忍者ブログ

あさかぜさんは見た

日記

01/17

Sat

2026

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

02/10

Thu

2011

人の価値は目に宿る

「たったひとつの部品です。どういう使われ方をされるか、そのことによって部品ひとつの価値が変わる。そのことは、あなた方職人の技術も同じなんじゃないですか?」
~NHKドラマ「ハゲタカ第六回目」より~

小説家としてやっていくために、この言葉を何度も考えている。
ことあるごとに思い返し、一人の作者としてどうあるべきかを考えている。

「いい物を作れば、自然と売れる」

職人気質の人間はよくこう考える。
しかしこれからは違う。
職人の技もその売り方もすべて含めて「事業」になる。

事業をする、ということは買ってくれるお客の元へいかにして届けるか、その過程も含めて計画を練り、戦略的に展開することを言うと考えている。

NHKドラマ「ハゲタカ」を何度も見直している。
特に一回目や最終回を見ながら「お金」と「資本の論理」というやつを考えている。
お金は実に単純だ。
お金をより持っているものが強者になれる。
ゲームのような単純な理屈がそこにある。
何でもできるし、人に言うこともきかせられる。
お金を持っていないものよりも、絶対的にお金を持っているほうが強者になれるという理屈は惹かれるものがあるだろう。

お金もひとつの道具だ。
そう考える人はなかなか普通の暮らしの中ではできない。
物を売ってお金を得る。
でも、本当に「物」だけ売ればいいのだろうか。
売れるものだけ作ってお金というものに純粋に追随していけばいいのだろうか。
こびていくだけなんじゃないだろうか。

お金を獲得するには「仕事」をすればいいと誰もが言う。
仕事をするとはどういうことなのだろう。
単純に「食うため」「生活するため」と子供でもわかるような答えがある。
じゃあ「食って」「生活して」何を得るのだろう。
私は作る側だから、作って稼いで、金だけ得ればいいという考えにはならない。
それよりも、「生活する」ということが人間にとってどういうものなのかも私には定義できない。

「生活する」ということを小説で書けといわれたら、まだその主題は書ききることができませんというだろう。

売れないと本当に焦る。
お金も得られないし、将来のことも不安になる。
ネガティブな感情が支配して、もうだめなんじゃないか、これ以上続けないほうが、いや、もっとお金を得られるように、今売れているものをすぐにでも作って、それだけに徹していればいいんじゃないか。
小説家を目指している自分としては、売れる文章だけ書いて、媚びて、もう書きたいものなんか、目指したいものなんか夢見ないで、それよりも、本当に書くことをやめてしまおうか。

否定され、罵倒され、生活もろくにできない、人間として価値がないところまで言われてしまう。
こんな人生に、こんな道に何か価値はあるのか。
彼らが言うように、自分には今人間としての価値すらないのではないか。
そこまで追い込まれてしまう。
その憎しみや怒りが余計にドロドロとした感情をあおって、どうしようもなく敵意を向けてしまう。
そして精神力を使わなければならない作業に、余計な力を割いて、結局何もできなくなってしまう。
そういう悪循環だった。
おかげさまで弱い人間の精神構造を嫌というほど味わった。

これから「地べたを舐めさせられる」という気持ちや「地べたに這いつくばる」という気持ちは忘れないでいようと思う。
恨みを持ち続けるという意味ではなくてね。

その上で小説家としてきちんと人間を見つめ、人間を相手にし、人間を知っていくためにも、「自分自分」していてはどうしようもないのだ。
芸術家の素質として「情熱」がある。
この「パッション」は独善的なものでなければ、まず成り立たない。
だから芸術家の「芸術性」というのも、一歩間違えればひどく内向的になり、「芸は自然から学ぶことを忘れるな」という基本的なことがぽっかりと抜け落ちてしまうことが多々ある。

小説家としてやっていくためにも「小説を使った事業をする」ということを考えなければいけない。
ようやくこの心境になるまでに相当年月を費やした。
精神が安定するにも相当時間がかかったし、心構えもそう簡単にできるものではなかった。
精神は作られるものではなく、自分で作っていくもの。
自分でこの心に何をつめて、何を発していくかを決めていかなければいけない。
それが人生だし、命を使った一大事業だ。

