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あさかぜさんは見た

日記

01/17

Sat

2026

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02/24

Thu

2011

「想像力がなくなってきている」
そう10年近く前に書いてあったのは、ウェブの本だった。
文章で説明するよりも、写真をつけたほうが反応がよい。
その他にも具体的なイメージ(写真・動画)を提示するほうが、説明するよりも圧倒的に反応が違うそうだ。
アパレル関係のものや品物だけならわかるが本来文章で語られていたものまでもイメージ化されているということだった。
当時、思い当たり節があり、強烈にこの文面だけを覚えている。

文章も、よりイメージ化しやすく、考えない文章のほうが反応がいいことはここ数年やってきてみて実感しているところだ。
そしてこれからも、その流れは加速していくだろうことと思う。
実は本離れとは言われているが、現代人のテキスト消費量はむしろ増えていると見たほうがいい。
そしてそのテキストは若者の場合は個人間で膨大にやり取りされ、大人になるにつれて仕事関連など、ビジネスや人生に関わることが多くなってきていることと思う。

大人も子供も、自分たちのテキストを消費することで精一杯で、作りこまれた文章に慣れ親しむ時間的余裕を割くことができなくなってきているのではないかと思う。
文章より、漫画のほうがずっと楽だし、文章は時間がかかる。
特に信用のない無名の人間の文章が売れるということは、日本では現段階では考えづらい。
そしてこれから消費者層が2極化していくであろう中で、日常の時間に忙殺される低所得者層とある程度お金を持ち時間的余裕がある富裕者層が、それぞれどのように時間を使っていくのかというのをいまいち図りかねている。
このことはこれから社会がよい方向へ向かえば変わるかもしれないが、どうもこれだけ大人しいとこのまま行くのではないかとも思っている。

さて、子供でも手軽に読めて、かつ大人になったら考えなければならないテーマでも書こうとは努めているが、問題はその文章の組み立て方だ。

たとえばこう。

香苗は彼の言葉を聞いてティースプーンを落とした。
上品そうな白いティーカップに当たったティースプーンはキーンと広がるような無機質な音を頭の中へ轟かせ、いつまでも反響しているようであった。
ミルクを混ぜかけていた紅茶は色を変えて回るのを止めようとしている。
香苗は立ち上がり、肩を震わせ、刺すように一目彼を見て、そして笑った。
そして、店を出た。
街を行く人の顔が、皆同じに見えた。


香苗は彼の言葉を聞いて、とたんに悲しみがあふれてくるようだった。
ぐっとこらえた喉元は震え、あふれた悲しみで頭が痛くなるようだった。
香苗は痛みが少し治まると立ち上がり、理不尽さに肩を震わせ、怒りすらも覚えるほどだったが、にらむのを止め、こんなやつに泣いてなどやるものかと笑いかけて店を出た。
もう彼とはおしまいなんだなと思った。


同じことを書いているし、むしろ情報をたくさん含んでいるのは最初の文のほうなのに、反応がいいのは後の文。
作り手としては反応がいいのにこしたことはないけれど、この手の圧倒的な反応の違いに少し悲しさを覚えることはある。
文脈の多さを圧倒的に多くするには最初の文章技術を畳み掛けるように配置していったほうが、大変効果的だが、反応が薄いんじゃ書いていて意味があるのかなと疑りたくもなる。

より直接的な文章が好まれており、そして時間がなく隙間で読むにはイメージしやすいほうが読むほうにとっては頭を働かせずにすみ、都合がよいということだ。
これは想像力を働かせる時間が少なくなってきていることもあげられるが、大人に関しては頭を働かせられないほど疲れてきている、というのもひとつあげられるとは思う。

心中複雑ではあるが、作者としてはこの現代的な流れとどう折り合いをつけるかが一番の問題だ。
しかし作者として一番注意しなければならないのは、媚びだしたらたちまち滅びの道を歩むということだ。
これは芸の道に関してはだいたいそうなる。
たとえば和菓子などは昔のレシピどおりには作っていない。
少しずつ現代風に変えてきているが、もちろん大事なところは変えない。
その見た目の芸術性であったり、使っている技術であったり、そこへの心意気であったりする。

