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あさかぜさんは見た

日記

01/15

Thu

2026

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03/21

Thu

2013

私には両親がいる。
二人とも今は健康だ。
母親は一時期精神病を患い、10年続くかもしれないと言われる中、奇跡的な短い期間で回復し、父親は大腸ガンから回復し、今は山へ登る趣味ができてきちんとやるほど健康だ。
私はぬくぬくと苦労もせずに育った。
生活の危機はなかったけれど、精神的な危機は数多くあった。
父親は気分屋で、イライラしている時は「触らぬ神に祟りなし」の状態だった。
それでも私の出来が悪いので、様々な嫌味を言われた。
母親に言うと「私なんかもっと酷い」と言われた。
うちの家庭は会話らしい会話がなかった。
会話をしているようで、結局は自分の話ができれば満足なタイプばかりだった。
もちろん私もそうだ。
私の出来がどれだけ悪いかということは、この先書く時期が来ると思う。
その時、きちんと告白しようと思う。

ぬくぬくと育っていると、自分が何の恩恵を受けているのか気がつかない。
わかっているようで、まったくわかってはいない。
言われると腹が立つし、「そんなことわかってるよ!」と重苦しい気持ちになった。
たいした挑戦もせず、「自分は出来るはずだ」とぬるい環境の中で成果も出せずにいた。

私は正直父親を憎んでいた。
それがある日酔っ払った勢いで殴ってしまったことがある。
「なんで産んだんだ!」と告白するのも恥ずかしいことを叫んで泣いた。
長年否定ばかりを受けて、それほど人間としてどうしようもないのなら、そもそも何故子供なんて作ろうと思ったんだ、と。
思い通りに行かなくて否定するのなら、それは物と同じじゃないか、と。
そんな思いがあった。
次の日気まずくて部屋の外にも出られなかったけれど、自分の中にようやく「親孝行」が出来たという気持ちがあった。
15年間、ずっと思っていたことを、ついに言った。
つまり腹の底から生まれて初めて本音を伝えた、ということになる。
今まで合わせて、機嫌を損ねないように、ただ縮こまって生きてきた自分が、父親に対して本音で物を言ったということが、何かとりついていたものが、少しだけ落ちたような気分になった。
父親は思うところがあったのか、一週間以上も温泉旅行に出かけた。
帰って来ると、嫌味は減っていた。

私は京都に半年間いて、三月の上旬に帰ってきた。
今まで中流階級の生活をしていて、一気に下流の生活をした。
肉体労働をし、来月の生活費の心配をし、節約をしながら、だんだんと生活を維持させることのみに意識が向かっていく、上昇する意識が生まれてこない環境を経験した。
一人でさえ支えるのもしんどい。
そこで私は「親のありがたみ」を知ったわけではなかった。
毎日欠かさず料理を作り、きちんとお金をやりくりしていく母親の偉大さとか、欠点のある父親ながらきちんとサラリーマンを定年までまっとうし、家族というものを飢えさせることが一切なかった父親の、言葉に尽くせぬ偉大さとか、確かに知ることは出来たが、本当に知ったのは「今の自分の限界」だった。
これでは、何も出来ない、何も守ることが出来ない、何の知識もない。
自分以外のもう一人でさえ、守ることなどできようはずがない。
なのに何かを作り上げようなど、思い上がりにもほどがある。

先日、山登りから日帰りで帰ってきた機嫌のよい父親からビールやおつまみなどいただいた。
機嫌のいい時は大盤振る舞いをしてくれる。
私はその時、深々と感謝しながら、ようやく父親の等身大の姿を見ることが出来た。
気が小さくて、大胆な事はできないながら、だからこそ、ここまでコツコツと堅実にやれた。
気分屋ながら何かを続けられる根気と努力を発揮することができて、きちんと私と母親を食わせることができ、会社勤めをまっとうした偉大な凡人。
今日の父親は達成感で満ち溢れているのだろう。
ならばその気持ちは、きちんと汲まなければいけない。
今日は、ありがとうございます、という気持ちでいっぱいだった。
私は、父親の達成感を満たすことのない子供だった。
ようやく、色んなことが見えるようになったのだと悟った。