その上で一番最初の言葉に戻る。
あらゆることは、どういう使われ方をされるかで、その価値が決まる。
人であっても物であっても同じだ。
ましてや個人ならばなおさら。

人の価値は目に宿る。
心をこめて、その炎を目に輝かせながら、小説という事業とその展開に改めて邁進していこうと思った今日の日。
明日は建国記念日か。





何か、ようやく自分がしてきたことが、これでよかったのだと思えそうな予感がしている。

拍手[2回]

PR

02/08

Tue

2011

2011年雪祭り大通り会場



今年はうさぎが多かったなぁ。
うさぎ年だからだろうな。

拍手[2回]

01/31

Mon

2011




ああ、買ってから数年は積んでいた記憶が。
いつ買ったんだろう。
あったのは知っていたし、読もうとは思っていたものの、後回しになっていた。

読んでみて、強く印象に残ったのは「これは童貞小説だな」と。
読んだ後どうしても「僕」といいたくなるのは、やっぱりこの「春樹節」が効果覿面に染み込んでくるからなのだろうが、やっぱり僕は村上春樹が今は少し苦手なのである。

村上春樹文学に触れた時、特によく感じるのは「ぼやけた曖昧さ」である。
この妙にはっきりとしない感覚がなんとも嫌で、「それはなんなの?」と言われてもうまく説明できない。
つまり、たとえば作者の立場として「僕はこうだと思うし、こうしたほうがいいし、こうあらなければならないと思うんだ。でもそれは僕の考え出し、君は君だし勝手にすればいいんだよ。これは僕と世界の問題なのだから」という距離感。
そんな距離感を取りながらも、さらに「僕と世界は繋がっていて、世界と君は繋がっているのだから、僕と君の関係は無関係とは言うことができないんだ」という、このあいまいさ。
「ああしろ」「こうだ」「あっちへいけ」というメッセージがあるようで、ぼんやりとにじんでいく。
それはまるで、インクで書かれた文章が水につけたらぼやけていくような、すりガラスの向こうで裸らしきものを見ながら想像するような、もどかしさがある。

村上春樹文学を読む時に、みんな深読みをする。
それは春樹の文章そのものに、あらゆる「メタファー(隠喩)」があるからに他ならない。
その散りばめられたメタファーを繋ぎ合わせてパズルのように読者は深読みするのだけれど、ネット化、グローバル化、なんでもよいけれど、この繋がっているようで繋がっていない、でもそれらは世界に存在しているという世界観こそ、僕らが世界を再認識する上でとても大事なことで、でもそれは感じるだけで終わってしまうような、そんな「感触」が残るために春樹の文章をみんな深読みするのだと思う。