ようは技術職に携わる人間、特に芸事は「粋」であることを失っては続けられないのかなと思うのだ。
芸事における「粋」さとは「洗練されていくもの」にあると私は考えている。
心技体。
これらの技術は一生完成することはない。
だからこそ死ぬまで精進なのだが、この手の「粋」さが多くの文脈を作っていくのかなとも思っている。
折り合いをつけて技術を消し去るようでは本末転倒だ。

元々小説はニッチ産業。
いつか満足できるものが出来上がればと思うが、道のりは相当遠いようだ。

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02/23

Wed

2011

人は変わるが言葉は残る

最初に私信ですが、だいぶ過去の記事まで熱心に読んでいただいてありがとうございます。

この「記録」も兼ねたブログもだいぶ前から書いているのですが、やっぱり過去の記事を見ると間違っているところもあるし、まだまだ甘いものもあるし、それを自分で確認できることは「ああ、自分ちょっと成長しているかも」と実感できることでもあるので、ずっと書いていますが、それ以上に書くことで、「過程」というものをしっかり積み上げることができるので、間違っていたとしても、その時に思った感情や思いを大事にして記録しています。
なぜってそれは、二度と出てこないかもしれないから。

どうしても小説は自分という体を通して書くものですから、自分も一つの観察対象として事細かに記録していかないと、いざって時になかなか投射できなかったりするのです。
その時何を思っていたか、どういう感覚で言葉を出しているのか、その「言葉の皮膚感覚」を記録しておかないと、後日書こうと思っても心の状態が失われているので「嘘」になってしまいます。
それは写真家が写真を撮ることによって、現地の皮膚感覚を記録し伝えようとすることと似たようなもので、私の場合は作品ができる前段階として数多くの「言葉の皮膚感覚」を記録しています。
そしてこのことは20歳くらいに「高校の頃より感覚が鈍っている」ということに衝撃を受けたことから、馬鹿にされようと罵られようと「子供らしい感性を自分の中に失わずに保存しておく」ということでした。

実際、この10年間、生活実態がまともではないことも重なり、罵られもしたし馬鹿にもされたし、白い目でも見られてきたし、元々まともな感覚ではなかったばかりか、ひどく鬱屈した精神を持っていたため、世間ずれし、社会と馴染めず、一人で黙々とネット空間で言葉を残してきたというのが事実です。
それには一つの理由があります。
つまり、いつまでもこの世界にしがみついているのは、具体的にどのようにすれば自分の能力が上がっているのか見えるのです。
これが見えるか見えないかはどの道にいようと、とても重要なことのように思えます。
自分が踏み出していくべき一歩先の道が確実に見えることはもちろんのこと、どこまでいけばひとつの区切りになるのかという、ある程度の先の状態、言い換えれば「自分の節目がわかる」ということは、自分の人生を歩む上で欠かすことのできない要素だと考えるわけです。
そしてこれがなければ、いつまでも迷い、同じところを行ったりきたりし、何かに常に振り回され、自分の力をふるえないまま無気力になっていくことが多いように思います。

目先のことにすら踏み出せない何らかの物理的・精神的束縛があった場合、どのような未来を思い描いていたとしても、踏み出せない場合が多いのですが、人間自分の思い描いたベストの状態から踏み出せるのは極めて幸運な例であり、それこそ宝くじを当てて豪邸を買ってから事を起こすというぐらい、可能ではあっても現実的には不可能に近い確立であるということがほとんどです。
だいたいそのような低確率の幸運を願うようでは絶望するに決まっているのです。
ですから、足りない状態から物事を始めていくというのが人生においては絶対条件だし、その過程の中で節目を作り「準備万端」にしていくというのが賢い生き方だと思うのですね。

このことは「商売」に置き換えるとよいのですが、「~だったらよかったのに」とか「~のせいでこうなった」とか、現状の前でそんなことを言ったからってどうにもならないわけですよね。
時代も変わった、ニーズも変わった、じゃあ自分の今までの状態じゃダメだ。
常に現状に即した形で物事を進めていかないと商売なんてできない。
ないものねだりをしてもどうしようもないので現状に即した形で進み、どうしても欲しいなら自分で作り出すか獲得するか協力を仰ぐかしかない。
これってつまりは「現状に対する全肯定」をした上で次の一手を打っていくという、「現状絶対肯定姿勢」でもあります。
結局「ないものでは商売はできない」という絶対原則でもあり、これを個人に置き換えると「ない自分で勝負なんかできない」ということであります。

