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あさかぜさんは見た

日記

01/18

Sun

2026

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03/07

Sun

2010

誰も信じないから、自分ひとりで信じることにした。
自分が自分を信じなければ、もう誰も信じようとはしないから。
それを何度も粉々に砕こうとする。
何度も何度も傷つけていく。

憎んでいるわけではない。
恨みもない。
いや、思い出すだけで瞬時に憎悪がはちきれそうになる。

ただ、殺したいと思う。
殺しのイメージが頭にちらつく。
心が耐え切れるかどうか不安になる時がある。
何かの拍子にやってしまいそうな自分がいる。

それをやれば何人もの人生が変わる。
だけど、あとのことはどうでもいい。
やれば自分の人生は終わる。
自分が退場するのに、残った人間ことなぞ知らない。

嫌っていたはずのものになった人間が、嫌っていたものに成り果てていた。
そしてそれをまた伝えようとしている。
自分もまた嫌ったものに成り下がっていくのだと思うと、生きていこうとする気力がなくなる。

郷愁は、思い出の中にあるからこそ輝くもの。
できることならば、永遠の思い出として、現実には二度と現れないで欲しい。
そして私はなんらかの方法で必ずそうするであろう。

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02/11

Thu

2010

軽度から重度まで、同じ「うつ病」なので、たとえばmixiなどで「うつ病」に関するニュースがあり、その関連記事が出てくると反応も様々である。

「甘え」と書いている人や、「理解してあげて欲しい」とか。
正直、他人の主観がぶつかり合っては解決すらもしないし、そして本人の神経の問題なので他人が理解することは難しい。

その中で薬のことをどうにも悪く言っている人がいた。
私もネット上の日記や実際の知り合いなどから「薬の過剰摂取」と、「医者の怠慢とも言える処方」の情報が入り込んだりする。

薬を急にやめて克服した人も中にはいる。稀と言えば稀だ。
自分の体験から「薬じゃなくて愛情が大事」と言う人もいる。
実際「愛情」は大事で、これがないと回復は難しい。

現在医者が「インフォームドコンセント」が不十分なことによって訴訟を起こされるケースがあるが…つまり説明不足のまま、患者の理解が得られないまま手術したり投薬したりして事故が起きたりすることによって訴訟が起きる、というケースが起きているが、精神科医もこの例外ではなくなるだろう。

投薬を急に中止したことによって自殺したり、加害者になったり、また投薬のパターン、薬の種類を変えたがためにそうなるケースもあり、明らかに医者の知識不足により、このケースが起きたと立証されれば判例が積み重ねられていくことは間違いないだろう。

これから精神医療は科学の進歩によって生理学と密接に関ってくる。
その場合、投薬も従来の「カウンセリング」とは別のケース、つまり脳波、いやもっと神経回路に直接根ざしたパターンなどからされる場合も出てくるだろう。
私が関った身近な人は脳波にまったく異常が見当たらず、何度か調べていたし、ペーパーテストもオールグリーンだった。あちらが不思議がっていたくらいだ。
書類上ではまったく異常が見当たらない人間が、明らかに接している人間からすればおかしくなる時があった。記憶も飛んでいた。
入院し、投薬をして、ほんの数年で治ったという幸運なケースだ。
当然良くも悪くも教科書どおりにいかないこともある。
だが、薬で間違えて事故を起こした場合、精神科医も投薬における臨床実験のパターンや実際の投薬例を熟知しておかないと確実に訴えられる時代になる。

他人の日記を見ていて思うことがある。
うつには軽度も重度もひっくるめて「うつ病」となる。
体が弱く風邪を引きやすい人間に対して「外で走って体を鍛えればそんなちょっとした風邪も治る」と言うのと、
風邪を引いてだいぶ進行して肺炎を起こしている人に言うのとでは、同じ言葉でも後者には罪がある。
うつ病、というキーワードだけで過剰反応し、ケースバイケースも考えずすべてを一緒にするのはバカにもほどがある。
やめてほしいと思う。
水は生きていくには必須だが、人間は水の中では生きてはいけない。
同じ水でもこれだけ違う。
何を思うのも書くのも勝手だが、特に非難は差し控えて欲しいと願わずにはいられない。
どうせ、言ったからって何もしないのだろうし、最低限学ぼうともしないのだから。
そういう行為は下劣すぎる。
少なくとも、どうなっているのかということを少しでも調べて欲しいと思う。

この日本には随分と精神病に対する偏見が根強く残っている。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのだろうか。

ひとつ教えておくが、この発言を残したとされる快川紹喜は、火の中で死んでいったことを覚えておいて欲しい。
精神論は自分にのみ応用すべきで他者を強制的に道連れにするべきではない。
焼け死ぬだけだ。