そのことを友達に話すと「同性の親ってやっぱり意識するものなのかねー」と話していた。
「越えられない部分ってやっぱり出てくるのかなー。女ってさ、子供を持つとようやく母親の気持ちが少し理解できる。親を超えるのが子供とかなかったっけ?」
私は思う部分がある。
親と子は、越えられない部分と、超えていってしまう部分で相殺されるのではないか。
その二つの差し引きゼロになって、ようやく対等になれるのではないか。
私はまだそこまではいっていないが、今自分が成長しているという確かな手ごたえを感じる。
ようやく、34手前で、情けないながら人間らしいものを少しだけ手に入れた気がする。

私はこの先、守らなければいけないものがたくさん出てくるだろう。
その時、家族のこともどうにもできないのに、まったくの他人を、まったく自分とは関係ない物事を、守り抜くことなどできるのだろうか、と思う。
それは険悪な状態や、物理的な障害を一切クリアにせよ、ということではない。
心の中だけでも、家族に対して決着をつけなければいけない時が必ず来るのだ。
そうしなければ、どこまでも引きずられ続ける。

世間で言うところの「親孝行」が出来るのは、きっとこれからでしょう。
今しばらく時間がかかることながら、よい成果が出るような、そんなわくわくした気分があります。
闘志というものを少しだけ学びました。
この炎が消えぬよう、私は進んでいかなければいけない。
ようやく色々見つけてきました。
ありがとうございます。
私は両親がいなければ、この人生は歩んではいなかった。
何故なら、出来ないやつの気持ちがよくわかったんですもの。
何故ダメになっていくかの事細かな心理状態が理解できるようになったんだもの。
それはこの先、必ず誰かに対して生かされるでしょう。

様々な家族がいます。
信じられないような下衆な家族もいる。
それでも、自分が産まれてきたことを呪うことがないよう、せめて自分がされたことぐらいは、嫌だったのならなおさら、誰かに対してすることのないよう、自らを律していきたいものですよね。
子供から大人になって、かつての大人がしていた過ちを、自らが実践してしまうような愚かな人間になってしまっては、きっと小さかった頃の自分が恨むに違いないのです。
恥ずかしい人生を歩んできたものです。
より、よくわかりました。
ようやく、這い上がれそうです。

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03/20

Wed

2013

ある世界の中で閉じている思いがある。
もし知らない人間がその人の書いた文章を読めば、何かかわいそうに、とても苦労しているように見えてしまう。
しかし事情を知っている人間から見ると、破綻というにはぬるすぎるものがそこに書かれている。

いくつもの疑問が浮かぶ。
プラスを望んでいたはずじゃないのか。
神頼みまでしていたはずじゃないのか。
人との関係を切ってまでやったんじゃないのか。
それをやったにも関わらずマイナスを選ぶのか。
ならばプラス方向にある最も密接な関係を何故望むのか。
何故プラスの状態になる自分を望んだのか。

そこで、さらにどうしても引っかかってくることがある。
これほど自分のしていることを認識できていないのも珍しい。
自分で選んだことが、あたかも予想だにせず降りかかってきた不幸のようになっている。
何故ここまで自分のしていることが、そうでないことになっているのか。

ふと頭に浮かぶ。
もしや、「作っているから」ではないのか。
自分のことではない、と認識するために、別の事実を自分の中で作り上げようとしているのではないか。
もしそうなると、「嘘」を作り出していることになる。
人は一度「嘘」を作り出してしまうと、その「嘘」を維持させるために莫大な精神力と記憶力を使う。
一人の人間が「嘘」を維持させるには壮大なストーリーが必要だし、通常ほころびが出る。
これが玄人になると小さなほころび、ぼろしか出さないため、「記録」でも取っておかなければ、口述や文章などの矛盾点はわからない。
つまり私たちは人の話をこと細かい範囲まで覚えてはいない。

「作る」という作業をしているとなると、その人間の話は慎重に聞かなければならなくなる。
疑い、ではなく、全面的に信用した上で、客観的な証拠で固めていく。
肉付けされた部分と現実を、細かな範囲で選り分けていく。
もし「嘘」があったとしたら、いつからその「嘘」は存在していたのか。
いつから、「嘘」に苦しめられていたのか。
その人にとっては、その「嘘」の世界が「真実の世界」だ。
だからこそ、「嘘を暴く」ということは今まで築き上げてきた、全ての世界の崩壊を意味する。
非常に危険な作用を及ぼす。
だからもしそれをやるのならば、責任を取らなければいけない。
しかし、嘘の世界に成り立ったものは、所詮どこかで崩壊する。
残念ながら砂の城だ。
同じものを作り上げては、また無に戻る。