弱みがある。
なら補うしかない。
強みはこれじゃないのか。
ならそれで攻めてみるしかない。
やっぱり失敗したよ。
なら失敗を徹底分析してノウハウを蓄積していくしかない。

重要なのは「失敗する経験」だと私は考えます。
この世界には弱い人間であふれています。
私もそうですし、たぶん他の人もそうでしょう。
でもなんとか生きている。
この事実は他社と接する上でのひとつの思いやりにもなって蓄積されていくと思うのです。
だからこそ、そういう人たちにも届くようなものが少しずつ出来上がってくる。
もちろん、弱者を徹底的に無視したサービスもあるでしょう。
高級感を出し、差別化を図るという意味で。
しかしそこでも大事なのは「人の弱さを知る」ことではないでしょうか。
困っているところを自然に補う。
お客のして欲しいことを先回りしてサポートしていく。
こういうことも徹底されていると高級感って味わえますよね。
ある意味こういうのも経験でもありますが「人の弱み」に関することでもあります。

そして弱みを知ることは何かを育てることにも直結していくことを実感しています。
対象の弱さを知り、サポートやカバーをすることができれば、それは育っていくのです。
植物のように。
たとえば土に栄養が足りないのかもしれない。
何かの原因で栄養がいきわたっていないのかもしれない。
こういう自分が携わっている土壌や、今目の前で育っていこうとしている対象とじっくりと向き合い、失敗を積み重ねることで、逆にそれが失敗しないための経験に変わっていく。
こういうことだと思うのです。

自分は弱い。
そして愚かです。
だからこそ「記録」しているという側面もあるのです。
以上のような理由から。

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02/21

Mon

2011

私は創る立場だから規制されると困るものもあるし、本当に少数ながら今ある事実を堂々と示唆できなくなると、その悪い勢力をけん制することはできなくなる。
そもそも、臭いものに蓋をしたからといって、臭いものは消えるはずもなく、ただ臭いが充満するのを防げるかな、という程度の話であって、根本的な解決にはならない。
それに、性欲などの本能にいたっては、理性の弱い人間ではどうしようもない部分がある。

ナイフがあっても、それを恨みを持った人間が殺人の道具に全員が使わないのは、理性があるからだ。
人間として情があって、相手のことを多少でも思いやる瞬間があった時、殺すのを躊躇する。
もちろん、性にいたっても同じことが言える。
傷つけてしまった、傷つけてしまう、そういう相手への情が、行動を躊躇させる。
これは「良心」の問題だ。
私たちはこの「良心をいかにあるべきものにするか」の問題で悩んでいる。

そして私は規制反対派だが、その影に隠れてどのような勢力が身を潜めているのかも多少知っている。
小学生に性的興奮を感じ、意にそぐわなければ過剰な罵倒を繰り返し、大人の女性とうまく付き合うよりも、まるで人形を育てるかのような感覚で自分好みにしていくという妄想を抱いているアンダーグラウンドな存在が増えてきているのも知っている。
また、過剰な暴力性に興奮し、これもまた反吐が出るほどのサディズムでいたぶられる人間を「かわいい」と堂々という人たちの存在も知っている。
こういうのをひとつひとつあげていったらきりがないほどだ。

私は親ではないが、やはりこういう人たちの存在を知ると、全面的に規制に抵抗することに躊躇を覚える。
カリフォルニア州では20歳以上に酒やタバコを販売していて、夜の時間帯のこの手の物品にいたってはIDの提出のみならずパスポートまで要求されることがあった。
それだけチェックが厳しい。
規制を続けていくと、それが思わぬものに悪用され、不当な逮捕や社会的制裁を生む可能性をはらんでくる。
アメリカのポルノ規制のように。

規制を厳しくしたからと言って、安泰になるわけではない。
嫌なものを押し付けられるとさらに抵抗を示すように、規制する側もされる側も過剰に反応していくだろう。
そして特に規制される側には本能の問題にも触れてくるため、抑圧状態に陥った後、過剰な行動に出るであろう事は、人間心理として当然なのではないのか。

この社会は市場主義社会だ。
買う人間がいて、創る人間が養われているから、その行為が途切れることがない。
つまり、それだけ需要がある。
言い換えれば、抑えつけて買わせなくしても、ネットもあり海外とも繋がっているこのご時勢、抜け道はたくさんある。
臭いものに蓋をしても臭いものは残る。
ようは、それに性的興奮を示さない良心的な市民を育てるほうが大事なのではないのか。
隣人を大事だと思える社会作りをするほうに力を入れたほうがいいのではないのか。
そういうフォローがなければ、何百年も前から続いてきたこの手の争いには妥協が図れない。