もし、身近な人にうつ病の人がいて、力になれるのなら、その人の話には耳を傾けないといけない。
特に「主観に満ち溢れて偏っていた」としても、その人の感じていることは「真実」であるから、それを否定してはいけない。

助ける人も、無理はしないように。
お互い、体も心も大事にしなくてはいけない。

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02/04

Thu

2010

電子データにしたほうがかさばらないし、すっきりする。
生涯の親友が何人もできないように、生涯付き合っていきたい書と出会うのもまた少ない。
だから、これから「物質として存在する本」が空間的にも量的にも重量的にもマイナスに働く。
本が好きな人は図書館に通い、いらない本はすぐに古本屋に売り渡し、次々と読み続けるかもしれない。

私は本を読むスピードがとても遅い。
だから年間数百冊を読むなんて夢のまた夢に近い。
生涯で読める本の数も決まってくるだろう。
速読できるような人でもない限り、普通は私と一緒だろう。

だからこそ選別しないといけない。
良書を作らないといけない。残さないといけない。

「良書とは、期待を持って開き、利益を修得して閉じる書物である。」 (オルコット)

時代がこうなっていきますと分析されたからなんだというのだろう。
分析官が多くても軍師がいなければどうにもならないし、軍師のいる組織にやられっぱなし。
ましてや時代を切り開こうとするのではなく、その流れに従うだなんて。

ひらめくこと光の如し。
立ち向かうこと水の如し。
前進すること風の如し。
希望を持つこと火の如し。
大志を持つこと津波の如し。
人となすこと和を持って中庸を目指すべし。


起こってしまったことを嘆くよりも、起こっても揺らがない確固たるものを作ろう。
本当に職人なら、常にいいものを作りたいと思うはず。

現実を見たら何も起こってはいない。
だから未来に希望を抱かないといけない。
希望を持ち続けるだけの絶え間ない努力が必要なんだ。

人は死ぬだろ。
いつ死ぬかわからない。
最後の瞬間人は何を残す?
自分だってどんなに偉そうなことを言ったって骨しか残らない。

希望ってなんだろう。
今は見えもしないものを具現化する努力なんじゃないのか?
時代の考察に鋭くなるよりも、時代に台頭する力が欲しい。

希望は必要だよ。たとえ小さな希望でも。
だって生きているうちから「過去しか見てない人生」なんて寂しいだろ。
そんな死んだような人生過ごしていて何が楽しい。

誰かの笑顔を見たいでしょう。
誰かに「あなたと出会えて幸せ」と言われたいでしょう。

私がお話を書くのは、もう「誰かがそのうちするだろう」と年数を過ごしていくのが嫌だからだよ。
迷ったって時間は過ぎる。
疲れて立ち止まることはあるけれど、待ってたって誰もやりゃあしない。

人類にロマンチストが大事なのは、熱狂的なロマンチシズムが本当にそれをやろうと試みてしまうからだよ。
「星が綺麗。あの星に手が届いたらいいのに」
「金は儲かるから、なんとか他の金属から金を作れないだろうか」
そんな子供みたいな発想が何百年と積み重なってきて、人類は進歩してきたんじゃないのか?
次の世代に残すものは大人が常に決めている。

ゲーム、映像、漫画、エンターテイメントに変えることのできない小説はその価値を失っていくだろう。
電子の波の中で「過去に何が存在したか」すらも忘れ去られるだろう。

こう考えると、現実は劇場よりも不確かなもので、事実は作為的な幻に満ちている。
これからの小説家の役割は大衆を一個の人格とみなしてシナリオを書くことだね。
劇場に生きる大衆の意識が常に流されていくものならば、その流れを制御する意識体になればいい。

なぜか今猛烈に悲しい。


追記:
口論すると、いつも悲しい。
無駄な時間だけ過ぎて、互いに歩み寄りがなくて、不毛とも言えるやりとりを繰り返す。

親と子供は、永遠に親と子供。
どこでもかしこでも同じことで悩んでいるらしい。
昨日門限のことで他人の親に相談されました。
親は死ぬまで親の気持ち。
これは感涙に溢れる想いがある。
親の気持ち、子は知らず、子供は親不孝をして一人前になるものなのかもしれない。
子供は親の保護を受けているけれど、だからといって一個人の人生は自分自身で決めていくべきだ。
常識やモラルというものがあって、それらがよりよい公平感からくる倫理でもって判断すべきを、いつの間にか個人的な感情と多数論に摩り替えられたりしても、親は親、子供は子供。



