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あさかぜさんは見た

日記

01/16

Fri

2026

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12/22

Thu

2011

やがて「愛情」は時代に取り残される 〜作家7名がスキャン代行業社を提訴〜

スキャン代行業者提訴で作家7名はかく語りき
ITmedia

今回の提訴のメインは「スキャン代行の主体が業者であるかどうか」。現行の著作権法で考えれば、「使用する者が複製することができる」と定めた私的利用の範囲を逸脱しているのは明らかだが、判例はなく、グレーゾーンでしかない。まずはそこをはっきりとさせようとしている。



私もまがりなしりも書いている超端っこにいるので、大先生たちが言わんとしていることはわかります。
「裁断」という言葉がピックアップされているから、どうも本心が見えてこないだけで、結局は「自分の労力の対価としての正当な数値化」なのですね。
そこへ対する「侵害意識」を持っていると。
他の作家の作品は今まで何百トンと裁断されてきたわけです。
それこそゴミの山になった本がたくさんあったのに、他の作家のことは別に考えはしてこなかった。
今回自分の本が自炊される(紙の本を電子データに移し替える)ことで利益が侵害され、今ある収益が大幅に消えていくことに危機感を持っているのだと私は見ている。
得に東野圭吾氏などは前々から中国の違法コピーに怒りを表していた。
しかし言い分として作家として食えなくなるとか、何を今更、あんたたちは食えてるじゃないか、と食えない身分は普通に思うわけで、むしろ作家として充分に食えていけるほうが難しいわけです。
そういう人間がどれだけいるのか。
そして食えない人たちは、むしろ読まれる以前の問題を多く抱えているということ。
電子書籍は「一億総作家化」ではありますが、次々とコピーできる「データとしての作品」に対する法律は古くなってきていて時代にそぐわなくなってきている。
今回の提訴、たぶん現行法に照らし合わせれば勝訴するのではないかと考えていますが、しかしこれからの時代の流れを考えると、いくら粘っても10年以内に著作権法そのものが変わる可能性の方が高い。
つまり電子化の流れは各国の言葉の壁がまだ存在するとはいえ、やがては「国境を越える」ため、日本の現在の国内利益を守るための著作権法では海外とやりとりする場合、どうしようもできなくなるのは明白なのですね。
インターネットとその技術は今までの収益体系を根本からぶち壊し、真面目な作品製作者にとってはまるで地獄のような時代が訪れるわけです。

私も自分の労力が対価として来ないのは、もう無気力になるほど嫌だし、たとえば違法コピーみたいなものが出回って、有料の作品を無料で手に入れ、「おもしろかったです!次回作待ってます!」なんて言われたら「何をこの盗人が!」と内心林真理子氏のように思ってしまうだろう。
労働の対価が厳密に数値化できない、という問題に常に芸術や文化というものはぶち当たり、時代の中で悪戦苦闘する運命にあるということも、大先生なら豊かな教養をお持ちなので充分わかると思うのだが、今回の電子書籍の問題は、たとえ勝訴しても「モグラ叩きの方にやがてコストがかかるようになる」というのが想像できないのだろうか。
小説も、やがて音楽と同じ道をたどるのは目に見えている。
大先生方は出版の未来はどうなると考えているのだろう。
某文学賞で本を批評するように「こうあらなければならない」という理屈は「未来」には通用しない。
そういう感覚で技術と本と読者の関係に関わることを語ってもらっては溝ができてくるのは必至である。
今回は業者だが、個人が自炊しデータ化していく行為と、残念ながら大差がないのである。

そして今提訴している先生方の年代は「紙の読者を多く持つ先生」の最後のピークになるかもしれないとも考えている。
紙の本のあり方や価値観は変わらない。だが、「コンテンツ」に対する「技術」は常に変化していく。言葉にこだわる先生たちだから「人の命を削って作った作品に対してなんだ!」と怒るかもしれないが、扱いはやがてネットと技術の進歩により「コンテンツ化」されていく。
どんなに怒ったって嫌がったって反吐が出るほど汚いハイエナと思ったって流れは止められない。
当然人の手ではどうしようもできないほどコピーは広がっていく。
そして無料で読むことが当然だと思っている人たちは「作品への労力」は考えないためお金を支払うことはない、と今は考えているが、ここら辺は「アイディア」になる。

それで紙に対する思い入れもわからないわけじゃない。
「本の尊厳」だなんて、こんな言葉を出すなら他者の著作について自分以上に尊ばなければいけないのに、どんな取り組みをしてきたのだろうと首を傾げるがちょっとおいておく。
作品ができあがるまでの労力は本当に莫大で、1作品きちんと調べる作業も入れると3ヶ月とか4ヶ月とかこもりっきりでやらなければいけない。
表紙ひとつとったって本の見た目をすべて決める作業。本当に繊細に行われていく。
その作業が楽しいと思えればよいのですが、だいたい「産みの苦しみ」は誰しも抱えているものと思っています。
できたときの喜びが苦痛に勝るだけの話で、その「苦痛より上回った喜び分」で作ることができるのかな、とも自分は思うわけです。
そこから多くの人たちが関わり、ようやく労力が紙として物質化するわけですから、まるで自分の身を削って与えたような気持ちを持つのはわからないわけじゃない。
だからその思いと、今回の自炊代行業の増加の根底にある問題とごっちゃにして、あくまで「作品としての尊厳」を訴えたくなる人情は否定はできない。
しかし「作家の慣習」と「一般庶民の慣習」は違い、国家の重要案件に関わる事案でなければ通常は現行法を最大限考慮しながらも「一般庶民の慣習」に従っていくことになる。

