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あさかぜさんは見た

日記

01/16

Fri

2026

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10/08

Sat

2011

もう何を書いていいかわからないや、という状態でも、ほんの少しだけ光明があって、すべて焼け野原になってしまったと思っても、その灰が土を潤す肥料となり、新しい芽を育てていったり、その状態を「すべての終わり」だと思わなければ、続けていくことができるのだと、そういうことなのですね。

いやあ、しかし今回のはちょっと衝撃が大きくて、「絶対これで大丈夫」だと思っても平気でかすりもしないというのは、実力なのかそうでないのかわからなくなり、むしろいちいち一つ一つの勝敗を分析すること自体が、現時点では悪いのかとあれこれ考えたり、考えすぎるのがよくないのだと思ったり。

ここ2,3日は相当落ち込んでいたけれど、また進みださなければいけないし、今更他の道歩もうとか考えても、せっかくここまで積み重ねてきたものを捨て去るのももったいないし、何よりも自分がきちんと自分の信じている事柄を証明するのだと息巻いているのだから、進まなければいけない。

でもここにきて、本当に傲慢さや欲望とは、さようならをしなければいけないのだということがしみじみ体感できてきた。
衝撃を受けたということは、何かに決別したのだろう。
真面目にやってきたつもりだったけれど、まだ足りないみたいだ。
遠い、本当に遠い。

結局、すべて消してしまおうかとも考えた。
過去の日記はもっとひどいものがあって、見るに耐えなく、また不遜で傲慢だ。
どうしてだろうな、どうしてこういう性格の子が育ったのだろうと我ながら思う。
臆病で、気が小さいのに、誰かを見下していて、棘がある。
誰にも相手にもされなくて、腐っていて、人を憎んでいて、信用していない。

今日はよい天気だ。
日光を浴びながら思う。
まだこちら側でやり残したことはあるのだろうか。
だとしたらそれは何だろう。
とにかく、今は立ち止まらないことこそ一番大事なのだろう。

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10/06

Thu

2011

スティーブ・ジョブズ



私も今になって少しずつわかってきていることがある。
愛があれば、自然と向上心が出てきて、自ら進んで行こうという気持ちが不思議と沸き起こるということだ。
人生における最上の幸福とは、愛せるものを持つということなのかもしれない。

時代の象徴たる人が亡くなりました。
ご冥福をお祈りするとともに、よい財産となる言葉をありがとう。

Stay hungry, Stay foolish.

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10/03

Mon

2011

多くの人にとって「幸せ」の感覚は「充足感」にあると思う。
そして「充足感」とは「欲望」と非常に結びつきやすいので、自己の欲望・願望を満たされている状態を「幸せ」と考える人が多いのではないかと思ったりする。

母親に「笑ったらえくぼあるんだね」と言われた。
私はないと思っているけれど、「初めて見た」と言われた。
30年以上もいて、私も初めて言われた。
私はその時つい言ってしまった。
「それだけ笑いあわない家族だったんだよ」と笑いながら。

その後、幸せとは何かを考えた。
どんなに満たされていようと、笑えなくなったら不幸なのではないかなと思った。
どんなに物質的に満たされていても、他人から恵まれていると言われようとも、乾いた笑い、蔑む笑い、人を馬鹿にした笑い、などなど、どこか「犠牲」を伴う笑い、難しいが、とにかく笑った後に孤独感を得たり、何か他のもので補わなければならない笑いなど、本当は不幸でしかなくて、ただ幸せなのだと思い込みたいだけではないのだろうか。
その意味では「ストレスを発散させるためだけに笑う」というのも負の側面を持ちやすい。

幸せに笑いあうこと。
これはどういうことなのか、時折振り返って考えることがある。

最近気がついたことがあって、渇望しあっているものは互いに奪い合うということがわかった。
これは充足感がないから与えるものが既に見せ掛けで、与えるよりも奪うことに重点を置いているから、隙あらば、いや、通常の状態でさえ、何かを奪い合って、黙っていればいずれ枯渇してしまうという状態を招く。
豊かではないから、足りないものを奪い合うしかなくなってしまう。
物質的に恵まれていても「貧困」があるのだとしたら、この「心の貧困」から来る「物質の奪い合い」だろう。
だから金を奪い合ったり、システムの中で搾取を行ったりしても、平気でいられる神経が出来上がったりするのではないだろうか。
いやいや、こういうことに答えを出すにはまだ浅はか過ぎる。

