に表されるものと思っているだろう。
しかし、本当の利益とは、たかが紙切れに表すことができるのだろうか。
例えば、社員をフル活動させる。
休みなしで働きづめ、バイトも使って使い捨て、結果数字だけは顕著に上がる。
が、社員の半分は精神病、またはその他の疾病で退社。
戦力が落ちて、なかなか事業が拡大できないでいる。
それを社員が働かないからだと責める。
これは、「利益」なのだろうか。
利益を無視した「利益」が社会を疲弊させる。

社会が起こした結果には、数字のようにすぐには顕著には出ない。
長い空白の時間を経て、ゆっくりと表面化していく。
それが、子供たちだ。

統計的に見れば、少ない凶悪犯罪が、前例のない事件を迎える日になり、ようやく人々は「何かおかしいのではないか」「あれが悪いこれが悪い」そう言い出す。
統計的に見れば、少ない凶悪犯罪の数例が、社会を徐々に壊していく。
ようやく人々は「このままではいけない」そう言い出す。

心がやり取りされる時代ではなく、現象がやり取りされる時代になる。
ホリエモンは心をやり取りしたのではなく、とことん現象をやり取りした先駆者だった。
そして、これから現象をやり取りすることが常識となる時代を迎える。

もうすでに、「現実感のない子供」は徐々に出来上がってきている。
それは誰のせいでもない。
「国家に住まう人間すべての責任」として、「子供」がいる。
「利益」を上げる大人たちが、徐々に皮肉な子供を作っていく。

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09/24

Sun

2006

きっこのブログと伝言ゲーム

(2010年4月9日追記:「伝言ゲーム 例題」の検索ワードでいらっしゃった方、右側中央のカテゴリーより「伝言ゲームの例題」を選んでおすすみください。ご用意させていただきました。…遊びで☆)



ジャーリズムの日記はどうして書いたかと言うと、友達が「きっこのブログ」に書いてある内容をどう思うかと聞いてきたので、思うところを書いた。
時事ネタに関しては、かなり疎いので、正直に言ってコメントできるほど知識がなく、裏づけも反論もできないまま「本当なのかな?」と思ってしまう。
ただ、時折、恣意的なものを感じてしまう。
このブログの書き手が、意図的に事実を改変した場合、誰がその悪意を見抜けるのだろう。

例えば言論の恐ろしさと言えば、「私は」と「私に」のように、たった一文字違いでも、受け手には正確な情報は渡せなかったということになる。
まるでこれは「伝言ゲーム」と同じ要領だ。

この友達の悪意のない投げかけによって、さび付いた脳が少しだけ、ぎこちない音を立てて動いているのだが、茂木健一郎さんはこのブログを褒めていらっしゃった。

その中で、「ここはプライマリーなメディアだ」、と書いていらっしゃって、「はて?プライマリーって?」ってアホなこと疑問に思って調べたら、「primary」には「主要な」の他に「最初の」「初期の」「(情報などが)直接の」などとジーニアスには書いてあった。

なるほど。
この意味を考えると、「別に情報の信憑性はともかくとして」というニュアンスにもとれるわけだ。

そう、解釈するとですよ?
同じく茂木先生のブログに書いてある、

 『きっこのブログ』は、そのスタンスや
内容など、すでに「マスコミ」を超えていて、
情報価値が高い。

という文章の中の「情報価値」という意味が、「情報の信憑性としての価値」という意味ではなくて、「情報の自由性がいかに高いか」「言論の自由としての多様性がいかに高いか」としての「価値」という意味にもとれるわけです。
むしろ、こちらの意味のほうが先生のブログに書いてある文面からは強く読み取れるように感じるのです。

この解釈の違いが、すでに「伝言ゲーム」になってることがおわかりでしょうか。
「きっこのブログ」の書き手には、時折主観的な意見が強く入っています。
そして、多分な推測がふんだんに含まれています。
客観的な事実にもとづく推測は、客観的な事実では断じてありえず、「推測の域から出ない」わけです。
この主観が、本来正確に読み取るべき情報を、間違って読んでいたとしたらどうします?