僕はこの小説を「童貞小説」だと言った。
僕は男なので女性のことはわからない。
でも「童貞」というのは、リアルのセックスをしていないから、あれこれと女性とのセックスのことを想像する。
そのエネルギーは様々な方向へと飛び火して積み上げられていく。
それは、あたかもあらゆる「メタファー」が存在しているかのように、辞書の中の卑猥な単語に興奮を覚えたり、夏の薄いブラウスの中に透けた下着の色を見て興奮したり、アイドルの写真の水着姿の胸の大小や、股間や太もものあたりに妄想が膨らんで、夜な夜な淫らなストーリーを作っていくという、無限の想像力に満ち溢れている。
少なくとも、淫らなことまではいかなくても、片思いをしたら、純粋に頭の中でデートを楽しんだり、こうだったらいいのに、という純愛に浸りきったり、「童貞」は「体験していないからこそあらゆる方向に向かって想像を膨らませることができる」という「無限のエネルギー」を持っている。
しかし、これがセックスを体験したら違う。
嫌がおうにも現実に直面するし、傷もつけられるし、思っていたものよりか遥かにかけ離れていることは避けられない。
自分の望んだようにセックスできたり恋愛を進めていくことはできないのだ。
もし、そうなってしまったら、もう「童貞のように妄想を膨らませることはできない」。
いくつかあった力の進行方向も、現実の中でできた「傷」や「現実感」そのものに塞がれ、エネルギーの方向性が徐々に定まってくる。
それは生きていくうえで避けられない体験であったり現実感であったりする。
僕らは一度「門をくぐって」しまえば、もう門をくぐる前の景色に戻ることはできない。
それは「童貞が現実を知ってしまった」かのように。
僕たちは「生きる」という行為を通して常に何かを犠牲にして、そして何かを得ている。
この選択した現実はどのように誤魔化そうと避けられないことだ。
その犠牲の出し方や、現実の選び取り方が、僕らの人生そのものに影響していく。
『海辺のカフカ』は、『童貞喪失』の話でもあり、『門』でもあるように思う。
だから思春期の人たちに絶大な人気を得るものだと思うし、誰もが通る道だと思うし、そして「いつかは卒業しなければならないもの」だと思う。
ある日僕らが卒業アルバムを開いて、あの時はあんなこともあったし、こういう風に生きていた、でも、もうここには戻れないのだよな、という現実を積み重ねてきた自分と確かに世界に存在しているものへの対比をしながら、時には今生きている自分を戒めたり、時には懐かしさに浸ったり、また何もかも知らないかのように「あの頃の何も知らなかった自分を思い返しながら世界と自分を見つめなおす」という作用が、この小説にはあると思うのだ。
そしてその時、はっきりと自分が何を「喪失」したのか理解する。
この物語の中にはメタファーは確かに強く存在している。
しかしそれらのメタファーをどう取るのかは、すべて読者にゆだねられているもので、それだけにあいまいでぼやけている。
なんとも言えない御伽噺のような世界観は村上春樹ワールドでしか味わえないものだけれど、僕にはどうしても、あいまいさゆえの苦手意識が取れないんだ。

拍手[1回]

01/26

Wed

2011

「都市」という機能

最初に注意として以下の文章は「コミュニケーション空間の育成と人間力」に力点を置いて書いていきます。
「会社と資本」の話が出ますが「経済における会社と資本の役割」とをごっちゃにして考えると間違えますので絶対になさらないようにお願いします。
そして、札幌市政についての提言でもありますので、他の都市の場合はうまくその都市に見合ったものに応用してください。



去年NHKスペシャル番組「無縁社会」の札幌座談会に参加してきました。
「無縁」ということを受けて前々から「都市機能」「都市」とは何かと考えておりましたが、では「都市」になる前の日本人のコミュニティーとは何であったのかという疑問が浮かび、少し民俗学を調べてみたのですが、やはり「村」という単位が最も日本人の根深いコミュニケーション組織なのではないかと考えています。

「無縁社会」というのは、ご覧になられた方も多いと思いますが、都市において、またはそうでなくとも家族や親族がいるにも関わらず「直送(葬式などがなく火葬場まですぐに行って焼かれる)」が多く、遺骨も引き取り手がなく無縁仏になってしまう人の実態を調べたドキュメンタリーでした。
そこに至るまで地縁を失い会社の縁もなく親族の縁もなく肉親の縁も失うというすさまじいものでした。

このような事態を防ぐために我々はどのように行動していけばよいのか。
そのヒントを模索している番組ではありますが、どうやら「無縁」へと至るケースも様々あり、細かく調べた上でカテゴリー分けしないと、とてもではないけれど見えてくる問題ではないと思いました。
それだけ「見えない問題」、これはまさに「心のあり方」の問題にも関わってくることでしょうが、結局は「個人のあり方」にまでメスを入れなければならなくなってきています。

