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あさかぜさんは見た

日記

01/16

Fri

2026

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07/24

Sun

2011

少し整理ができたので書く。
先日腹が立ったのは店長から「乞食」と言われたことで一気に吐き気がしてきたのですな。
一年ちょっとぐらい顔見知りの親しい店員から2杯奢ってもらい(4杯目)、そして2度目に会った客(中年のおじ様)に店長が「じゃあ一杯いただきます」と言った時、そのお客と話が乗り酔いの勢いもあって調子に乗り「じゃあ(飲んでいる店員からの2杯目の分)俺もいただきます」と言った時に言われた(つまり店員からの2杯目は、奢りを店員からおじさまへシフトさせた)。
その前には(同じ日)確実にこちらに非がない状態で私への蔑みとも取れるような発言を私が出会った初めての人に言っただけに、少々苛立っていて、「乞食」発言が最後の留めになった。

よく考えてみれば確かにみすぼらしいかもしれない。
その奢ってくれた店員には書いた文章などを渡したりしていたし、書いた文を買ってもらったりしていたけれど、そういうやり取りは店長からしてみれば理解できないことのようだ。
2度目とは言え、おじさまにも馴れ馴れしすぎた。

人からどう見られているかを意識しすぎることはないだろうが、不用意に不愉快にさせる必要もまたない。
これからもっと厳しいことが起こることが容易に想像できるだけに、人と接するときは最大限の敬意を払いながら進んでいかなければ、こうして何日も別の感情にエネルギーを割かれ、そして精神的に疲れて使うべき場所に全力で力を使えないという本末転倒な状態に陥ることだって充分にありうる。

そして今まで無様でみすぼらしいことは百も承知していたが、そろそろ自分がどうやって生きてきたのか、今までの人生とは何だったのか、ゆっくりと整理するべき場所へ来ている。
日本を出ることも視野に入れているだけに、日本人として、現地の人から見ての外国人として、確実に磨かれきったところがなければ通用しない。
変態だろうと頭がおかしいだろうと最低だろうと何を言われてもいいが、せめて自分が作り出すものだけは確実に磨かれたものでなければいけない。
それを生み出すには別のところに感情や精神を大きく吸い込まれるわけにはいかない。

今回はとてもよい勉強をさせてもらった。
まだもやもやとした怒りとも悲しみとも虚しさとも不安とも蔑みとも言えるような感情が広がっていこうとしているが、いつまでも子供でいることは許されない。
これから、世に出て行くのだから「美しくあること」というのも考えないとね。

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07/22

Fri

2011

自分が悪いのだけれど、久しぶりに怒りを感じる言動を受けた。
怒るって感情あまりなかっただけに、ある意味新鮮。
怒りを燃え上がらせると、虚しさと悲しみも一緒に同居するようになるのだな。

お金が流通している中でお金ではないもので物を交換する難しさと、お金で取引している中でお金ではないもので取引しようとした時に、どのように見られるかというのが実感としてよくわかった。

ただ、ここらへんは本人の価値観と本音が一番に出るところかもしれない。
価値観を共有できない人間とは取引ができないし、理解されることもないだろう。
人って少しでも相手のことを尊敬していたら軽んじるような発言なんて出ないだろうし、配慮も出てくるとは思う。

通常怒りを覚えると自分のことが客観的に見れなくなる。
やられたことばかり考えて一日中でも繰り返しては腹立たしく思ってしまう。
自分が何故そのことを言われたかとかは考えずに被害を受けた、相手が悪いとばかり繰り返しイメージして憎しみを積み重ねていくのですね。

かつては憎しみに支配されていた時期があったので、よくわかるのです。
今でも刺激されれば湧き上がってくるので、消えていくかどうかもわからないけれど、きちんとプライドを持って、その誇りのことを考えていると、他者のプライドも尊重できると思うのだけどな。
そうではないのだろうか。

言った本人っていうのはだいたい気がつかないのだよね。
どれだけ人を傷つけたとか、私もよくあったので、知らないうちに嫌われていたとかありました。
よく考えれば心当たりがあるけれど、その時は軽い気持ちで言ってしまう。
そして重大かつ修復不可能な溝を作って関係が途切れてしまう。
特に相手を軽んじていたり、自分の立場を勘違いしていると言い易いような感じはします。
だいたい軽口叩かれるのは妙に自分を誇っていて、やたらと、理解が得られない=たいしたことない、みたいな考え方をするタイプでしたよ。
私もそうだったから、そこらへんの感情の動きは手に取るようにわかるんだなこれが。