例題を言うとこうです。
作者はAを憎んで、Bに好意的だった。
作者はAから「Bを殺してやりたい」と直接酒の席で聞いていた。
作者は偶然Bに馬乗りになり、刃物を持っているAを見た。
作者は「AはBを殺そうとした」と客観的な事実にもとづき警察に証言した結果、Aは殺人未遂で逮捕された。

普通、読者はこれで満足なのでしょうが、さて問題は、本当の真実は「実はBがAに刃物で切りかかってきて、偶然Aが取り上げたところを作者は見かけた」のだとしたらどうでしょう。
客観的な事実から推測された証言はすべて「偽」となるわけです。
そういう疑いを誰もかけないのでしょうか。

例えば他にもテレビでよくテロップが出ますけれど、その時、カッコ付けで発言に付け足されているものを見ると思います。
カッコがなかったら、「みんな死んでしまえばいい」となるところが、前後の関係から「(凶悪犯罪者は罪の償いようがないから)みんな死んでしまえばいい」となったら、意味合いは180度転換しますね。

個人的にはこのような情報の不安定さを推測や思想としてあげるのではなく、いかにも真実として取り上げていくのが大嫌いなのですが、茂木先生の「プライマリーなメディア」という言葉を見て、「ああ、インターネットって不安定で自由勝手なのが売りなのだ」と思ってしまうわけです。
自分もこの一言に妙に納得しようとしている。
で、自分もそうしているわけだし、所詮「同じ穴のムジナ」であることは変わりがない。

でもやっぱり不思議なのは、情報を信じても裏づけをしようとする人が極端に少ないということ。
やりっぱなしの伝言ゲーム。

P.S.
さっきの例題で推理小説かなんかが書けそうね(笑)

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09/23

Sat

2006

本当はこんなことどうでもいいのだけれど、国民が「真実」だと思っていることは「事実」であって、「真実」ではないことが多い。

前にも書いたっけ?
「現実」と「情報」の区別は「五感」があるかないかの違いがある。
つまり、生で体験したことだけが「現実」であり、そのほかの伝え聞いたものは、すべて「情報」となる。
ちなみに真実というのは、五感を織り交ぜた当人しか知らないことであって、そのほかはすべて「情報」でしかない。
その他の使い道では「真実」は「その当人しか知り得ないこと」とも定義できるが、「当人しか知り得ないこと」は、当然「当人から本音で聞き出す」ことでしかわからないわけだ。
すると真実を知りえる人間はごく一部で、たとえどこ新聞だろうと、どこテレビ局だろうと、「事実しか報道していない」ことになる。
誰かを仲介すれば、それはすでに「意図的な情報」であるということ。
この違いがどうにも現代人には理解しにくいらしい。

ちなみに、ジャーナリズムの意味だが、

日々生起する社会的なできごとや問題を、ある価値基準にもとづいて取捨選択し、適切に論評する編集作業をほどこして、ひろく一般に伝達する活動。
Microsoft(R) Encarta(R) 2006. (C) 1993-2005 Microsoft Corporation. All rights reserved.

とある。
(ある価値基準にもとづいて取捨選択ってクセモノですな)

最近では個人の日記サイトなどを通して、あたかも「真実」のように語られ、その情報を大会社のマスメディアなども信じる呆れよう。特にこの手のサイトで悪辣なのは、事実に基づいた客観的な事象に対して、主観を織り交ぜ、まったく「創作的な記事」に成り果てているところだ。
これはいわゆるジャーナリズムとは程遠い。
こういう手法で記事を書かれると、一見素人目ではわからない。
素人目ではわからないばかりか、ゴシップ雑誌のみならぬ数十万部という発行部数を放つお堅い雑誌すら食いつく。
もうめっちゃくちゃである。
この状態は、すでにジャーナリズムの価値観も概念も破壊されつくしたと言っても過言ではない。

それにしても、個人の日記を見るとひどいね。
だって、ある程度調べればわかることでも、大きなマンモス日記サイトの記事を上げて、「~~ということ ら し い」って書いてある。
「らしい」ってなんでしょうか?
調べればわかることなのに、自分で調べようとしない挙句、その日記が検索サイトでボロボロトップに出てくる。
迷惑この上ない。
つまり、真実でなくとも、その情報を目に付ける人が多くなれば、情報は勝手に独り歩きして、そのうち「らしい」が「である」となってくる。

ゴシップの域を出ない記事を、それこそジャーナリスティックだと信じ込む思考停止状態の読者。
そこまで日本国民が馬鹿に成り果てたのだと思いたくはないが、少しは冷静に情報を判断できはしないのだろうかと思うのである。