そこで問題になるのは「どうして人の縁が希薄になり、孤立化へと向かってしまうのか」という点です。
ここでは「村」と「都市」の差異を考えたいと思います。

まず大きく上げられる点として「都市機能そのものにコミュニティー組織を解体していく機能がある」と考えています。

1、都市には人的流動性の高さによりコミュニティー意識が育ちにくく、独自の風土が育ちにくい。

2、サービスの多様化・利便性の追及が常になされるため、特に自分で積極的に参加しなくても「誰かがやってくれる」という意識が育ちやすい。

3、技術・知恵の伝承は主に「人」から「会社」という組織に変化している。

4、情報網、情報内容の量の多さと断片化により、スムーズな情報サービスが行き届かなくなる。

5、都市における「お金」と「人」。

6、継承(交流)の断絶による個人の価値観の硬化。

蛇足、水資源の保護。




1、都市には人的流動性の高さによりコミュニティー意識が育ちにくく、独自の風土が育ちにくい。

「村」という組織は隣に誰が住んでいるかもわかるような場所です。
それだけに人付き合いが大変という側面もありますが、「隣人が何者であるか」という認識・安心感が育ちやすい。
これに対し「都市」は人的流動性が高く、土地に対する意識やコミュニティーに対する意識が希薄で、なかなか参加しづらい。
ある本の中に「子供が迷子になった時、土地のものは懸命に探したが、他所から来た人は来たもの同士あれこれと噂話をするだけで捜索には参加しなかった」という記述があります。
特に村ではなくとも、来たすぐの人、札幌でもよくあることですが「引っ越してきた人は除雪に参加しない」という苦情があったりします。
これは隣人をコミュニティーの一員と捉えずに「他人」として捉えているからにほかなりません。
また都会には新聞紙などのニュースが伝える事件、悪意のある他人の介在により、隣人を警戒しているし、また2の影響により深くかかわらなくても生活していけます。
元々社会的な力というのは「お金」というものに目が行きがちですが、「歴史性」にあると私は考えています。
そういう意味では土地の歴史の源は人にあり、人が人に伝えるからこそ、本来の底力が保たれるものと考えるのです。

失業率の問題もありましたが、求人する側もされる側も人や職を選んでいるという側面があります。
隣人を大事に思えない風土では職業観も育ちにくく、相談する人間も似たような年の人間になることが多いため、世代を超えた交流がなされず、各々の心情や意図すらも疎通できない状態が続くと考えています。
世代間の価値観の差というのは、古今東西、そして未来永劫尽きない問題ではありますが、この世代間の情報交換をいかにスムーズにするのか、という点は健全なコミュニティー作りには欠かせない要素となります。
そして2050年には直面する老人の割合が国民の4割を超えるという事態を考慮しても、今からこの問題に取り組まなければ将来の憂いを残すことになります。



2、サービスの多様化・利便性の追及が常になされるため、特に自分で積極的に参加しなくても「誰かがやってくれる」という意識が育ちやすい。

都会は便利であるばかりではなく、資本主義で動いているため、「稼げないサービス」は廃れる傾向にありますが、個人に対するサービスが特化していくことによって「集団」を個々へと分断化していくという作用もあると考えています。
これにより、地域への参加意識が薄れ、個人は独自の趣味に特化した生活をすることができ、極めて個人的な生活をしてもなんら差しさわりがない状態があります。
無論これ自体が悪いことではなく、こういった個人の嗜好は尊重されるべきであり、これこそ都会の都会たるゆえんではありますが、個々に分断化された後の再結合が追いついていない状況も指摘できると思います。
再結合の作用は民間の会社や、ボランティア、現在はソーシャルネットワーキングなどによるインターネットでの出会いなど多様化しておりますが、新しいシステムを考えるにあたり、そのサービスが個人に特化すればするほど集団を個々に分断していくマイナス面の補助を考えなければならないと考えます。
仕事をし、生活も多様化し、疲れ、そしてなぜ稼ぎもできないボランティアに参加しなければならないのかと考える人も少なくはないと思いますが、自分の生活が保障されるのは「お金」を持っている時のみに限ります。
「お金」が途絶えると最低限の生活も保障されない。
隣の家に言って「米がないから譲ってくれないか」などという相談は一切できないし、「お金」が途絶えたときの底辺サポートが見つからない。
もしコミュニティー機能が高まっていけば、「底辺の受け皿」も自然と話題に上がり、徐々に整備されていくと考えています。