小説は、誰かの復讐のためにあるわけではない。
何者かを不幸に陥れるためにもあるわけではない。
だからこそ、慎重に慎重に、誰かの証言に基づいて書くものであれば尚更、慎重に慎重に。
私は、今回の小説で自分を全て曝け出す。
そうして人間を描くということを知るだろう。
人一人の覚悟は、そう甘いものではない。
それがわからないのであれば、その人は一度も「覚悟」をしたことがないのだろう。
もしくは、他人を心の底から意に介したことなどないのだろう。

人一人は、そう軽いものでもなんでもないんだよ。

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03/19

Tue

2013

「年相応」と他人は勝手に見てくるのでね

年齢、というものがある。
別に年齢そのものは、その人間の人間性や人間としての成長度を計る何かにはならないのに、客観的な人間の度合いを見られる指標とされる。
年齢の怖いところは年齢を積み重ねれば、それ相応なのだろうと他人から勝手に見られることだ。
「へぇ、若いのにしっかりしてるね」が、ぼやぼやしていると「あんたまだその年でそれかよ」という目に変わっていく。
若いうちは誰かがかばってくれるが、年を取ってからは自分のしたことが全て返ってくる。
つまり「あなた大人なんだから自分のしていることぐらい責任ちゃんと持てるんでしょ」と周囲から見られるため、周囲もしたことに対して何かの反応を起こすためだ。
それは若い頃のように「若いから」と大目には決して見てくれなくなる。
特に「あんたこうなんでしょ。私やってないけど(やれてないけど)」みたいなものには特に厳しい。
自分がやれていないことを他人に口出しすることは相当攻撃される。
自分の立場というものが自然と求められる社会において完全なマナー違反になるからだ。
どういうことかっていうと、普通に考えれば簡単な事なのだけど、様々な立場の人、様々な地位の人がいらっしゃって、それぞれ権限を握っているのはその人なわけであって、その人以外の誰かではないということ。
逆から考えればいい。
自分が懸命にしていることを、何も知らない他人から軽んじられたり軽々しく指摘されると気分を害する人が多いのではないだろうか。
つまり立場がわかっていないのは、「子供」ぐらいしか考えられないからだ。
その人間の背景にあるものが少しもわからないのは、分別がないからではないんですか、なんてきつい目で見られてしまう。

それでどうしてこんなことを書こうと思ったのか。
33になってようやく、前に見えなかったものが見え、勇気が持てるようになり、わかったことがあるのです。
それは「責任転嫁」してたってことなんですね。
正直私は思春期の頃、非常にネガティブなものを植えつけられ、自分で練りに練ってきたので、そこから抜け出すのは相当大変でした。
十五年という歳月がかかりました。
それで、色々もがくのですが、だいたい元の場所に戻ってきてしまうんですね。
自分は結構変わろうとか思ってるんですけど、意外に自分のテリトリーの範囲内でしか動いていなかったということなんです。
それがですね、私の場合は運がよくて、人と出会って様々な恩恵を受けてきました。
親とも色々ありまして、命の危機、家庭の危機などもございまして、私も積年の恨みを晴らさんとばかりに暴れたこともあり、そこで親が思うところあったのか少し考えてくれて、ようやく何か丸くおさまりそうな感触がしている今日この頃でございます。
それで私の場合は「見知らぬ他人が献身的に愛情を注いでくれた」というのが凄い大きいような気がします。
家の外に出る機会が勝手にできて、家にいてもしょうがないと思う私は食いつくわけですよ。
変化の可能性があるのならばと、とにかく食いつきました。
そこで色々な経験をしました。悲しいことも辛いこともしましたし、酷いこともしました。幸せな事もたくさんありました。
外で色んな体験をすると逃げられるものも逃げられなくなるんですな。
全部自分のしたことになる。
全部自分の責任だと思われる。
そこで開き直ろうものなら、ましてや他人のせいにしようものなら、もうガッツガツにやり込められるわけですな。
「ふざけんな! あんたがこうだから悪いんでしょ!」
そりゃーもう、その通りですから、今まで「親のせいだー」とか「環境のせいだー」とかいうのは、既に自分で取っ払っているので通用しないわけですね。
身ひとつで外の環境に出たわけですからね。
それで他の人を見ていると、たまに親近感がわくことがあって、「あんたそれじゃあ変われないわ」と思いつつ、きっとそのことを口出ししたら当時の自分のように気分を害するのだなと思って、黙って見守ることがあります。