目の色が変わるのですよ。
急に冷めるというか、瞳の奥に感情がふっとうごめく。
その時「ああ、この人こういう価値観軽蔑しているんだな」ってすぐわかる。
互いが互いの価値観受け入れて、共存してそして新しい価値観をつむぎだしていくというのは理想だけれど、そんな理想的な社会はほとんど実現されたためしがないと、どこかで読んだ気がするけれど、自分の場合にも照らし合わせてみると、なかなか違う価値観を理解するには相手が立っている状況、そして背景までもじっくり理解していかないと、とてもじゃないけれど理解はしきれない。
それだけ時間がかかるし難しいし、最初に拒否反応など出てしまうと、またそれが大きな壁となって、最悪の場合衝突となって、状況が悪化してしまうこともある。

ちなみに、私は憎しみを執念に変えて生きているところもある。
のし上がって華麗なる復讐をしてやろうと思っている。
それは彼らがとても手の届かない場所にまで這い上がり、彼らから学んだ反面性から世界を作り直すということだ。
つまりは「俺のほうが正しい」という証拠を、この世界に残す。
そうでもしなきゃ首くくるしかないものね。
生きている価値がない。

自分を徹底的に叩き壊して作り直さなければいけないほど難しいことだけれど、不可能なことではない。
人間、自分の信じている世界だけが正しい世界ではないのだということを理解するのが、一番難しいことなのかもしれない。
理解するには、怒りの負の力を、とことん正の力に変えていく力量が絶対に必要になる。

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07/20

Wed

2011

虚飾の時代の終焉

「~離れ」という言葉が随分放たれている。
それを言えるのはいわゆる「バブル」の時代に盛んだったものが廃れているということを遠まわしに表現しているだけで、離れているわけでもなんでもなく、時代が変わっていることを認識していないだけの話だ。
右肩上がりのときは「消費」をすることで豊かになった。
しかし今は逆だ。
「消費」の中で、本当に「消費」しているものがあり、その「消費」こそ「犠牲」そのものであったのだと少しずつ人々が認識しだしているように思う。
経済が悪いせいではない。
経済を維持させるために「消費」していたものは何なのか、ほんの少しずつだが考え出すようになってきている。
これからは嘘を操るものではなく、本物を操るものだけが生き残る。
夢というものがまるできらびやかなように見せられてきた時代。
そのきらびやかさの中で自由を感じてきた時代。
しかし古今東西の歴史が示しているように、飽食の時代は長くは続かず、必ずその後滅びの道をたどっている。
人は欲望を拡大するだけでは生き残ることができず、必ず熟しすぎた果実のように腐敗をし始める。
自ら招いた惨事に気がつかず、飽食の時代の夢を忘れられずに自滅していく。
今まではまるで夢が素晴らしいものだといわんとばかりだった。
夢を見せて夢という餌に食いつく輩をカモにする。
それがここ15年ほどの夢の世界の動きだったように感じる。
私はその時代の終焉の象徴がAKBのような気がしている。
私は10年ぐらい創ろうと意識して生きてきている。
そんな生活の中気がついたことがある。
気持ちだけではやっていけない。
実力がなければボロが出る。
いかにテレビで持ち上げようと宣伝しようと実力のないものは堕ちていく。
本当に堕落していく。
その堕落は金のために生活のために夢のために大事な何かを失いながら、大事な何かを切り売りしながら、自らを消費させていくという行為だ。
その「消費」は、次の何を生んだのか。
その時代を駆け抜ければ次の時代はよくなるのか。
いや、そうではない。
夢を追いかけるというのは、本当に泥臭いものだと思っている。
泥臭くて、無様だ。
格好のいいものなんてどこにもありはしないはずなのに、編集されて飾り立てられたものが、夢は素晴らしい、夢は感動を生むと連呼されたものが、無気力な人間の目の前の画面でチラチラとするだけだった。
夢の本質を知らないばかりに、夢を商売にする輩に食いつぶされ、結局は「夢を追うのは二十歳までにしておけ」だなんて、希望すらもない冷めきった大人を量産し、誰かの希望すら打ち砕く人間を育ててしまったことは、罪深きことであると思う。
人間一人の力は小さい。
そしてその小ささを心底わかっているのなら、自分が得た力をおすそ分けするような気持ちがあってもいいはずなのに、肥大した欲望のために集まった力を消費していく。
その消費は、その犠牲は、有意義なものであればいいが、そうではない。
犠牲のない選択はないからこそ、次に続く何かを作っていかなければ滅びてしまう。
滅びを防ぐものは愛情であり、愛情があればこそ、次に続くものを育てられる。
自分の好みのものだけを育てるのは「愛玩」であって、「愛情」ではない。
その証拠に、気に入らなければすぐに捨て去る。
「消費」という欲望概念の中にいるからだ。
2011年3月11日。
日本はあの日から変わった。
もう、夢を魅せる時代は終わった。
虚飾が通じる世界は終わろうとしている。
これからは実力のみで積み上げる次代が来る。
そしてその影で亡霊のように情報を操り嘘で制御しようとする輩が常に復活を試みようと息を潜めている。
これからの人は知識も知恵もつけなければいけない。
大変なことだが、頑張ってほしいと思う。
そうしなければ、いつだって悪がはびこる。