3、技術・知恵の伝承は主に「人」から「会社」という組織に変化している。

「村」という社会では、老人から親、親から子供、子供から孫という記憶の継承がありました。
この記憶の継承は知識や知恵を伝道する上でも非常に重要な意味を持ち、さらに重要なのは世代を超えてのコミュニケーション形成にも一役買っていたことは容易に想像できます。
この世代を超えての継承が徐々にすくなくなり、伝統芸能や、職人技術の継承危機問題にも見られるように、「稼げない」知恵の伝道が「無価値なもの」として扱われ、断絶されようとしています。
つまり「資本による価値」こそ大事であって、そうではないものは容赦なく淘汰される傾向にあります。
現在「会社」という組織が資本の力を借りて、独自の知識を積み上げてはいますが、これも資本の影響を受けます。
時代が変われば資本の質も変わる。
常に安定した継承は期待できず世界の経済の影響を都市はもろに受けながら、その軸を変えていく。
この軸が変わるたびに人々が大きく振り回される社会よりも、やはり独自の根を持ちながら発信していく都市のほうがより理想であるとは思いますが、いかにその「根」を長く土に張っていくかというヒントが、もうあります。
幸いにも私の住んでいる札幌市では大通公園で様々な職の祭典がなされていますし、植物の祭典も時折やります。
私は北海道をひとつの独立した国家のように捉え、そして地域づくりをしていくべきなのではないかと考えている人間ですが、大通り公園でやっているような地方の特産品や郷土料理を紹介するような地元の力というのを都市の利便性を利用してもっと盛り上げていくべきだと考えるのです。
その上でそこに参加できる人はどんどん参加していく。
未来を作るヒントは「共に楽しむ」「共楽」という考え方が大事だと考えていますが、「楽を分かち合う」ことを通しながら都市に住まう人々の参加協力をどんどん促進し、その時間を人々が共有していくことにより、世代間の交流も自然と深まります。
つまりは「成功体験を与え、それを共有する空間演出」が資本の流れによっても変化しない軸作りへの大事な橋かけのひとつになると考えます。



4、情報網、情報内容の量の多さと断片化により、スムーズな情報サービスが行き届かなくなる。

これから都市化やグローバル化がさらに進み、都市への世界の影響が強まると同時に、情報量も莫大になります。
様々なサービスが乱立し、必要な支援を行うNPO法人や行政サービスなどの増大により、個々が独自に情報を発信し、そしてそれらがあまりの情報の多さによって埋もれ、必要な情報サービスを探すことが困難になります。
今もすでに起こっている情報量の多さによる情報享受の弱さは、これからますます加速し、受け手を混乱させていくことが予想されます。
この混乱を防ぐためにも地域の情報を発信する中継ポイントや、情報サイトの共有が必要となります。
情報の仕分けはカテゴリー、地域ごとに分類され、それらが情報ごとにトピックスとしてあるのではなく、関連情報が一気に閲覧できるマインドマップのような、情報と情報をツリー形式でまとめる「(言語をよりビジュアルとして認識する)視覚化」された情報整備が必要になります。
情報の視覚化については、まだやっているところがなく、大学の研究結果などを元に実験的に配備していく必要性があるでしょうが、連動型情報、つまりは「行政 支援 生活」と検索を打つ前に、次の単語を連動して先に提示する検索結果、そして個別の事例による逆引きなど、検索システムもより高性能にする必要があります。
また、ネット知識のない人をカバーするために、極めてローカルな、たとえば小学校がくくっている範囲程度の狭い地域で発行している地域新聞を活性化し、組織化することも大事です。
これらのミニコミ誌などをフリーペーパー化することによって行政情報と地域情報、非営利法人情報、個人活動などを支援し、より地域に根ざした情報発信が地域の人たちに伝わるように整備すれば、公民館などの施設も充分その役割を強化できることに繋がっていくと思います。