デジタルデータの利便性は、端末によって加速される。
物という形にこだわらなくても、「データ」という形を徹底すれば、私たちの生活は驚くほど変化するだろう。
スーパーも百貨店も地域情報もニュースも図書館も。
スーパーの安売り、犯罪の情報、百貨店での物産展のイチオシ、書店・図書館でのデータ配信、食物の生産者・おすすめレシピ、IDキー、端末をかざすだけで欲しいものが手に入る。
そういう時代になる。

それと同時に、反比例して加速するものがある。
「人との心のつながり」
これも「利便化」される。
間違いなく。

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02/03

Wed

2010

※今日はいつも以上に妄想を炸裂させてみます。

電子出版事情は「電子出版」のみならず、「出版事情」そのものに関ってくることなのですが、アップルコンピューターやアマゾンが次々と電子デバイスを発表し、デジタルデータで書籍を読めるようにしています。
ipadとかキンドルとか、携帯できるものですね。

実際携帯電話では長い文章を読むには大変疲れ、大画面でないと目が疲れるどころではなく、痛くなるくらい苦痛になります。
読めるのは主に「若い人」だけになってしまうために、携帯電話での読み物の需要は絞られてくるように思います(携帯電話を使っている世代が繰り上がってくることもありますが)。
ですからどうしても大画面でなければ、長文の文字量には対応できなくなります。
そこで、デジタルコンテンツを展開しやすい画面のデバイスができると、今まで沈黙していた分野が目を覚ましてくる可能性があるのですが、私は小説などを書いているので、今回は出版に関してのことを考えてみたいと思います。

人間というのは、たとえば二つのものを提示されるとどちらかを取りがちですが、あまりにも選択肢が多いと何も選ばない傾向があるそうです。
今の本の事情も、あまりにも数が多すぎて何がなんだかわからないという印象のほうが強いように思います。特に本に馴染みのない人は余計にとっつきにくい。
ですから、この「選択の時間を節約」するためにランキングが多用されるという悪循環になり、時間に耐えうることのできる「良書」が余計に力を持たなくなります。
そのような状態を懸念している作者というのは(私の勘ですが)意外に多いと思います。

今までは出版社の支配下にあった作者ですが、ツイッターや原作者のブログなどのツールによって、徐々に内部事情が暴露され、ひどい体質のところから作者も読者も離れていくという現象が起こっています。
また、デジタルコンテンツが整備されていくにつれ、作者自身がコンテンツを作り宣伝もできるようになると、特に出版社という組織に頼らず、自らが組織化をしてしまうという流れも起きます。

原作者というのは、職人であり「出版する」という立場から物事を見ません。
あくまで「作品を通して何を語らうか」を感じているはずです。
リンゴを売るのに、いくら儲かってもリンゴの品質を落とすような売り方では作り手も酷く傷つきます。
あくまで「作ったままの想い」と「品質」をリンゴを食べる人、それを感じてくれる人へと届けたいわけですね。
じゃあ手荒な真似をする中間業者がコスト的にも品質的にもリンゴの悪化を招いているとわかっていて、なおかつ中間業者に頼らなくてもよいような流通ルートと方法ができると、「自分でやってみようかな」という気持ちが起こるのは当然です。
最初は不満を持つ各個人が自己展開する形が多くなりますが、そのうちこのバラバラの個々を取りまとめようとする大手の出版社ではない組織(これは原作者協会に近い団体)が現れ、ネットワークを作り、整備しようとするはずです。

「腕が上がると独立しようとする。しかし自分でやって残るのは2割にも満たない。つまり技術と経営とはまったく別だということに気がついていない」

特に大手の出版社は経営と流通のノウハウを持っていることに大きな強みを持っていますし、この点に過信があり「原作者が独立を志そうと、痛い目を見てまた戻ってくるに違いない」と踏んでいるはずです。

しかし在庫があまりすぎている出版社事情に反して、原作者の「作品本来の力を取り戻そう」という動きは、皮肉ながらデジタル化によって徐々に活発になり「作品力の強いものは装丁にこだわり、デザインの面からも本来の本の魅力を取り戻そう」となるのではないかと思います。
これは当然在庫があまるのを極度に恐れますから、生産量を抑制し書籍が投機の対象とならないためにも消費者の発注を受けてから生産をする「オンデマンド形式」が主流になり、店頭流通は「カフェ形式」での「店頭で紅茶でも飲みながら読む」形が流行りそうな予感がします。
カフェが月ごとにテーマを絞って店頭に置く書籍を変えるのも面白いかもしれませんね。
各書店は各分野に特化した店作りをしないと生き残れないし、大型書店はデジタル化によって現物としての本の力を徐々に失うわけですから、漫画本とかゲーム攻略本とか雑誌販売が主になり、小説などの本は一部の作者を除いて減らざるをえないのではと思うわけです。