「責任転嫁」が最も自分を腐敗させる、どんなに頑張ってもたいした変われない理由になります。
「自分がこうなっているのは他の人(環境・現象)のせいだ」
「自分は~だから」
というのは、自分がその環境を無意識にも享受しまくっているので、色んな意味で浸ってしまっているわけですね。
「これじゃあダメだ。なんとかしないといけない。もう自分はこの状態から脱するしかないのだ」
みたいな強烈な意識がないと変わることなど、自分の場合まずありませんでした。
他人からは「年相応の人間」として様々な比較や意見や時として攻撃が加えられますが、「年相応」よりも「自分相応」を意識していくことでしか、やっぱりチャンスは来ません。
しかも「自分相応」とは「全て自分次第」というものの中に見事におさまっている、ということなんですね。
「大人の自由」ってやつも「全て自分次第」ってところに入っています。
そして「全て自分次第」ということは自分のしたことに関して「私関係ないです」もしくは「あなたのせいです」は通用しなくなるということなのです。
「これは君のせいじゃないよ」とか、同じ意味で「これは自分のせいじゃない」という考えは、自分を追い詰めていく劇毒になる可能性が高いということは、少し意識したほうがいいです。

だから大人は辛い分だけ楽しい。
「年相応」みたいなカッコイイ大人になりたいものですね。

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03/16

Sat

2013

自己矛盾って辛いよね

若いころは物事の整理の仕方がわからない。
特に思考にいたっては、分別というものを身に着けるまで結構苦労をする。
いい年の大人でさえ過ちを犯すときがあるのだから、考えるとは本当に大変な事だ。
しかも考えなければどうにもならない時がたくさんあるのだから生きるとは苦労の連続だ。

自分の価値観が強すぎると、「その社会や集団における慣習」、「個人がどういう立場で物事を判別しているか」を、自らの「我」によって判別しがちだ。
相手のそれはそれ、自分のこれはこれ、それとこれが混じった時は「郷に入れば郷に従え」という考えにはならなかったりする。
その「郷」の存在すらわからなかったり。
自分がうっかり相手のテリトリーを踏みにじっているのにも関わらず気がつかないなんてことはよくある。
相手が平然と自分のテリトリーを踏みつけて、こちらは怒っているのに「あんたは何怒ってるの。本当にわけがわからない」と言われてしまったり。

たとえば壁にぶつかって、あれこれ悩む。
その悩みの中には無数の矛盾が絡まりあっていて、解けない状態である。
相反する数々の価値観があって、自分は本当はこうしたいのに、出来ない、でもした時はこちらが絡んできて、かといって捨てても難がある。
あれこれと時間を費やして言葉に表わしてみると、酷い矛盾した文章が出来上がる。
冷静になって見直してみると混乱っぷりが手に取るようにわかるのだが、書いている時はそれが気持ちのすべてだったりする。
そこで矛盾を指摘されても逆に噴火してしまうことだってある。
常日頃整理をしていないと、自暴自棄になってしまうほど解けないものが出来上がっていたりする。

矛盾は思考するゆえに発生することもある。
例えば憧れの姿がある。
理想の形がある。
実はその「夢のようなもの」は想像の世界で成り立っているから、そこに対する苦労がわからなかったり、掴み取るのにどれほど血反吐を吐かなきゃいけないかなんて想像すらできないだろう。
それで実際に掴み取ってみれば全然きらびやかではなく、大変で維持すらできなかったりしてきて、弱音を吐き、ついには捨ててしまったり。
これは矛盾ではなく現実との乖離かもしれませんね。
空を飛ぶ鳥に憧れるような気持ちかな。
楽をしたいと願っているのに鳥の現実は人間よりも厳しいっていう。