アンダーグラウンドは死滅することはない。
それだけは言える。
そしてその勢力が伸びているということは、社会そのものが病んでいるからじゃないかと思うのだ。
人間は法によって生きる動物だろうか。
日常生活の中でいちいち法律のことを考えて行動するだろうか。
もし生活の中で規律があるとしたら理性や良心があるからこそではないだろうか。

違うのだろうか。

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02/19

Sat

2011

ルポ 貧困大国アメリカ



ちょうどこの本が出た3年前に、私は2ヶ月ほどアメリカにいた。
2005年2月のことだ。
写真を見つけて確認したので間違いない。
今から6年も前のことになる。

その時ホームステイをしていた。
ホストマザーが私が洗濯機や雨季だったため乾燥機を使うことに目頭を立てて怒った。
「私の家は貧乏なのよ!」と血相を変えていたのを思い出した。

少なくとも私が見ていたのはカリフォルニアのスタンフォードなどもあるサンフランシスコの少し北。
ここらいったいは学生の雰囲気があり、私のいた地域はのんびりした雰囲気もあった。
スタンフォード近くになると、学生も多くなるし、行き交う人が学生を受け入れていた。
電車の中で(電車の中に自転車を持ち込んでもいい)席に座っていたおじさんが学生に「お前その自転車どうしたんだ」と話しかけ会話していたので知り合いかと思ったらそうじゃないらしい。
そんな風に普通になごやかに成り立っている地域だった。

2005年の州知事は映画でもおなじみのシュワルツネガー知事。
市民活動家がサクラメントの知事のいる建物の敷地内でスピーカーを用意し「(ダム建設反対に際し)やつは鮭を殺すアーノルド・ターミネーター・シュワルツネガーだ!」と叫んでいた。
集団の中でかわるがわるダム建設反対についてマイクでしゃべる。
そういう活動が堂々と認められているらしい。

サンフランシスコ、このサクラメントでもそうだったが、ホームレスがごろごろいた。
友達と歩いているとサクラメントでホームレスに話しかけられ、「何か食べ物ないか?少しの小銭でもいいんだ」とはじめての体験をした。
そのホームレスは丸々と太っており、日本人の感覚として「そんなに太ってんだから、食べ物少しくらいなくても大丈夫だろ」と思った。
後ろから2人組みのホームレスに追尾されたこともあり、「ついてきているけど、なんかまずくない?」と話し合い足早に逃げたこともある。
特にサンフランシスコは見た目で治安のやばそうなところがわかる。
落書きが多くなり、ホームレスが多くなり、ゴミが散乱している。
見た目からして「荒んでいる」のがわかる。
だから興味本位で近づくのはやめていた。

食生活にいたっては日本食に慣れていると、アメリカのスタンダードな食事は「これ死ぬよね」という思いがした。
しょっぱい、脂っこい、甘い。
ミネラルウォーターよりもスプライトやコーラが安く、ファーストフードなど安いものは高カロリーのものであふれていた。
ホストマザーは食事の中に当然のようにお菓子(チップス類)を入れてきた。
さすがにこの食生活では太った。
ダイエット番組でも筋肉隆々の男が「これが俺のダイエット朝食だ!」と自慢げに卵やサワークリームなどでいっぱいの皿を見せられた時には目を真ん丸くしてしまった。
日本食ってカロリー栄養バランス共に優れているのだなとつくづく感じたものだった。
そして日本人は食生活共に恐ろしいほどの贅沢な環境にある。
最低限、水がクリーンで安全で、おいしいところさえもあるというのはとても幸福なことだ。

私がアメリカから帰ってきて3年後、この本が出た。
医療格差と保険会社の詐欺的行為や低所得層による肥満問題、戦争ビジネスの問題を浮き彫りにしている。
すべては中間層がことごとく低所得者層に落ちていき、這い上がるチャンスさえもないということだ。
その貧困問題が最低限の生活の保障を犯し、教育の格差も生んでいる。
そして民間企業による貧困ビジネス。
骨までしゃぶっていくかのような所業。
医療問題や貧困による教育格差、低所得ゆえにバランスのいい食事が取れず高カロリー食品をメインにとらざるを得ない状態、そこまではアメリカで多少暮らしていたから「ああ、あの延長線上にもっとひどい状態があるのだな」と想像できる。
しかし最もぞっとしたのは民間企業による傭兵派遣だ。