作品本来の力を取り戻すには組織そのものが「ブランド化」する必要があります。
これはよりよいものを選別し、その経緯を透明化させ、組織が読者と親身に語らい強固なネットワーク化を図ることによって得られると思います。
…簡単に言うと、会社の中で話し合うんじゃなくて読者と話そうよってことね。
うち、こうやってて、これがいい本だと思うんだよねー…っていうことを言う。
従来の中小出版社は現在出版不況の波に駆逐されていますが、新たなデジタルにおける手法によって各地で立ち上げられ、新しい出版社同士のネットワークもできあがるでしょう。
問い合わせたら「ああ、その本はこっちの出版者のほうがいいよ」ってことになりそうです。
その出版社ネットワークに読者も複雑に絡み合うというシステムを構築できるのが「ツイッター」のようなツールであると思います。

どうにも日本における巨大な組織というのは、「白い巨塔」のように古くわずらわしいしがらみ(上の人間や組織が幅を利かす)があるようで、出版業界も同じのようではありますが、幕府に従っていてはどうにもならんという出版維新もようやく日本で起こりそうな気がしています。

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02/01

Mon

2010

NHKスペシャル 無縁社会 ~“無縁死” 3万2千人の衝撃~

追記:解説(わからない方へ&おさらい)

先進国の中ではとりわけ自殺率の高い日本の自殺者の中に、近年「身元不明」とみられる自殺者が多くなってきている。
また「孤独死」を迎える人の中には、孤立した人間関係の下にあった人のみあらず、「家族」「親族」がいながらも「無縁死」を迎え、「無縁仏」になっているという実態が明らかになってきた。
「行旅死亡人」と呼ばれ、官報で死因や身体的特徴、遺留品などを記し遺族を探す。
「地縁」「血縁」すらも切れ、最後には「無縁死」を迎える背景には何があるのか。
また雇用の不安定さが経済的不安定さを生む中、会社を失うとともに「社縁」を失い孤立する人もいた。
仕事のみに生き、家庭を持たなかった人、家庭を失った人。
独り身でいる人が無縁死への危機感を覚え、死後のことを話し合う生前予約をする人が増え、それに対応する組織も近年急増している。
また、「無縁死」に自治体が対応できない状態に「特殊清掃業」と呼ばれる死後の身辺整理、埋葬を行うNPO法人、組織もあり需要が高まってきている。
「無縁死」の事態を直視し、現代社会に生きる人に何が起こっているのかを浮き彫りにする。


~~~以下、本文~~~

何から書いたらいいのか…書きあぐねている。
1時間見ながら色々な思いがぶわっと出てきた。
無縁仏になる死者数年間3万2千人。孤独死や自殺者も含める。
一年間取材をしていたというから、企画の段階も含めて、ちょうど私が「新・人間失格」を書こうと決心して書き始めた時期と似通っている。

東京に行ったとき、少なくとも感じたものは、無関心さを装った人々の姿だった。
人が多すぎてまるで雑多に見えてくる。
人ごみの中を行くのは、まるで障害物を避けているような感覚になる。
深夜新宿で酔いすぎて大の字で倒れている男性のすぐ横を多くの人たちが通り過ぎる。
自分は助けようと思うよりも、関ったことでトラブルに巻き込まれたらどうしようという思いが先立った。
特に新宿の路地裏など、見知らぬ人の雰囲気が少し怖い。
今住んでいる札幌ではちょっと感じられないような空気がある。

複雑なエネルギーが折り重なって出来上がっている都会。
無関心なようで関心を惹き、関心を惹いているようで距離を取っている。
ある意味「ドライな関係を維持している」と言ったところだろうか。
何か、言葉にできない妙な感触を受けた。
言葉にできることと言ったら「目を輝かせている人が少ない」ということだろうか(ギラつかせている人はいた)。
東京に息づく人の集合した力は凄まじいものがあるけれど、電車の中や行きかう人々、路上で主張する人たちの瞳の奥に垣間見える、ある一種の「諦観」が見えた。
個性があるようで情報に飲まれ、主張があるようでパフォーマンスに過ぎない。
その中で様々なものが練磨されていて、排他され、再集合している。
あの町には鬱憤や欲望が渦巻いている。
そして孤独を抱えながら互いに無関心を装っている。
それを感じた。
ある意味矛盾が多く、ある意味ストレートでひねくれている。

自分が太宰治の原作「人間失格」を現代版にリメイクしようと決心したのも、直感的に肌で感じた、人々の妙な温度だった。

この無縁社会でやっていた大きな問題点は「家族」「兄弟」「親戚」がいるにも関らず「無縁仏」になるという実態だった。