東野圭吾氏に至っては、もう10年前ならまだしも今更、という思いを抱く人も多いだろう。
それだけ「成功」して今まできた人なのだ。今回提訴している他の作家と同じく。
もう「データ化」された時点で漫画家や小説家の収益モデルは崩れ出してきていた。その兆候が「紙の収益の上にいた」から、まったくわかっていなかったか、問題として軽視しすぎていた。
東野氏の姿は現在の出版社の象徴だと言っていい。
これからは瓦解したモデルは「文献」でしか存在しなくなる。
それこそ電子書籍化して売った方が問題意識や改善点を全体で共有できる。
それぐらい時代は変わってしまった。
もはやコンテンツにおける国境のボーダーレス化は、これからもっと加速する。

結局今回の作家たちの目的は著作権と作家の利益に対する大々的なパフォーマンスだと思い込みたい。
おもしろいって思うならちゃんと私たちが続けていけるよう、お金払ってね、と。
もし本気で訴えているのなら「日本国内しか見えていない視野の狭い人たち」になってしまうのだから。

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12/20

Tue

2011

「子供」という「規格品」 自殺者から見える「死ぬほどの悩み」

NHKクローズアップ現代「優しい虐待」記事に関連して。

突然だが、しょっぱなから暗いデータを見てみる。
データーは平成22年度の自殺者の統計である。

自殺統計(警察庁)

自殺者というと何を大げさなと思われるかもしれないが、いわゆる「最悪の結果」から見える推測図がうっすら浮かんでくる。
聞けば当たり前だと思うかもしれないが「最悪の結果」は、「どんな理由で死ぬほど悩んでいるのか」がわかる。

たとえば、子育ての悩みで自殺する30代。
女性64人、
男性6人。

40代になると女性が36人に減少する。男性は相変わらず一桁。

となると、父親は子育てに対して「死ぬほど悩まない」ことに対し、女性は「死ぬほど悩んでいる」。
子育てに男性は無関心だと女性は思い込み、男性は職場や仕事の事情をなぜわかってくれないのかと悩んでいる。
そして、40代になって半分近くに減るということは、母親の多くが「思春期の子供」「思春期にさしかかる子供」に対しての悩みであることも見えてくる。
平均初婚年齢は女性で平成21年で28、6歳だから、まず母親の前に大きく立ちはだかるのが「幼稚園」そして「小学校中学年」「中学校」となるだろう。
父親はそれよりも職場環境のストレスで疲弊してきている。
ここ4年を見ても平成19年30代女性40人から年々増え64人にまでなってきている。

なぜ今回自殺者から見ているのかというと、この厳しいご時世、就職失敗することで自殺する若者が増えているという記事があったからだ。
3年前の86人から153人と倍増している。
つまり「就職に失敗」することは、本人の無気力・徒労感・世相感からくる「人生お先真っ暗」という事情もあるかもしれないが、今回の親の「優しい虐待」に照らし合わせると、もう肉親親族に顔向けができない、死んだ方がましだ、と思わせるほどの事情・環境があるのではないか、と疑ってもいい。
「たかだか20年程度の人生。これから4倍も生きていかなきゃいけないのに、これくらいなんだ」となれない重苦しい心理があるということは、後戻りのできない周囲の重圧があるからだと考えるからだ。
前に「将来的な自殺の引き金」と一文を添えたのは、こういう締め付けからくる心理を指摘していた。

そもそも私が「家族の問題」に興味を持っているのは、個人的な事情もおおいに絡んでいるが、それだけでは家庭の事情に文句を言っているにすぎなかった。
しかしNHKなどの番組、子供や親の悩みをちらりと聞いていくうちに、どうやら核家族という閉鎖的な環境の中で似たような事情を抱えている家族が非常に多く、悩む子供と大人が増加し、両者の軋轢は大きくなってきているのではないかという危機感を持った。
そして決定的だったのが「無縁社会」というNHKの番組で、「家族・親族がいても無縁仏になる」という事情をあぶり出していた。
これも末期状態の結果だが、衝撃的だったのは「家族がいても無縁仏」になるという現実だった。
親などが死んだとき、遺品整理の際便利屋に「写真は破棄して」と言う子供が多いという。つまり「親との記憶・親の生活の記録はもういらない」ということだ。
今は思春期の子供を抱えていて、子育てに追われ、老後のことなど考えていられないほど忙しいのは承知だが、どう考えても就職後独り立ちし、一人暮らしなどをして家を離れるなどの子供側の環境があるとしたら、家族との間に軋轢が生じるのは、二十歳未満の環境が大きく影響しているとしか考えられないからだ。
今思春期の子と対峙して、おおいに悩んでいる母親は、今のコミュニケーション方法が正しいのか少し立ち止まって欲しい。

さて、子育てをする際、親が子供に期待するのは「最低限社会に出ても恥ずかしくない子になる」ことだろう。
この日本では「〜しなければならない」という風潮が強く、社会できちんと生活するには、会社でちゃんと働いていける能力を、と何かしら母親も頭をフル回転させて子供のために血を吹き出すような努力をしているかと思う。
極端な言い方をすれば現代日本の会社社会に売り込むための商品を作っている。
どうして「商品」という言い方をするかというと、題名の通り社会に適応するためにと集めている情報・周囲が共有している情報が既に「会社組織」に合わせられた情報であり、そこへ適応させるためには無駄な「個性」が不要であり、きちんと「能力」を身につけ、発揮できるためには、ということを少なからず考えて育てるだろうからだ。
そこまで考えていなくても「自分の手をわずらわせないで欲しい」「私の迷惑も考えて」とは必ず思う。親が「社会の代理」をする、ということだ。