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09/08

Fri

2006

皆様は本を買うときに、どうしていますでしょうか。
私は教養書なら目次、小説なら真ん中あたりをガバッと開けて、そこから少し読み始めます。
教養書の場合、目次で内容がよくわからなければ、あまりいい本ではない場合が多いので、目次である程度の内容が見えてこない場合は、あまり購買意欲は起きません。
また、小説の場合、作者は最初は気合を入れている場合が多いので、最初のところはすっ飛ばして、中でたるんでそうなところで文章のレベルがどの程度かを知るために読むわけです。
それにしても、最近は不思議で、「買って損をした」とか「ひどい内容」とか、ヒット作を中心に本への手ひどい恨みすらこもった読者レビューが書かれております。
中も見ないで買うなんて、凄い勇気だと思うのですが、買い手側も「受身」なのだなと思ったりします。
最近の小説を読む限りは、逆に「どうして自分の書いているやつが注目されないのだろう」と、ちらほら思うことがあります。
「あ、自分でも芥川賞取れるや」などと、ルンルン気分で書店から帰ってきたりするのですが、現実は厳しいのか、それともぜんぜん実力がないのか、今だここで地味な生活をしているわけです。
それで、書いていて、もしくは売れ筋を見ていてよく思うことなのですが、どうやら読者というものの小説への目的というものが、二極化しているのではないのだろうか、と、思ったりするのです。
今更こんなこと言うのも時代遅れで馬鹿らしいかもしれませんが、ようするに、インターネットや携帯などの通信機器で育った、「文字離れ世代」と、「王道の文学を求める読書家世代」の二層に分かれていて、お互い相反する好みを持って、読書をしているようです。
前者は、簡単で読みやすく、ストーリーも単純明快かつ奇抜でおもしろい「映像的」なものを好み、そして後者は、いかに文章に情景や心理や人間味や思想があふれているかという「文学的」なものを好むわけです。
それで、出版社はどちらの読者層によりターゲットを絞っているかというと、もちろん前者の「映像派」の人たちです。
この層は、「燃えやすく燃え尽きやすい」のが特徴で、火がつけばガソリンのように燃え広がり、そして燃料切れと共に、何事もなかったかのように鎮火してしまいます。
それで、この「一番受けやすい層」へ、書いていて一番思うことは、「最近の読者はよりはっきりと具体的にわかりやすく書かないと作者のメッセージ性に気がつかないことが多い」ということで、これは所謂「文学」という観点から言えば、相反するもので、文章の密度を薄くし、より内容も平たくし、小難しい思想を排除し、頭で考えるよりも目で追える文章を作るということです。
これが、本当にいいのかどうか、ということは置いておいて、この「文章離れ」減少は歯止めがかからず、いずれ日本語を破壊するまでに至りますが、正直言って自分もまともに「国語教育」というものが、どのように自分の力になっているのかさっぱり理解できず、自分で文章を書いていて「これでいいのだろうか」と不安になりながらも書いているわけです。
私は「国語」で学んだことをうまく思い出せません。他のことならよく思い出せるのに不思議です。
「読者により受ける文章」のほうが世の中には残っていきます。つまり、どのように「文学派」の人たちが新しい世代の文章へ文句を言おうと、「売れたもの勝ち」のようです。
ひどいものは最後にゴミになるのがオチでしょうが、はたしてこの「文章離れ」からくる「文学離れ」に歯止めはかかるのでしょうか。
この問題の裏にある「国語」というものを、皆でもう少し真剣に考えなければならないようです。

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09/03

Sun

2006

http://www.gillette-jp.com/

男性用のカミソリで、今度は五枚刃が出るそうです。
私は今三枚刃使っていますけれど、よく切れますよ?
カミソリもいやに長持ちするし。

単純な疑問として、なぜにそのようにたくさん刃をつける必要があるのか。
もういらぬ。

どうせなら十枚刃とかすぐに出しちゃえ♪
たぶん50年後には三十枚刃とかあるんだろうなぁ。

「ミクロの刃で深剃りスベスベ!世界初30枚刃!」

とかなんとか言って。

刃が多くなるとそれなりに値段も高くなるのですけど。

五枚刃もかなわない鋼鉄の髭を持つ男でもこの世界にいるのでしょうか。

六枚刃、出るかどうかが注目ですな。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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