後は心の癖が勝手に引き起こす矛盾もある。
実は幸福を望んでいるはずなのに、ネガティブな思考の癖が直らず、幸福に対して辛さを覚え捨ててしまうというのも、実はよくある話。

実は矛盾というのは、結構この「心理的な癖」が引き起こしていることだったりもする。
それは「思考の癖」も入るのだけど、新しい価値観を受け入れられない、あちら側からどうしても考えられず自分だけの立場であれこれ悩んでいるから詰まってしまったり。
結構、あ、ひらめいた、すっきりしたっていう時は、だいたいの「見通しがついた」時であって、それは不明だった知らなかったものがハッキリと見えてこそ「すっきり」が生まれてくるのだから、受け入れられないものでさえも知ろうとする努力は絶対に必要になってくる。
悩んでいる時、考えてみてください。
悩みの種になっている対象側のこと、だいたい説明できますか?
できないから悩んでいるのでしょう。見えないからまたよくわからなくなるのでしょう。自分の考えの中でぐるぐる回ったりして。
特に相手側に問題があるのではなく自分に嘘をついていることで作り出している矛盾はさらに辛いと思います。

考え事がどうしても苦手な人はバラバラの単語でもいいので思いつく限り書いてください。
そして単語を線で繋げて、単語と単語を繋ぎ合わせているものは何かを線の上とかに書いていくと、どれだけ自分がごちゃごちゃ複雑な事で悩んでいたかが可視化できるようになります。

自己矛盾って辛いですよね。
そういうのがある人って、問題は必ず自分側に多くあるものですが、自分と向き合うのが嫌だから一生懸命外に向かって理由を探していたりするものです。
自分視点止めてみると、わかることもあったりしますよ。
もし言葉にするのが苦手な人は、今日の行動を単純に日記にするのもお勧めです。
それなら記憶力さえしっかりしていればできることですから。何故を考えるのを後回しにして、単純に自分のしたことを書いていくのです。
人生迷いばかりですから、結構大事な事なんですよ。

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03/12

Tue

2013

限界点が見えたら超えるだけ

京都では様々な限界を味わった。
度量の限界。
気持ちの限界。
経済力の限界。
目的意識の限界。
実力の限界。
知識の限界。
地位の限界。
会話力の問題。
対応力の限界。
知恵の限界。
勇気の限界。
まだあるだろうけれど、とにかく精一杯やった、というところまでやった。
これ以上は自分が変わらないといけない。
変えていかないといけない。

限界が見えると不思議と軽やかな気持ちになる。
今まで色々考えていたのがすっと余分な肉がそぎ落とされて、思考が簡略化される。
これは私に最初から目標というものがあって、そこへ到達するには、ということのみを考えると、無駄な思考が省かれるためだ。
これからはもっと研ぎ澄ませて、鋭いものにしていく。
これからはもっと強くなって、たくさんのものを守れるようにする。
意気込みだけではダメだった。
いかに対応しようと気持ちの限界はあった。
お金が足りなければまともに生活すらできなくなる。
気持ちが追い込まれだんだんとぎすぎすし出し、関係ない人に当たるようになる。
こんなことではいけない。
こんなことでは未来はよくならない。
こんなことでは自分の首すら絞めているも同然だ。
大事なものを犠牲にして生活するのは、私はもうごめんだ。

だから私は変わろうと思う。
変わるための努力をしようと思う。
必ず変わるために気持ちを改めようと思う。

京都ではたくさんのものをいただきました。
本当にありがとうございます。
また戻る日まで、皆様どうかお元気で。


追記:今回これだけの限界が見えたのは、明確に目標があったからです。
場所が変わったからではなく、目標に向かって使える手段はほとんど使い果たしました。
その上ではっきりと壁が見えたわけです。
これで目標がなければ、ただ行って帰ってきておしまいだったでしょう。
本当にいい思いをしました。
辛かったり、泣いたりしたこともありましたが、充実していた半年間でした。
本当に本当に充実していました。
嬉しいほどに。
こんな貴重な体験をしたのですから、きっとまた一回り大きくなって帰れるものと信じています。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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