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07/17

Sun

2011

出版や本に携わる上で、私が理解していないことがある。
それは「本に興味のない人がいかにして興味を持つようになるのか」ということだ。

私は正直に言うと小説が読めなかった。
面白くないし、覚えられない。
数行読んだら前に読んだ数行を覚えられないので、国語の点数も当然悪かった。
話が覚えられないのだ。
それは「言葉」というものを懸命に覚えようとしていて、現在も言葉を覚えることがとても苦手で、どうやって本を読んでいるかというと「イメージ化」して読んでいる。
当然書くときも言葉が先に浮かんでくるのではなくてイメージを浮かべて、それを言葉に直す作業をしている。

だから映像にはとても興味があって見ていたけれど、小説や本などまったく読めない、興味も持てない、苦痛でしかない代物だった。
言葉が覚えられないのだからしょうがない。

そういう人間が小説を書いている。
それは「頭に浮かんだ映像」をどうにかして表現する方法で一番簡単だったのが「言葉にすること」だった。
だから常に言葉から話を書いているのではなくて、映像を起こしているため、言葉の技術不足を補っていくことができる。
最近、ようやく言葉もイメージ化することができるようになってきたので、小説も少しずつ読めるようになっている。

他の人はどのようにして本を読んでいるのだろうか。
言葉を楽しむ人よりも、これからは「イメージ化」をして楽しむ人のほうが多くなるように感じる。
それが携帯小説のような存在であり、お話として面白い、映像として面白い話が売れるということになるのではないだろうか。
端末で自由に映像を見ることができ、言葉はリアルタイム性のあるものがより楽しい。
誰かとやり取りするダイレクト性や常に変化していく状況。
それに比べ小説は非常に静的なものであり、とても孤独な作業だ。

たとえば掲示板などで仲間がわいわいやっている中、どうして自分は一人で本なんて読んでいなくてはいけないのだろうと思ってしまうかもしれない。
私の十代の頃だって本を読む人は根暗というイメージが強かった。
内気な性格であまり人とは活発に話さない、というような感じ。
現在の携帯小説は、読み物とコミュニケーションツールとしての両方を兼ね備え、さらにそこからコミュニティーを作っていけるという二次的作用がある。

若い人たちにとってのテキストはよりダイナミックな作用を求められていることが言える。
つまりこれって「自分たちの気持ちや実現したいことを代弁してくれるような作用」であるとも言える。
ちょっと前にやたらと「感動」が押し売りされていたのも最初から目的が決まっているのだよね。
むしろ決められたパターン、必然性、ダイレクト性を重視し、偶然性はあまり重要視されなくなってきている。
本もまた家電製品などのようにハズレがないように下調べをして買っていかれる。

これからの現代人にとっての本の作用とはいかなるものになるのだろう。
音楽と同じように本に興味を持たない人はまったく持たない。
このことは教育や業界のせいにするのは簡単だけれど、むしろ都市化の中で崩壊したコミュニティーの再生の中に「本を通して違った感性や知識を共有すること」が度外視され、いまだに「パッケージされたものを陳列する」ということから考えが離れないせいなのではないかと思っている。
音楽は自然と耳に入ってくるが、本には積極的な仕掛けを地域の中に作っていかなければコミュニティーはできない。
志茂田景樹が絵本読み聞かせ隊を作って文字通り朗読をしている。
札幌の本屋で絶版に近い状態でも店長が独自に仕入れて「店長のお勧めコーナー」を設置して本の面白みを伝えようとしている個人書店があるそうだ。