そもそも「個性」というものは「規格外」のものであり、クリエイティブな産業・仕事でなければちょっと邪魔になる。
スーパーで並んでいる野菜はすべて「規格品」だが、なるべく味も形も揃えられるようになっている。
どうしてかというとバラバラだと値段が統一できなく、不公平感が出る。組織だと「個性」など出されては、まとまりがなくなり、生産性が落ちる。日本では反発して組織をかき乱す人間はまず首が飛ぶ。「独自解釈」や「独断行動」は給料もらっている立場でやるな、一人で独立してやれ、というのが大体の見方だろう。
親同士の間でも「あの子ちょっと変わってるわよね」だなんて噂されるのは恐ろしいだろう。親にも周囲に合わせようとする「同調効果」が働く。
曲がったきゅうりやにんじん、規格外野菜というのは味は規格品と変わらなくとも安値で出回る。商品にならない。だが、その曲がったものが「個性」だ。

「節目」という言葉があるが、竹を例に出せば、節目がなければ曲がっていけばバリバリと割ける。節目からぐんにゃりと一回転して曲がってさらに伸びていけば「見苦しいな」と思う。まっすぐ伸びれば見た目にも気持ちがいいし、商品にする際にも「規格外」とならず「安く買い叩かれ」たり「破棄される」ことはなくなる。周囲にも「立派に育って」と言われるし気持ちがよい。
子供はテストや受検ごとに「節目」があり、「節目」ごとに人間の価値を評価されるような脅迫感を持つ。親も同じだろう。まるで「人生の総評価」のような様相をていしてくる。

「評価」とは「ある一定の立場や基準から見たもの」であり「人間の可能性のすべて」ではない。だが感覚としては「未来のすべてを決定されている」という強烈な暗示にかかり身動きがとれなくなる。社会全体で共有されれば本当にたちが悪い。私などは明日にでも自殺しなければいけないほどだ。

しかし人生に「解答」はない。そして人生の「節目」は個々人違う。
3年後とではなく、もっと長い人もいる。それは押し付けられるものではなく、自分で決断していくものだ。
その「節目」を今の自分に照らし合わせたって、本当に自分がたどってきたものが、これがよいのかどうかわかっていない。一応環境上納得はしようとしているが揺れることもある。
だから悩む。
親も子供と同じ土俵に立てる場所にいる。
でも自分の悩みは子供には適応できない。「これが正しい道」と自分の理想のようなものを押し付ける。
自然な人情だが子供は抑えつけられるようで苦痛を感じる。
自分で全力でやらないから子供も「自分で失敗した」とは思えず「親がこうするからうまくいかないんだ」となすりつけがちになる。

さて、「就職させるまで」が「親の使命」だとするならば、「就職させる」「社会に立派に送り出す」ことから逆に考えれば、当然思考は「規格品」を作るための組み立てに重点が置かれる。
そこで「個性」は邪魔になる。
子供のためによかれと思っているのに子供は反発する。子供は子供で自由にやりたい。
そんな勝手な子供を見て、社会に出ればもっと大変なの、あなたのためを思ってやっているのにどうして言うこと聞けないの、となるのは人情として自然と出てくる。

子供は子供で、なんだかんだ言っても親というのは「絶対者」なのだ。
自分の運命を握っているし、日々の生活を左右するほどの影響力を持つ生まれて初めて対峙する「権力者」である。
思春期は自我が芽生え、個性が伸びていく時期とされるが、もっと絞り込んで言うならば「哲学的に自我を捉える時期」とも言えるかもしれない。
未知のことをしてみたいと憧れる、触れている情報が親とはまったく違うし、子供社会の生き辛さを感じて日々立ち回っている。楽しい日もあれば辛い日もあるだろうし、失恋も経験する。「〜すべし」の親であれば話が噛み合わない。
もしかしたら学校で友達と合わせるのに違和感があるのかもしれない。色々理由はあるが、とにかく子供から「本音」を聞かなければ何もわからない。

例えば自分の経験を例に出すと「会話」ができなかった。
親は親で一方的に物を言う。子供は子供で伝えたいことがある。親に反発することを言えば、気に入らないことをすれば反論される。という「常に一方通行のやり取り」が長年繰り返されてきた。
そして親子ともに「私の話なんか全然聞いてくれない。あんたが悪い」という不満が積み重なり「否定癖」が染み付くと、いざ褒めるところが見つけられない、言葉にできない、会話につまる、という普通に考えたらちょっと恐ろしい状況があった。
ぎくしゃくして意思疎通そのものが億劫になる。
子供の力ではどうしようもできなくなってくる。

ちょうど統計で見て、「夫婦関係の不和」で自殺する人は、
30代で男194人、女76人。
40代で男238人、女70人、とピークになる。

全員が子供を持っている世帯ではないが、ちょうどたまりにたまった父親の職場でのストレスと母親の子育てのストレスが子供へ向けられやすい時期が「思春期」とも言える。

親の立場として子供を立派にさせたいというのはわかるが、「立派」とは何を持って「立派」なのだろうか。
社会に入れば様々な価値観を叩き込まれ、お前は間違っているなの、失敗して取り返しがつかなくなるなの、とにかく「失敗」は山ほど出てくる。
子供といえど自分ではない。他人だ。だからこそ他人に何かをさせることの大変さはよくわかる。「〜させなければいけない」という気持ちがあれば、まず潰れるのは親の方だろう。子供は心を閉ざし、対話の糸口を一切なくそうと試みる。両者にとって「〜しなければいけない」は苦痛そのものだ。
特に一旦対話を閉ざされると修復がなかなか難しい。色々やりたい年頃なのに説教しかされなければ嫌だろう。
親だって子育てに対して事情も知らない他人から毎日のように説教されたら精神的に本当に辛い。もし子供の話をちゃんと聞いていないのならこれと同じ状況だと思った方がすっぽり当てはまる。
子供も親も一生懸命やっていることを「褒めてもらいたい」心理は少なからずある。
否定されることに身構える癖がつくと、何をするにも不安になるし顔色を伺うようになる。
「失敗」を恐れ「経験しなくなる」と絶対伸びないし長い時間を消極性で浪費することになる。いつまでたっても成長しない悪循環が待っている。体験した本人が言っているのだから間違いない。
おおいに失敗させて後悔させてやればいいのです。
母親と同じようにとことん行き詰まれば「どうしてこうなるのか」と考え始める。
失敗について考察するのがとても大事なのです。
こういう経験の積み重ねが後に大きな財産となり人間力となります。