5、都市における「お金」と「人」。

都市の潤滑油は当然お金ではありますが、観光都市としての魅力は「経済都市」という点にはないことは言うまでもないことです。
その地域にしか見られない、感じられない「地域性」を体感しにくるのが観光客です。
極端ではありますが、どれだけ潤ってようとビジネスマンしかいない都市、市民に必要なものしか売ってない都市ならば、誰も訪れようとはしませんし、お金が稼げるからといって、そればかりでは一度来ただけで、もういいやと思うものです。
私事で恐縮ですが、道外から来た友人がJRタワー展望台エレベーター前に販売している小さなコーナーで雪の結晶の紙石鹸を購入したのですが、正直札幌市がこのような活動を支援しているのは知りませんでした。
女の子は高くても、かわいくて斬新なものに惹かれるようです。
http://www.city.sapporo.jp/keizai/sapporo-style/hatsuyuki.html
どこかで読んだ話では、知的障碍者の方が紙で作った電気スタンドを作っているようなのですが、その商品は少々お高め。
知的障碍者の方が作ったとはどこにも明記しておらず、普通に展示していても買っていく人たちがいる。
こういう活動はどんどん途切れさせずに支援していくべきです。
また、札幌には現在二大祭りがあります。
よさこいと雪祭り。
その他にも小さな催しがありますが、札幌市には市民が積極的にこれらの活動をしようという意気込みが潜在的にあるような気がいたします。
地域に眠っている力は何なのか、それらを掘り起こすためには「きっかけ」となるものをどんどん整備していくことが肝心です。
また地域の力を活性化し、より参加しやすい状態、交流しやすい状態を作り出し、その交流の中で世代を超えた交流により人間力を養うには、情報を受け取りやすい状態を常に維持し、市民が自ら情報発信する土台を整備する必要があります。
「必要は発明の母」と言いますが、まさにこの「必要は何か」を集めることが、結果的には経済活動を促す引き金にもなります。



6、継承(交流)の断絶による個人の価値観の硬化。

都市の利便性がどんどん加速し、ネット上でもあらゆるサービスが多様化していきます。
情報も個人が欲しいものしか受け取りませんし、お金さえあれば人とあまり関わらなくてもよい暮らしが保障されますが、人間は孤独には勝てないものです。
家から出ずに体験しない状態が続けば、想像力が失われ、頭の中だけで物事を判断する人が出てきます。
これは極端な例でもなんでもないのですが、食物の「腐敗現象」を理解できない人がいます。
電球の替え方がわからない人がいます。
冷凍ピザをどのようにして食べればよいのかわからない人がいます。
自分と価値観の違う人間がいたり、自分の住んでいる環境とは違う環境があることを理解できない人がいます。
都市にあまりにも長く住んで他のものと交流しないあまり、自然現象がわからない人がいます。
そういうのは食品や電化製品の「説明書」でも顕著に出ています。
わざとではなく、いい大人が本当にわからなくて電話をしてくるのです。
世代間の交流や知識の伝承・交流が失われると、想像力の欠乏により、さらに悪化した状態が待っています。
そして、人間は思考が硬化すると、なかなか軟化させるのに手間がかかりますし時間もかかります。
一生直す必要に迫られない人がいます。
これらは個人のレベルではありますが、いわゆる閉鎖された村のような価値観が個人そのものに起こり、その閉鎖された個人は異種のものを攻撃するか、ひたすら閉鎖性を保つかのどちらかになります。
都市は常に利便性を追求していきます。
そして個人の価値観も多様化し、よりカスタマイズ性の高いものになっていきます。
ゆえに個人の生活さえ保障されていれば他人の生活なんてどうでもよいという考えが芽生えがちです。
これは結果として「都市での孤立化」を引き起こし、これだけたくさんの人がいるにもかかわらず「孤独感が拭い去れない」という気持ちを引き起こしていると考えています。
都市でのコミュニケーションの課題は、都市そのものが持っている機能と、人間そのものが自然的に持つ欲求との矛盾をどのように解決していくかにかかっています。
人間は自分の生活や趣味を邪魔されたくないとは思っていますが、それらを共有できたらどんなにいいことかと思っています。
人間は自分の嫌なことはしたくはありませんが、一人にはなりたくないと思っています。
相反する二つの感情を持ち合わせ、それらのバランスをとりながら生きていると思います。
バイラルマーケティングという言葉があります。
「バイラル」とは「感染的な」という意味ですが、人々が参加したくなる機能を整備する。
何かをしようとする時にあれやこれやと面倒くさいことが山積みではやる気も起きません。
どれだけシンプルに物事を整備して提示できるか。
これが「硬化」を防ぐ目標となります。