少なくとも家族において、小さな集団において、幸せとは何かと問われれば、心底笑いあえるということなのではないだろうか。
先日、マンションの住人が創作物を持ち寄って個展を開いた。
1階のスペースを使ったのだが、ほとんどが60~80の人たち。
打ち上げに参加したが自分だけが若くてほとんどはその世代。
隣人を知り合うことは防災にも繋がるというコンセプトでやったことだったらしいのだが、打ち上げで酒を飲みくだらない話で笑いあっている姿を見ると、ああ自分の苦労などこの人たちから比べれば本当にちっぽけなものなのだろうな、と感じた。
それだけ心から笑いあって楽しんでいて、晩年をやりたいように過ごしているという印象を受けた。
よい、年のとり方を見たような気がした。

自分は誰かを幸せに笑わせられるだろうかと考える。
世の中は別の理屈で動いているかもしれない。
だけれど集団や世界の理屈よりも、個人がいかに笑え、その幸福を個人が分け与えることができるのか。
これが豊かな集団を作るために最低限担保しなければいけないことのように思ったのだ。

あなたは誰かの心から笑った姿を、見たことがありますか?
そう問いかけたくなる気持ちすらももった。
私たちは、たった一ヶ月でさえ、誰かを蔑まずに過ごすということができないのではないだろうか。
いや、少なくとも私はよくよく反省したい。

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09/26

Mon

2011

久しぶりに歌を歌った。
思いのほか喉が多少よく、3曲くらい歌ってもぎりぎり喉が持った。
というより、ちょっとしたハプニングでバーで飲んでいたお客さんに「一緒に歌いませんか」と誘われて歌ったわけだが、歌には想い出がたくさん詰まっている。

その日ではなかったが、「この曲知らないだろうな」と70前後くらいの人たちの集まりで曲をかけられ「思い出の曲なんですか?」と聞くと「我々の青春時代の曲」と言われた。
音楽には時代を彩るものや、想い出を彩るものがある。
昨日のお客さんだって「この曲ね、死んだ友達が歌ってた曲なの」と目頭を熱くさせていた。
歌を一緒に歌って、時間を共有する。
言葉と音楽を共有する。
珍しいことではないかもしれないが、今の私にとってはとてもうらやましいことだと思った。
というのは、小説は一人で感性を巡らせて色々と妄想して読んでいく。
どうしても一人の作業になってしまう。
例えばこれが読書の感想を言い合うにしろ「私こう思った」と言い合うには多少のずれが出てくる。
本当はこういうずれを楽しむべきなのだろうが、日本人はそういうのがとても苦手。
「同じ空気」を作ろうとし「空気にあわせようとする」のがマナーだと思っている。
当然小説は感性の統一、見解の一致を目的とするのではなく、多様な解釈と多様な感性を育てることを目的としているので、音楽を聴きながら漠然と感じている雰囲気を共有する歌とはだいぶ違う。
じゃあ音楽みたいに共有できるものは何なのか。
ずっと作者が共有できるものを読者に対して問い続け、橋をかけていく作業を小説だと思っていたが、もう少し考え直してみる必要があるかもしれない。

小説を懸命に書いている人というのは、やはり読んでくれた人の心の中に一石を投じたいという願いを込めて書いているものだと思っている。
そしてその思いは誰かと共有できることがあるのだろうか。
たとえば誰かと誰かをつなぎ合わせることができるだろうか。
逆もきっとあるかもしれないが、ひとつ、ヒットソングのように誰かと共有できる作品ができたら、また一歩大きく前進できるだろうと感じた。

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09/22

Thu

2011

他人の写真を見てふと思うことがあった。
なんでもない日常を並べることによって絵になる。

自分の写真は綺麗なものを探そうとして撮るものを見失っている。
つまり自分の望むものを思い描くあまり日常に落ちているちゃんとした絵になる数々のものを自ら見落としているということになる。
これは致命的なことだし、作家の視点としてバカらしい。
書けなくなるのも当然だろう、と思ったりする。

先日バーでたまにカウンターで相席するおじさまにおごってもらった。
女の子がいるお店だったが酔っ払って抱きついて呂律が回らなくなったりして大変だった。
普通のお店でも見知らぬ女の子を口説こうとするので店側としてはいい迷惑だろう。
でも何かとてつもなく親近感を感じる。