「人様に迷惑をかける」という考えをしていたら、どこまでも拡大されて、いずれ「他人の顔色を伺ってから行動する」という癖がつく。それはちょっとまずい。
人生における積極性を失うことは、他人の命令がなければ自分で大胆にくりだせず新しい道も自分で見つけられなくなる。
よく昔「自分探し」という言葉が流行ったが、私は「自分探し」など一生終わらないと思っている。生きている限り永遠にさまよう。そういうもんです。
だからこそ、今の自分を肯定していかないと前に進めない。
失敗も短所も含めて、現段階では事実であり、個人の能力であり、個性なのだ。
ダメなものは徐々に直していく必要はあるが、それよりももっと大事なのは長所に自信を持っていくこと。
そして人間褒められると伸びるものだ。
人はおおいに褒めても、けなしてはいけない。叱ったとしても怒ってはいけない。これが大原則。

ということで最後に誉めの技術。
誉めると伸びるというのは厳密には「誉めた部分が伸びていく」と覚えておくといい。脳にとっての快楽のようだ。
ただ、分別のはっきりしない子供は、なけなしに褒められると「ダメな部分も含めた自分の全部」が誉められた気持ちになって有頂天になるので、誉めるには具体的な方がいい。
ピンポイントで具体的に誉めろというのがコツ。
「この部分は難しかっただろうが、三つもできて、相当前進した」とか「前合ってたここの部分が今もできているということは身についてるから後ろには下がってないよね」とか、もしできたことができなくなっても心理的なことが左右しているかもしれない。「どうしたの?」とじっくり聞いてみる、気がつく余裕を忘れないでいただきたい。

なにせ、人間の知の前身はすべて「好奇心」にあるのですから。
好きになれば失敗にすら興味を持つようになる。
どうして失敗したのかを考えられる力は「好き」からくる。
その力すらもなくしてはちょっと進みが遅くなる。
失敗そのものを恐れるようになるから。
日本では失敗を蜂の巣をつついてしまったかのように騒ぎ立てますが、これは人間の成長を妨げる大きな過ち。
もし育てたいのなら失敗が当たり前だと思ってください。
それも山ほど失敗するのが人間だと開き直った方がよろしい。
誰でもそうですが、人間何かが完璧に揃ってどうにかできることなどまずないのです。
失敗という貴重な経験を前向きに認める(失敗は道が閉ざされることとは違うと認識する)ことこそ、追い詰めないための人たらしのポイントであります。
改善する点が見つかる限り、その分よくなる可能性を秘めている。改善されない限りいくらでも過ちは繰り替えされますが、ここを「間違いは間違いだから絶対いけない」と締め付けてはいけない。「叱る」と「怒る」の境目だと思います。
前に進めるって素晴らしいことじゃないですか。

そして、大事な点。
誉めることができた自分を誉める。
自分だけ一生懸命やっている、という意識を払拭するちょっとした技を持つことはとても大事です。
一日一善といいますが、「ああ、自分子供の嬉しそうな顔を見れた」という自画自賛は、励みになります。
そっと隠し持っている日記帳にハンコでもポチッとつけておくとたくさんついた時は嬉しくなるものです。
我が子といえど、人と付き合うのですから、嬉しいことばかりじゃない。
辛いこと、傷つけられることあるでしょう。
そんなことを素直に話し合えるような関係、そして好奇心を絶やさせないための「ピンポイント誉め攻撃」は忘れないでしてほしいなと思います。

中学生受検の子を持った母親からコメントいただきました。
気になる言葉がひとつありました。「失敗」という言葉を使っていたことです。物事の評価においては使える言葉ですが、人間の人生に使う言葉として大変難があると思います。
最中には考えられないことですが、どこかで覚えておいて欲しい言葉があります。
「人間、死ぬまでが人生」なのです。
他人は好き勝手、それこそ人のことを物のように評価しますが、本当の「失敗」というのは、死んだ時「あいつは死んでよかった」と恨まれながら死ぬ、誰も悲しんでくれない、という状況だと思います。
生きていればいくらでも挽回する機会は訪れるものです。
挽回できると思える想像力、発想力を自分からも他人からも奪わないことが大事です。
よい人間とは、この未来への想像力や発想力を奪うことなく育んでいきます。
それと、たまには適当にテケトーに考えるのもええんです。
「失敗」と思わないで「改善点の大発見」「これはチャンスを与えられた」と言葉を置き換えるだけで、だいぶ楽になりますよ。
「うわっ、私偉すぎる」と自画自賛できます。

長くなりましたが何かの参向になれば幸いです。

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12/17

Sat

2011

小学一年生向け 第二弾

あいかわらずアクセスが多く、結構「小学一年向け」で伝言ゲームの検索をしてくる人が多く、今回は誰にリクエストされたわけでもないですが、また作ってみようと思います。
もしリクエストがあればコメント欄に書き込んでくだされば、ぼちぼち書こうと思います。
今回はちょっと優しめに作ってみます。

1、ほんをみぎてにもったおほしさまは、えほんがすきでしたが、めぐすりをくちにいれてしまい、えへんとせきをして、めざしのかたちのはんかちで、ひだりてにもちかえたほんをふきました。