蛇足ですが、これから世界は深刻な水不足に喘ぐと現在でも予測されています。
ですからあらゆる資本家たちは将来莫大な利益を生むであろう水資源に着目して土地を買いあさっていることはご承知のとおりでしょうが、北海道は水資源の宝庫。
特に札幌市の水は水道水でもそのまま売れるほどおいしいことで有名です。
自然環境の保護と自然資源の確保は生き残るための絶対的な条件となります。
札幌市はこれからおいしい水を確保し、水不足や汚染された水資源の多い地域に水を販売するビジネスを展開して予算を独自に確保するような活動も必要になるかと思います。


それではとりとめなく、重複したことも多かったことながら、最後までお読みいただきありがとうございました。

拍手[0回]

01/23

Sun

2011

小説におけるライブ感覚の必要性

http://www.publickey1.jp/blog/11/web_4.html
Webブラウザでの日本語縦書き表示、順調に進行中。年内には実装の見通し


これまでの電子書籍の動きというのは、ようやく紙と対等な条件をそろえるというところだった。
それで、敷居が低くなればなるほど、そこに参入してくる人たちがどんどん多くなってきて、混乱状態に陥る。

さて今年は初めから意気込みが何か違ってきていて、3日坊主だったのが衰えない。
というか、今年こそは今年こそはで過ぎ去ってきた時間にもう耐えられない。
今までのままじゃダメなら数倍に進化するしかないという意気込みなのです。

ということで、余計なことをしゃべりましたが、たぶんこれからの小説の世界は「小説家」が独占していた「リアリティ」というやつを、素人の現場で働いている人間たちが圧倒していくと思うのです。
いわゆるその職について長年やっている人しかわからない、というような内容を素人さんがバンバン書いていく。
その上占拠されるジャンルは詩、ファンタジー、私小説、取材に基づかない小説などなど、文才のちょっとある普通の人が誰でも書けるものが次々と量産され、今出版している小説家のほとんどが死に絶えることになるでしょう。
その上でますます「隙間産業」となる、この分野で生き残っていくにはどうすればよいのかというと、常に「誰かを巻き込んで参加させられる吸引力」を持った人間のみがこの世界で成功していく。
つまり、題名の「ライブ感覚」を生んだ人が、これから生き残れる素質を持っている人間なのですね。

それで、通常の人はだいたい作って感想もらっておしまい。
次に書いてまた同じことやっておしまい。
インプットとアウトプットの繰り返し。
しかしこれでは「芸」にならないし、「芸術」にも程遠い。
あらゆる「作品」と呼ばれるもの、特に優れていれば優れているほど「コンテキスト(文脈)」が多様に生成されていくものですが、この文脈をライブ感覚で作れるものが次の時代のキーワードになりますな。

これにはひとつの理由があります。
今現在の出版事業は音楽業界の歴史を追従しているとの見方があり、私も同じ失敗を繰り返していく可能性を多分に含んでいると考えています。
しかし「音楽」とちょっと違うのは、元々「音楽」は「形のないもの」であることを考えないと、見誤ると思うのです。
つまり、音楽はyoutubeも加え、無料で流れ出て体感する人が増えた。
その分元々形のなかった音楽がCDなどの目に見える物質を離れ、体感型へと戻っていった。
これは音楽CDなどの売り上げが格段に落ち、ダウンロード販売も成果が伸び悩んでいるのに対して、ライブの収益は格段に上がっている。
これは皮肉な形ではありますが、電子化によって音楽が元の形に戻ったという見方をしてもよいのではないかと思うのです。
そして、本もまた、私がかかわるのは小説などの文芸の世界ですが、この文芸の世界も、電子化によって元の状態に戻っていく感じがしています。