「無縁死が嫌なら支援しあえばいいじゃない」ってツイッターで囁いていた人がいたけれど、じゃあ私は逆に聞きたい。
「何を支援しあうのですか?」と。
故郷に帰りたくても帰れない。人とのつながりが徐々になくなっていく。
たとえば東京であれば「地元民」じゃない人が多かったりする。
それにこれからは「お金がない中高年」も増えていく。
「支援」って何をするのですか?
孤独じゃないように地域コミュニティーを作る?連絡しあう?
私たちは自分で思っている以上に隣人を信用していない。番組では子供が老人の孤独を救った例があったけれど、中年が子供に性犯罪を起こしたとしても子供が中年を狙って金品を強奪しても、金がないばかりに多くのトラブルが起きたとしても、私たちは同じように他人を見ることができますか?
それに身体的な事情を抱えた人だっている。
我々は本音で語り合うほどぶつかり合っていない。
我々は自分には関係ないやっかい事は避けて生きているでしょう?
悪いことばかり考えて、行動することを妨げることほど愚かなことはないけれど、言いたいことは「すぐにコミュニティーや支援システムを適応できるほど我々は常日頃から信頼関係を築いているのか」ということです。
システムに飼いならされている現代人のこと、「支援しあいましょう」と言いながら互いに支援を待ち続けるというこっけいな状態が起こりうることも充分考えられる。
私はそもそも、その最初の人間関係を作る「家庭」から崩壊しているとは思うのだが…崩壊、というよりも「孤立」と表現したほうが正しいか。
意外に目の前の見える問題にばかり気をとられていたら、問題が発生している根本にたどり着けないかもしれない。
原点はどこにあるのか、という問いはこれからもなされ続けなければいけない。
そのためには、多くの人の苦痛に満ちた声にひとつひとつ耳を傾けるという途方もなく根気のいる作業をしなければいけない。


番組の中で出てきた「特殊清掃人」のブログをずっと見ていた。
妙に凝り固まった考え方の人がコメント欄にわいていて、ここにURLを載せると、それを助長させてしまうのではないかと心配なのだが、大事なことを訴えているのでぜひ載せたい。

http://blog.goo.ne.jp/tokushuseisou
特殊清掃「戦う男たち」

我々の孤独を救うのは、我々の中に流れている、この血の熱さだけだと思う。
思いやりとは一言に言うけれども、本当に人を思いやるということは、「自分の血肉を差し出す」ことにも似ていると考えている。
その痛みを感じたくないのなら、距離を取ったほうがいいし、関らないほうがいいのだ。
死を間近にしている人のブログを読むと、生きていることの幸福を感じる。
人も本来ここまで高度な知恵を持っていなければ、他の肉食獣に追い立てられ、食われる運命にあったはず。
そうではないからと言って、正直人間だって明日の運命すらわからない。
人の一番の特色のひとつに、言語で感情を構成し、主張を伝達できる点がある。
それはある意味罪を意識させ、後悔を重ねさせることだろう。
すべては当人の「自己責任」の問題かもしれないが、他者は当人と接する時、この「罪」とも接する強さを持たなければいけない。

我々は仕事をして何を得ているのだろう。
お金を払いあって何を得ているのだろう。

生きていくための仕事。
生きていくためのお金。

単純にそう考える時に、末路として待っている無縁死。

先ほどの「支援」のこと、「ならば震災の起こった神戸では大規模コミュニティーができていて今も密接に連絡を取り合っているはず」と思い、震災体験者に電話したが「生活が戻ったら各々の生活に戻っていって特に密接に関っているってわけでもないよ?」とのこと。
15年たって「都会」が戻っているようだった。
実際には他の地域には違う何かが残っているかもしれないが、それは現地に行かなければわからないだろう。

人は何に慣らされていき、何を忘れて生きられるのか。
年老いた時に気がつく非情な現実に、人間社会そのものの欠陥を見るのか、それとも「こうなったのもしょうがないことだ」と思うのか。
私だって、「無縁社会」の実態を他人事としては見られない。
自分もこうなる可能性を充分含んでいる。
都市構成のありかた、地域社会のありかた、目の前に見えるすべてが我々に無関係ではない。

「心の本音」だけが、最後の切実な訴えになる。
それを面と向かって言いづらい関係で、我々は「うまくやっている」と思い日々を生きている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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