2、さんばいおすをのんで、おさいせんをいれて、じんじゃにさんぱいし、おさるのようにあたまをさげると、おしゃかさまがでてきました。

3、きりんはきりのなかの、きいろのきかんしゃにのりながら、きれいなあおりんごをかじると、りんごから、けむりがでてきて、みどりのあきかんになりました。

4、こうえんで、こうのとりが、がっこうへいくには、こうじげんばをとおって、こうばしいかりんとうのみせをまがり、こうもんをとおって、じこにあわなければ、とうちゃくだといいました。

5、たかいおかで、てんきよほうをするたいやきやさんは、ほっけというさかなをやかんにいれ、てんぷらをやぎのあたまにつけ、ねこのけをさかなでし、ねがえりをうって、てんきをうらなう。

6、こおりのうえで、ほたるひめにであった、かいとうるぱんは、ほたてらーめんとあげぱんをこたつでたべたいと、ほっとけーきというめしつかいのみみもとで、はなしました。

7、かえりみちで、ろばをひいていた、おじいさんは、であったしょうじょに、よっつのろうそくと、ななつのかえる、みっつのおいしいやきがしがあれば、うまにのっていたおうじさまに、しょうじきにきもちをいえるのに、といわれました。

8、まほうつかいは、まかいのおうさまを、まっかになるまでわらわせて、おうじょのいのちをうばってほしいと、ねがいをつたえるために、かがみもちのみかんを、かみのけのうえにのせて、いちじくのみはまだか、とさけびました。

9、ぬれたかさに、こえをかけられた、ほししいたけは、みずにふやけたからだで、ひとことだけ、たけのこにかけたからしは、ねだんがたかいので、かけすぎはよくないと、かっこつけていっていたら、かみなりにうたれて、みずなのからだになりました。

10、かいがらをひろっていた、かみなりさまは、かたがかゆいと、かいてみると、かさぶたがとれて、かいがらにおちて、とりがらにかわったので、ひつじのかわのくつをはいて、かわいたぶたにくをおみやげに、かまどでなべりょうりをつくろうとおもいました。

とまあ、いかがでしたでしょうか。
今回はこのへんで、また。

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12/16

Fri

2011

子供を潰さないための「躾」という減点法からのシフト

前回のクローズアップ現代の記事

でコメントをいただいた。
私も思う所があり引用させていただきます。
今回の話は私事ですので、ひとつの例として読んでください。

〜引用〜

私自身は、やさしい虐待、明らかな暴力、両方とも受けました。優等生タイプです。今は3児の母で・・自分の代で有害な連鎖を断ち切るぞって思いつつ、気を緩めるとやさしい虐待をしてしまいそうです。頑張らなきゃ。あさかぜさんの文章、読み返してまたいろいろ考えてみますね。ありがとう!

〜引用終わり〜

私も「連鎖」に気がついた時、「自分の代で終わりにしよう」と心に誓ったものでした。
特に私の場合は明らかな暴力はないにしろ人格否定や比較、卑下、気分によって変わる論調の押し付け、軽い罵倒などをされ、自然と誰かにも「上から見下しけなす癖」がついていました。

この日本では「〜しなければならない」という空気が強すぎるところがあり、「評価」というものから逆算して物事を見る風潮があります。
その圧力たるや、意識しすぎると本当にどうにかなってしまうのではないかと思うほど重荷になります。
これらの日本の空気は「減点法」で構成されているようなものです。
一度転落したら這い上がるのは難しいと思い込ませるのもここにあると考えています。そしてそれらの脅迫的な、また経済的な理由も絡みますが、社会からの無言の圧力が、親の焦燥感を煽っている。

私自身、素人ながら長年文章の世界にしがみついていて思うことは、何かの比較対象から評価をしだすと、大事な「骨」、つまり「アイデンティティ」がグラグラに揺らいで、ひどい時には見失ってしまうほどになりました。
なかなか思ったように日の目を見ることがなく、遅筆、力量不足もあいまって、挫折感も大きく、時として批難もされながら文章世界に食いついているわけですが、人間「自分以外のものにはなれない」のです。何かとやっていると自分の中で「大きな手応え」「今までにない感触」「誰にも評価されないが、どうも止まらない衝動がある」といった感覚に見舞われます。
ここに「個性」や「魂の骨組み」が潜んでいます。

「自分」というもの「アイデンティティ」とは何かを考えたとき、やはり心の中に一本通る「骨」のようなものが必要で、その「骨」は「自己肯定感覚」から養われるものと実感しています。
血の繋がった人間に人格・存在にまで踏み込まれる否定をされると、ふにゃふにゃの骨の状態である思春期では、曲がって形成されてしまう。
それを矯正するのに十年とか二十年とかを費やすことになる場合がある。
今回番組で指摘されたように「親の過去の抑圧・トラウマの忘却」という意識できないところまで沈み込む場合もある。

叱るのと怒るのとでは違うといいますが、違いは「相手の人間性に踏み込むかどうか」だと考えます。
ついうっかり、子供にとってはうっかりも何もないのですが、親としては「こうなってほしくない」との思いから人格否定までしがちです。

「評価」というものがありますが、とにかく人間は素早く、しかもわかりやすい方法で何らかの自己肯定感を得たいわけです。
そして「100点という理想」から逆に見て物事をあれこれ見て評価し、考えてしまう。
言い換えれば「100点の理想からの減点法」なのです。
親だって完璧な人間じゃない。「減点法」で自らを評価すると精神的につぶれます。
ましてや子供だったら、これから作りあげなければならない思春期のころに、親が「減点法」を用いていたら、子供の持ち点すぐになくなってしまうのは当たり前なのです。