そこで考えなければならないのは、本ってなんだろう、いやいや、そもそも言葉って何かな?
そんな超基本を通り越して、当たり前すぎて誰も考えなかったことを、もう一度再考する必要性が出てくる。
言語を使って行われる、我々の思考や、直感的な行動。
元々、言葉とは「伝えるための道具」です。
自分ひとりで行動して誰とも出会わず意思疎通を図る必要性もないのならば「言葉」は必要なかった。
しかし伝える必要性があった。
高度な思考や社会を組み立てていくために言語が必要だった。
我々が言葉を他人に発する時は「自分の考えていることを伝えるため」です。
しかし文字だけで考えるとどうしても見えてこない。
よく考えてほしいのは、私たちは目の前の人の情報や自分が感じていることをすべて言語化しているでしょうか。
してません。
言葉が持っている意味そのものの裏側にはいろいろな表情や仕草や雰囲気、気温や湿度や天気や場所もすべて含まれて、ようやくひとつの言葉になっている。
それが「言葉本来の姿」なのではないかと思うのです。
ならば、言葉も電子化が進むことによって、この「本来の姿」に音楽と同様に戻っていく。

さて、困りました。
私たち本を書く人、特に小説なんて書いちゃうのだから、人とのコミュニケーションがうまくできない場合も多々あります。
だって、人とそつなく付き合えて世渡りができるのなら、わざわざ「小説・文芸」などという表現手段に頼らなくてもいいのです。
それくらいよわっちいし、内弁慶なのが小説家だったりするわけですね。
しかし、言語は限定的かつ感覚的だからこそ、逆にそれをパズルのように組み合わせて伝えることが楽しかったりする。
その限定的な感覚で楽しんでいるのが小説だったりしますが、作品に大事なのは「文脈」です。
つまり読者の「解釈力」を引き出してあげるのが「作品」として優れていると私は考えるのですね。
じゃあそういう多様な「ああ!」っていう感覚を与えていくにはどうすればよいのかっていうと、やっぱり本を通じての交流しかないと考えるのです。
電子書籍参入の人の多さにより、より「無感覚な小説」が増殖してきます。
本を通じての交流は、この無感覚な小説への唯一の対抗手段となるべきものだと思います。
ウェブでの見せ方もあるでしょう。
直接本屋などでしゃべる機会も設けなければならないだろうし、特にこれからはあらゆるコンテンツがその境界線をなくし、技術とともに融合と分離を繰り返しながら新しい何かを創造していきます。
クリエイティブな世界は、コンテンツの融合により加速度を増し、新しい時代に通じないものを物凄い早いスピードで食い散らかしながら増殖していくでしょう。
だからこそ、その世界に精通している人が大事だと思えるものを保存しておかないと、技術によりズタズタに分断されるのです。
本屋もきちんと「本って何だろう」「本のよさって?」ということを考えて、本を作る人間を巻き込んで本を買ってくれる人たちにドキドキや「ああ!」を伝えなければいけない時代になってきている。
いや、必然的にライブ的な感覚を取り入れざるを得ないという方向性になるでしょう。
だから我々も乗り遅れてはいけない。
今からしっかりと「本におけるライブ感覚って何?」ってことを考えて、読者が「ありがとう。よかった」と言ってくれるような本の面白みを想像していくべき時代になったのです。
ということで、言ってる本人やらなかったらしょうがないので、今年はちょっとずつやっていこうと思いますよ。
これからの作家は作家を中心としたひとつのチーム的な発想をしないと、他人を巻き込んでいくことなど到底不可能です。

ここからは蛇足ですが、コンテキストを含んだ連想型検索エンジン、どこまで進んでいるのか未確認ですが、感想など、読者が生成するコンテキストを集めて検索結果へと単語で表示したり、単語そのものが連動していく単語を類推して表示した結果に生まれる、単語(例:恋愛)+単語(例:幸福→幸福とは←悲しみ)での検索結果(例:=悲恋の小説 /読者感想まで連動させたらさらに繋がりが広がりリストアップできる)などが出てくると電子世界ならではの広がりを見せてくると思うと同時に、逆にダメなものも、このシステム応用できれば排除できますよ。
読者のコンテキストを検索エンジンにどう表示させることができるかがポイントですね。


追記:そう考えるとアマゾンって検索システムのアイディアほしがるはず。どこと組むんだろ。

拍手[1回]

フリーエリア

ブログランキング・にほんブログ村へ

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

12 2026/01 02
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]