ゲームで「メタルギアソリッド4」というのがあり、このゲームでは民間企業による代理国家戦争というのを描いていたけれど、これを思い出した。
民間企業に個人情報がすべて「パッケージ」として細かにデータとして知られている上に、このコンピューター社会による、マイナス面がもろに出ていた。
我々の行動記録はほとんどデータとして法人や国家が管理している。
その情報はひとつの「パッケージ」としてまとまって管理されているわけだ。
「流出」でいちいち騒いでいるけれど、民間企業ならば倒産や合併後の情報管理までは制御しきれないと思う。
そして生活に困窮していれば、金を積まれれば個人情報は売ってしまうのではないのか。
そういう個人情報による「個人の格付け」。
借金状態から返済履歴、収入や現在の生活状態、家族構成、病歴、交友関係、購入物品履歴などなど、すべてのものが利用できる「パッケージ」として存在し、それが民間傭兵派遣会社に利用される。
高収入をうたい、最前線に派遣し、つかい捨てる。
これらはすべて低所得層がターゲットにされる。

この手の動きは戦争を放棄している日本とも皆無ではない。
戦争に参加しなくても、巻き込まれる可能性すらある。
そして日本人だって生活に困窮すれば悪魔に魂を売る人間だって出てくる。
これからの日本はアメリカのような国に巻き込まれてはいけないし、お金さえあれば何でもできてしまうような状態の中で他人の人生を金のために利用するような悪をのさばらせてはいけない。

アメリカは確かに自由だった。
しかし6年もたってその面影もなくなっているのかもしれない。
このことは私がいた6年前のアメリカが貧困社会への過渡期だったとしても、ものの数年でガラリと変化してしまうくらい国家というのはさじ加減ひとつで不幸な人間を数多く作り出すという教訓を肝に銘じておかなければいけない。

予断だけれど、これからの時代、貧困層は「現実」であえぎ、富裕層はより浮世離れしたバーチャルな世界で人生を謳歌するという2極化が起こるかもしれない。
もしそうなったら、貧困層からは偉大な政治家は資金力の問題で出てこないだろうし、お金を持っている人間は現実感がないから、いつまでたっても溝が埋められない。
こういう単純な構造に陥ることだけはよして欲しいと願うばかりだが、アメリカに似てきている日本は、これからどうなるだろうかと心配するばかりである。


P.S.
医療の問題に関してはマイケル・ムーアの「シッコ」。
マクドナルドの高カロリー食品のとりすぎによる内臓機能低下についてはモーガン・スパーロックの「スーパーサイズ・ミー」がある。
合わせて見るといいかもしれない。


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02/17

Thu

2011

米書店大手に淘汰の波 ボーダーズが破産法申請(日本経済新聞)

※リンクが貼れず不便なので転載。

 【ニューヨーク=杉本晶子】米書店チェーン大手に淘汰の波が迫ってきた。16日には全米2位のボーダーズ・グループが米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請した。電子書籍端末やタブレット型と呼ばれる多機能携帯端末の普及で、本や雑誌をインターネット経由でダウンロードして読む消費行動が広がったのが背景だ。ネットでの書籍販売も広がり、従来型の書籍流通モデルは変化を余儀なくされている。

ボーダーズの閉鎖予定の店舗(ミシガン州)=AP裁判所への提出書類によると、ボーダーズの負債総額は12億9000万ドル(約1080億円)。大口債権者には、英出版大手ピアソン傘下の米社など、主要出版社が名を連ねた。ボーダーズは米国内店舗の約3割に相当する200店を4月末までに閉鎖し、規模縮小で再建を図る。従業員も削減する方向。金融機関との間で、再生手続き中に5億ドル強のつなぎ融資を受けることで合意した。

 ボーダーズのマイク・エドワーズ社長は同日の声明で「長期的に事業を続けるための資金の手当てがつかなくなった」と説明した。同社は1971年創業の老舗だが、2010年1月期まで4年連続で最終赤字を計上。四半期では10年8~10月期に債務超過に陥っていた。