山を一度も登ったこともない、登り慣れてもいない人に向かって「富士山を登れ」なんて言うのは酷じゃありませんか。
いきなり高い山を指差され、「あそこの山頂が正しい。お前はどうしてできない」と言われても戸惑うわけです。
これが「逆算して考える」ということです。

「逆算して考える」というのは「目的」があると非常に計画的に動けるのですが、「目的」と名のつく通り「一通り」の道筋を強く強要してしまうことになる。
そして最も注意しなければならない「否定語」は道から少しでもそれると、すぐに生まれてくるわけです。これが「減点法」の大きな欠点です。
「その道じゃない」「なぜそう歩く」「そんなことでは山頂に行けない」「お前は平坦な道も歩けないのか」
とにかく道から少しそれるだけで苛立つわけです。
常に目的がひとつで、それだけを目指すわけですから。
で、評価する側の人間も評価されているという強迫観念を持つと「100点じゃないと価値がない」という完璧主義に陥りがちです。
これほど辛いことはない。
親もある程度の「適当さ」と「加算法」が必要なのであります。

人間には元々生まれ持ったものもあります。癖も出てきます。好みも出てきます。
自分以外のものになろうとすると「強制」する必要が出てくる。
「強制」するということは「豊かな人間性を育てる」という行為とは、まったく逆で「規格品を作る」ということですよね。極端に言えば。
100から減点していくのと、1から無限に積み上げていくのとでは充実感がまったく違う。

「減点法」だと「自分の持ち点ゼロになった」と思い込んだ時が危うくなります。
親は壊れ、子供は心を閉ざします。
思春期は大事なアイデンティティという「骨」を作る時期です。
この「骨」は「常に立ち返るべき自身の活力」となります。
否定ばかりを与えられ、これが作られず「自分の戻るべき中心」を見失っては、本当にめちゃくちゃになる。
一歩進むのでさえ怖くなる。
生きることに言い換えれば「生きることに価値を見出せなくなる」と言ったところでしょうか。
そして否定癖がつく。
「どうせ私はこうだからできない」「何をやってもダメだ」「ダメな自分は生きている価値ない」と否定的な負のスパイラルは続いていく。

私たちは何かから比較し、評価し、物事を断定する癖が抜けないわけですが、そういう「減点法」から「加算法」へシフトするにはどうすればよいのか。

「現状肯定」の一言に尽きるわけですが、この「現状肯定」は「徹底的な観察眼」によって生まれてきます。
評価や比較を持ち出すと「想像」が入り込んでくる。
この「想像」こそ、目の前に立っている人との「障害」「溝」となります。
大事なのは理想の誰かではなく、今まさに目の前に立っている一人の人間そのものと向き合うことなのです。
向き合うというのは自分のことも知っていないといけない。じゃないと自己紹介もできないわけですから。

思春期のころはアイデンティティを作るための大事な時期です。
どの山に登り出すのかもわからない。親が指し示したものとは、まったく違う山に登り出すかもしれない。
一歩踏み出して二歩目を踏み出す。
その一歩一歩の繰り替えしなのですが、それが長い。子供と親の歩幅は違う。
有名な歌の歌詞でも「幸せは歩いてこない。だから歩いてゆくんだね。…三歩進んで二歩下がる」なんてありますが、目標というものから比較評価(逆算)して見ると「足りないところばかり」が目について、腹立たしくなる。
しかし失敗よりも恐ろしいのは立ち止まってしまうことなのです。
私はいつも億劫になったとき「ゼロよりもはるかに大きい。意味のあること」と考えることにしています。
あらゆる自発的で前向きな行為は「ゼロよりもはるかに大きい」。
心理的に立ち止まってしまうと、それが後の大きな後悔になってしまう。
なんとなく、暗い過去になってしまうわけです。
ようは「失敗をする前進」よりも「失敗を恐れて一歩も動かなくなる」ことが一番の損失だということ。
失敗ばかりが見える「減点法」だと、失敗ばかりを責めて一歩も動けなくさせてしまう可能性が高くなってしまう。
「心理的な呪縛」が大きくかかり「一歩も動けなくなる」のです。
「否定語」は「呪いの一種」であると考えると意識も多少変わるのではないでしょうか。

私、幸せな人生ってなんだろうと考えたとき「自分の人生に納得する」ことが今のところの答えになっています。
これはいくら失敗しようと、どんなに罵られようと、これは自分が選択したこと、自分の不幸、自分で勝ち取った幸せ、と納得できるのが幸福な人生なのだと考えます。
その時大きな挫折や失望や失敗を繰り替えしますが、まだ「骨」みたいなものが残っていれば人間の魂いかに傷つけられようと再生していくものなのです。
その「骨」はいかにして作られるかといったら、「自己肯定感」なのですね。
何度も諦めようとしたとき、ふとあたたかな行為をいただける。
その時「やっててよかったな」と思うわけです。
これが、他人から強いられると、心理的にちょっと違ってくる。
「ああしなさいこうしなさい」と言われ続け、それに従うだけのことをやり続けると、何か困難があったとき人のせいにしだすわけです。
「意志」が育てられないままくると、自分で選択したものも何か強制されたもののように感じてしまう。
それで原因を探し出すわけです。
当然原因は過去に遡り、あの時のあいつが、こんなことがなければ自分は、などと自分以外の物に原因を求めだし、それを永遠と責めつづけるのです。
魂の骨、自分の中の戻るべき場所を失うと、だんだんこういう癖が染み付いてくる。
そうなったら這い上がることは難しくなる。
「理想の答えへと一直線」へと進ませることにおいて、道を外れたときの大きなリスクです。
しかも子供からも柔軟性を奪いかねない。
人生の答えなど無数にあるのに、決められたものしか答えではない、みたいな考え方は「一列に並ぶ社会」においては非常によいかもしれませんが、「多様な社会」の中では弊害になる。