伊集院静の「大人の流儀」だったと思うが、「きちんと大人になっているものは10人中1,2人ほど」という記述があった。
そんなものなのだろうか、といまだに「大人」というものが何かわからず、一応は「大人は常に洗練させていくもの。さもなければガキ」というイメージで捉えている。

当たり前だが物を書く時は1人じゃないとできない。
それも何ヶ月も1人でもくもくとやる。
誰のためでもないかもしれないが、一応は自分なりに誰かのためを意識しては書いているが結局は「自分のため」なのだろう。
だから孤独は当然抱える。
本音はあっても話が通じないから話さない。
愚痴っても自分で解決するしかないから言うだけ虚しくなる。
という具合で色々1人で抱える。

自分は会社勤めをして誰かの指示通り動くことができず、自分で納得できなかったり消化できなかったり考える時間がなかったりすると止まる。
すぐいっぱいいっぱいになる。
人見知りもするので体が固まったりする。
人前では結構頑張って、終わった後脱力する。
そんな感じで、こんな物書きなんてことにしがみついているのだけれど、40,50代の抱える「オヤジの孤独」というのが嫌に理解できて困る。

酔っ払って女に抱きつく家庭持ちの男となると、家では上手く言ってないのか、友達がいなくて色々溜め込んでいるのか、だから変な形で歪んで出てきてしまうのか。
酔っ払っているからと言って、そのことを全員が免罪符として見てくれるのかと言ったら、ほとんどがNOだ。
かく言う自分も酒でだいぶやらかして、知り合い友達から遠ざけられているのでよくわかる。
例えば見た目は酷くとも心の奥に酷い孤独ややりきれなさを抱えている人を見ると、酷く親近感を覚えてたまらなくなってくる。
自分を見ているような気分になるのだ。
俺はわかるよ。その孤独が、と。
しかし他の人にとっては酔っ払って絶対一緒にいたくない人だろう。

人は、自分の見たいものを見ている。
自然と選び取って目の前の景色や情報を受け取って心に残している。
写真を撮っているとよくわかるのだが、他人は自分の感じない景色を平気で撮っている。
自分が見た時にはそうでもないのに、他人のフレームに納められた景色には何故か特徴がある。
それは雑草の生い茂った原っぱでも、何気ない住宅地の景色でも、切り取られた景色から何を思ったのか伝わってくるような気がする。

いいな、とも思うし、うらやましい、とも思う。
自分も日常の何気ない景色を大事にして、そこから絵になるものを切り取りたいと思うが、なかなか見えない。
「見えない」ということは「心の中に何かがない」ということだ。
きっとわかったら見れるようになるのだろうが、わからないから見れない。

都会は「日常」というものを「作れる」。
当たり前のさりげない日常をお金を使って変えることができる。
よく考えたら、不自然さが当たり前になっている。
お金を払えば日常をある程度まで変えれるということに何の疑問も考えも持たない。
当たり前だと思っている。

写真を撮る時、自分の望んだ景色を作り上げるには莫大な金がかかる。
ほとんど個人の力では不可能になるため、出かけて待ったりする。
自然なものと寄り添いながら自然のほうが来てくれるのを待ったり、ばったり出会った偶然を迎え入れたりする。
しかし人が作り上げて出来上がったものには偶然はない。
作ったものを取り囲む人が偶然を作ることはあっても物は偶然を作らない。

だからいくらお姉ちゃんのお店で金使ってよい常連になろうと、好きなことしようと、金が切れればそれまでになる。
寂しいものだ。
酔っ払って現実を忘れようと、明日にはまた日常が待っている。
その日常とは一体なんだろう。
今まで考えもしなかったし、ほとんどの人は生きていくために普通に日常を生きている。
お金を稼いで食べていくという行為の中で人と関わっていく。

今の自分には日常が欠けている。
日常がなんだかわからない。
そしてその先の「自然」ということも一体なんだかわからない。
漠然ともやもやとした霧のようなものが広がっている気分にもなってくる。
よい写真が撮りたい。
よい文章が書きたい。
しかし「いいもの」って一体なんだろう。
またくだらぬことを考えて立ち止まる。
そして動けなくなる。
こういうことをやりだすから、社会人というものからドロップアウトしてしまい、唯一人生の中で諦めずに続いている物書きという行為にしがみ付いている。

きちんと目の前の景色を見るために、心を作らなければいけないのも、仕事のうちかもしれない。
自分に負けずに。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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