 米書店チェーン首位のバーンズ・アンド・ノーブルも2010年8~10月期の最終損益が1200万ドルの赤字となるなど収益悪化が続く。オンラインでの書籍販売額は増えたが、実店舗の既存店売上高が振るわなかった。一方、米アマゾン・ドット・コムは1月末、電子書籍のコンテンツ販売がペーパーバックの販売数を超えたことを明らかにした。

 米国では書籍市場全体が07年をピークに縮小に転じている。金融危機を引き金とした消費冷え込みに加え、端末さえあれば比較的手ごろな値段でコンテンツをダウンロードできる電子書籍の普及で、従来型の書籍が押されている。




日本でも大型書店に追い詰められ、小さな書店が次々と閉店していっている。
ちょうどシネマコンプレックスができて、小さな映画館が次々と閉館するように。

書店は本を売る場所だ。
しかし今本はあふれかえるほどある。
そして電子書籍の登場により、紙の本よりもはるかに面白い本が出てくるのは時間の問題だろう。
紙でこそ出していないものの、才能のある人間はこの日本にもいる。
あとはその演出方法が整えられれば、チャンスはより拡大する。
そうなると出版社も危うくなるわけだが、その前に書店が打撃を受けることになる。
アマゾンなども次々とサービスを拡大し、家にいながら本に対する人の感触を調べられるようになった。

そもそも、本の魅力とは何だろう。
それは元々「共有したい」という欲求だったのではないかなと思う。
たとえば和歌や伝記や神話には、どこかしら人間らしいものがあって、有体に言うところの「普遍性」がある。
今は好みが多様化しているし、よりニッチになってきているかもしれないが、人間らしい欲求というのは、人間が人間でいられる限り変わらないと思う。
というのは、やっぱり本から何かを得て、無駄に終わらせることはできないわけで、何かしら共有したくなる。
それは「感覚」だったり「考え」だったり「絆」だったりする。
それらのものが一緒に体験できて膨れ上がったら、これほど面白みのあるものはない。
だから人は繋がろうとする力を持ち続けようとするのだ。

書店は、本を売る場所だ。
しかしアマゾンは本を売る以上の機能があって、作家コミュであったりレビューであったり掲示板であったり、本に馴染みのない人でも参考になる。
現在ある大型書店もまた本を売っている。
だから、小さな書店は「本を売ってはいけない」。
つまり大型書店と同じことをしていても潰れるしかないし、アマゾンよりも魅力のあるお店にしなければいけない。

じゃあ、どうすればいい?
普通の本屋では紹介しないような埋もれている名作をアピールして欲しいし、棚だって特殊なカテゴリーで出来上がっているものがあってもいい。
より書店員は専門性を求められる。
私はこれからの時代「本におけるライブ感覚」を引き出したものが生き残っていけると考えている。
書店における「本のライブ」とは、たとえば子供が集まっての感想会だったり朗読会だったり、書店員からの本の力説だったり、大人同士が忘れていたことを真剣に思い出しあったり、「文脈の力を人の体で直に伝える」ことであると思う。
どうしたらこの体を通じて「本の魅力」を伝えられて「相手に本を体感」させることができるのか。
それが実現できた本屋だけが生き残れる。

いわば本屋も「本を物として売る」のではなくて「本を表現する」時代に来たのだ。
売れている本をアピールする時代はすでに終わった。
それはもうアマゾンやネットで充分すぎるほど行われている。
小さな書店がそこにかなうはずがない。
埋もれている味わい深い作品を、地域の人たちと共有するために、店の中の作りから、その演出方法、時には月一でも「書店便り」を作ってお店の中にフリーペーパーとして置き、イベントのお誘いなど、「人と人が関わり、リアルタイムで変化する書店」を作らなければいけないのだ。

その可能性を拡大してくれるのは、皮肉にも電子書籍を通じて発信することになるだろうが。

大本になる「本作り」も、自然と本を作るのではなく「表現してもらえる本作り」にシフトしていくだろう。
それはより強力な文脈を持った本作りをしていかなければならなくなる。
つまりは、より高度な技術が要求される。
一言で言えば「リアルさ」だ。
それは日常におけるリアルさであったり、心におけるリアルさであったり、仕事におけるリアルさであったり、エンターテイメントにおけるリアルさであったりする。
「より感じられる本」。
もう、時代は変わったのだ。
本はより「人のリアル」に踏み込んでいく力を持たなければ生き残れない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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