私は親が子にしてあげられる最大の贈り物は「あなたがこの世界に生まれてきてよかった」と最大限認めてあげることだと思うのです。
「減点法」から「加算法」へのシフトをするためには「現状肯定」なのです。
これは「すべてに対して許しを与える」ことではなく、「失敗しても二歩下がってもそれでいい。まだ先がある。一歩進んでいるだけでもはるかに意義がある。前向きな気持ちさえあれば進んでいける」と認めることなのです。
これは親にとっても幸福なことだと思います。
周囲の圧力、評価、環境から与えられる「〜しなければならない」という物事への執着心は、とても簡単に抜けてくるものではありませんが、「一歩進んでいる所をきちんと見てあげられる」ことが子供自身の「自己肯定感」に繋がり、互いにとっての「魂の評価」になっていくのではないでしょうか。

最後に、クローズアップ現代のスティーブ・ジョブズの記事からジョブズが発した一言引用させていただきます。

〜目の前にきれいな女性がいて、口説こうと思ったときに「実はライバルはその女性にこんなものをプレゼントした」なんていう発想をした時点でお前負けだろう〜

素敵な人と結婚する際「この人にはもっといい人が世界の中にいる」なんて発想をしたら結婚なんかできないのと一緒ですね。
「豊かな人間性」は「豊かな長所」から。
それを見せているから「素敵な人」に見えてくるわけです。

大変まとまりがなくなり長くなってしまいましたが、何かのご参考になれば幸いです。

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12/14

Wed

2011

なぜ、親は子供を「殺す」のか。 クローズアップ現代 「やさしい虐待 ~良い子の異変の陰で~」

番組の中で思い当たる節があり、指摘されていない部分があった。
それは、母親のノートが一番典型的だったが、「大嫌い」「私の努力を返して」など、子供の育ってきた環境・人格形成そのものを否定する単語を使っているということだ。

大人になってみればまったく気がつかないことだが、子供時間にとっては、たかだか10年でも「一生分の時間」である。
これが30年40年暮らしてきた人間との大きな違いであり、例えば30の時に言われる否定が、ある程度「私のすべてを評価されたものではない」と分散でき、過去の経験上新しい手段を模索できるものが、子供にとっては「一生分を否定された」となり、大きな衝撃となり、経験乏しい人生の先行きを曇らせる。
今回「虐待」とつけていたのは、いささか過剰ではあるが、注意を引きつける言葉としては充分だ。

特に親が気がつかないことがある。
それは「小さな否定語」である。
これは「こうしてはいけない」というメッセージ・態度が毎日重なり子供が身動きが取れなくなるということだ。
子供は何も分からない。
だからこそ子供なりに模索して悩んでいる。
一生分の知恵と経験をフル活動させて毎日考えているのだ。
例えば一日一つの否定語を与えるとしたら一年で365回も受けていることになる。
これを大人の立場で想像していただきたい。
一日5回ずつ。
毎日自分の存在、生き方を否定されたらどうなるか。
おそらくほとんどの人間はおかしくなるのではないだろうか。
それでも「社会に慣れるためには耐えるしかない。それが稼ぐことであり…」「社会に出ればこんなことは当たり前のことで…」と考え出す方、ちょっと待っていただきたい。
子供の人格形成をする上で最初から「人間性を否定する考え」を押し付けていることに気がついてほしい。
と、これらの意識改革の前に実は親自身が子供時代に抑圧された、親から与えられたものをリレー形式で子供に与えている、という点が指摘されていた。

これは私の実体験から照らし合わせても、よくわかる。
父親が口であれほど嫌がっていた、コンプレックスを持っていたいくつもの事柄を、そのまま祖父から受け継ぎ、子供へと与えつづけていたことを父が無意識にしていた。
この日本は家族の問題の根本を語る前に「世話になっているから」「食わせてもらっているから」「社会では」「常識感覚」という「上からの考え方」が強く、子供心にも非常に反論し辛い環境があったのを覚えている。
当然先ほどの「否定語」の問題に立ち戻れば、私の場合は「逆らわない方がこれ以上責められずにすむ」という解決法を導き出し、意見を聞かれたとき、一切口を開かないことでやり過ごしてきた。実際どのように責められようが、この方法が一番効果的ではあったが、親は「都合が悪くなると黙り込む」と私を責めた。そんなことはどうでもよかった。問題は「苦痛を受ける時間の削減」に自身の意識が絞られていた。
そんな積み重ねが身動きを取れなくさせ一番大事な「自発性」や「意志」を著しく削ぎ、問題解決への活力を失わせ「無気力」「無関心」「不安」「意味のない焦燥」「突然の怒り・苛立ち」が止まらなくなる。フラッシュバックのようにストレスを受けた拍子にくる。それはまったく違う考え事でのストレスでも引き金になるので正直30歳を過ぎた今でも困っている。

番組の中で不登校になっていた子供がいたが、当然だといえる。
子供も親が何を言うかわかっているのだ。
だからこそ、「親に相談しても何も解決しない」「親に打ち明けるだけで苦痛を強いられる」という意識のみが強く先行し、心を閉ざす。
ここでもし「殻に閉じこもってばかりで」と言ったら、もう崖から海へと背中を押してやるようなものである。

作家の重松清さんがとても重要なコメントをしていた。
それは親が子供の将来を不安に思うあまり「どうすれば幸せになっていくのか」よりも「どうしたら不幸にならずにすむのか」を考えているという点だ。
つまりここに「肯定語」が多くなるのか「否定語」が多くなるのかの差がはっきりと出てくると考えるのだ。