本というのは慣れ親しんでいないと、なかなか読めるものではない。
文章と会話文とはまったく違うし、専門的な言葉、熟語、難しい漢字などが入れば、また読みづらくなってくる。
最初から難易度の高いものを読んでも、本を投げ捨ててしまうだけで、後は読むのが苦痛になる。
だいたい本に慣れ親しんでない人が、きちんと難易度の高い小説が読めるまで道筋を立てることなんて不可能に近い。
知っている人が導いていかないといけない。
しかし、そんな本の導きを誰がしてくれるだろうか。
国語の先生はしてくれるだろうか。
身近な人が興味を見抜いて絵本から教養書まで幅広く道筋を立てて紹介してくれるだろうか。
もし、私の小さな頃、こんな風に道筋を立ててくれる人がいたなら、アニメと同じように本にも興味を持ったかもしれない。
そして本を消費するのではなく、横山光輝の三国志のように何度も読み返したかもしれない。
アナログに求められるのは、つっけんどんに分析をひけらかすことではなく、いかに親切心を伝えていくかではないだろうかと思ったのだった。

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07/15

Fri

2011



社会派ミステリーとして、何度もリメイクされ映像化されている松本清張の代表作である。
初版が1960年だから、私の親が生まれた年と言ってもいいくらいの開きがあるだけに古さが浮かぶだろうが、そうでもない。
すらすらと読みやすい文章から、携帯電話もインターネットもなかった時代の忍耐力がうかがえる。
自分としては今西刑事が俳句を読むのだけれど、下手でもつづっていく俳句の登場がもう少しあると当時の風景がありありと浮かんだのではないかと思う。
これを読んでいくつか思ったことがある。
当時としては当たり前の風景が今となっては貴重な資料となりえる、ということである。
だからこそ、方言や今となっては見られなくなった病気のことなど、しっかりと記述しておくことで、その当時の風土や風景がいかなるものだったのかが伺えるのだ。
このことは年代が経ってみないとわからないことではある。
いくつか、ちょっと強引なところもあるが当時のトリックとしては斬新極まりない。
とある機械についても、ヨーロッパでフーリガン対策か何かで用いていたが結構大型、車の上につけていて50mくらい先の人にあてていたから大きいのだろうが、やはり結構な威力を出すには大きな装置が必要になっていた。
昔はどうだったのだろうね。
ただ、松本清張の短編などを読むにあたり、主人公の推理や勘が超人的に冴えている、もしくは執拗に考え抜くところは、作者本人の勘の鋭さ、疑問の持ち方がありありと反映されている。
後半になって、神が降りてきたように事件を述べていく。
ここら辺の文学性の欠如は解説でもちゃんと書いてある。
社会派ミステリーと呼ばれるようになったのも、いわゆる差別となった病気のことや、今の日本でもそうだけれど出世に傷がつくことを恐れる日本人の出世意識が強く出てきているからだ。
経歴に傷がつくのを日本人は恐れているし、経歴に傷がついている権力者を日本人はあまり認めたがらない風潮は強くある。
だいたい大人になると他人の優しさを多少冷めて受け止めてしまう感覚になっていくところ、とても寂しいことではある。
特に過去に対して深い傷があったりすると、人間を根本的に信用していないし、信じられないし、だいたい信用したら裏切られるという、なんとも蟻地獄のような目にあうのは、別に小説だけの話ではないのだ。

ところで方言が最初のトリックになっているところ、方言について考えさせられる。
これから方言ってどうなっていくのだろう、と。
多少は残っているが、この小説が書かれた状況からはだいぶ薄まってきていて、聞き取れないような方言を話す人は若い人ではいなくなってきている。
「私でもおじいちゃんおばあちゃん何言っているかわからない」というのだから、方言もまた資料上の記録にしか残っていかないのではないか、という時代の流れを感じながら小説を読んでいた。
前半戦汗水垂らして地道に動いていく今西刑事や周辺人物の人間味が、後半になって薄まっていき、前半の生き生きとした人間模様のあり方が多少薄味になっているところ、書き方の難しさを教訓として突きつけられる作品でもある。
また長編になればなるほど作者本人が仕掛けたトリックに振り回され、大きな欠陥を生むことになることなど、まるで犯罪者が整合性を取ろうとして逆に不自然になってしまうという創作ならではの難しさもこの本には存在している。

芸術家や批評家が出てくるけれど、これらの存在は内省することで客観性を保っていないと本当に独善的な世界を積み上げて、そこに固執し続けなければならないという事態を招く。
男の人は、本当に力の上下関係に弱い悲しい生き物なのかもしれない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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