人間否定すべきところなど、いくらでも出てくる。
誰しも未熟だし、子供なら余計にそうだ。
社会や周囲の世界のことを何も知らない子供に「社会ではこうだから」という考え「常識感覚」からの締め付けを行えば当然「否定語」が多くなるに決まっている。
ここをぐっと我慢して「この子が幸せに思うことは何だろう」と子供自身を観察することで「肯定語」が多くなるのではないだろうか。
ここで重要なのは自分が持っている価値観をまず子供に当てはめないということだが、恐らく親自身が一種の強迫観念のようなものにとらわれているから「これはダメ」「どうしてできないの」と焦るのだろう。
それでは逆に親自身が追い詰められるのは当然なのである。

「個人の幸せを考える」ということは言い換えれば「社会の評価」以外のところで何か褒めた部分はあるか、という点が最も「個性」という「目に見えない評価」、言い換えれば「人間性」を育てることに繋がると考えるのだ。
躾というのは最低限学んでおくべきことだ。
身につけることは一朝一夕ではできない。
何度も繰り返しが必要になる。
教えられるだけでは養われない。
自発的に考えなければいけない。
自発的に考えるということは大人が知っていることを子供へコピーさせることとは違うのである。押し付けられるだけでは「身」につかず、考えなければ「美しく」ならないのである。自発的な行動と行動への考察。この二つができて「躾」として身につく。

躾をするさい子供の考えに対して口をつむんでいることができるだろうか。
最後まで意見を聞いて、それを肯定的にまず捉え、なぜ子供が「それを正しいと考えるのか」最後まで引き出すことができるだろうか。
ここでいきなり上から「それは違う」というのは簡単なのだ。
上からの姿勢が、やがて子供の自発的な考えを殺すことがあるかもしれない。
極端に聞こえるかもしれないが所変われば常識も変わる。例えば海外。そこまで行かずとも日本国内で異文化を扱う場合。違う価値観と対峙した場合。
そんな時大事になるのは一つの「答え」に固執することではなく、多様な手段を模索する柔軟性なのだ。

ここからが重要な点なのだが、通常親は自分のコンプレックス、思春期のストレスを思い出せる人は少ないだろう。
私はメモに取っていたので思い出せるが、40ぐらいの人が日記も見ずに思い出せるだろうか。
それよりも自分には、そんな抑圧された問題はない、うまくやってきたのだ、なぜ子供はできないのか、となりがちである。自分がやってきたことを他人がうまくできる保証はないのに何故かそう思いがちだ。
自分の嫌だった部分は心理的にも「忘れる」ことで「心のバランス」を取っているため、抑圧されたものが思い出せない、思い出し辛いのは当たり前だ。
よってこの「抑圧された心理」をほじくり出すとなると非常に苦痛を伴う。
ここは自分一人でやるには重荷になってつぶれてしまうかもしれない。
もし辛くなり心理的に苛立ちや悲しみや不安などが多くなれば、必ず底に潜んでいるが、無理に引き出さずにカウンセリングを受けた方がいい。

自分の悲しい過去を思い出す、特に忘れたいほど辛いことを思い出すことは誰でも嫌がる。
しかし、ちょっと待てよと、ふと思い返してみて、私などは自分が受けた苦痛の遍歴、そこから立ち上がったという過程を「正解」だと無意識に他人にも強いている癖に気がついた。
あれだけ自分も嫌だと思っていた父親の否定癖がいつの間にか口からポロッと出ている。
出ずとも思うようになって言いそうになる瞬間がある。
意識的に抑えないとなかなか辛い。言えば楽になるが当然嫌われる。
そう、コンプレックス、抑圧されたものを出せば「スッキリ」するのだ。
思い当たるふしはないだろうか。子供のことでうまくいくと「スッキリ」することがあり、逆だと「苛立ってたまらない」ことがあるとしたら、自分の過去を思い返し紙に書き出してみることをお勧めする。
必ず何か出てくる…だが、先ほども書いたように蓋をしたものをこじ開けるのは困難な作業なので一人でこれ以上はダメだと思ったらカウンセリングを受けることをお勧めする。
子供は親の道具ではない。こうなればよいと思いがちだが、子供にとっては迷惑かもしれない。それを逆手に取ってあえてやり早く親元から出て自由に過ごせ、という作戦を取る親もいるが、普通は押し付ける。逆手はそのまましっぺ返し・逆効果になることが多い。自分の思い通りになってくれたら、それ以上幸せや充実感を感じることはない。いつの間にか「子育て」が「プロジェクト」になっている。

不登校の子供が少子化なのに横ばいになっているということは「著しく悪化」しているのだ。
最悪の場合「将来的な自殺の引き金」になることを頭の隅に置いていただきたい。
親も「なぜこんな子が生まれてきたのか」と思うことも不幸だが、子供から「こんな親に生まれたくなかった。なぜ子供を生んだのか」と思われながら死なれると、もう取り返しがつかない。成人になれば最終的な引き金は「社会」が与えるが、自己肯定をしている人間は自殺しない。
脅すわけではないが、やっぱり子供心に追い詰められ過ぎると自殺を考えたりするものだ。
お互いにとって不幸な環境を打開するためには、まず立ち返って「自分の環境」から考え直す必要があるだろう。
思いのほか、脅迫的な焦燥感を持って子供に接している自分に気がつくかもしれない。
子供はその「雰囲気」を敏感に察知している。


関連記事:
子供を潰さないための「躾」という減点法からのシフト
「子供」という「規格品」 自殺者から見える「死ぬほどの悩み」

2012年2月21日追記
「賢さを褒めるより、努力を褒めた方が人は伸びる」という研究結果。
頭いいねと褒めると失敗を恐れるようになり、努力を褒めるとチャレンジしたくなる、ということ。
「より速く適切に学べる人」:その理由(WIRED.jp)

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あさかぜ(光野朝風)
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気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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