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あさかぜさんは見た

日記

01/15

Thu

2026

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05/26

Sat

2012

ふと我に返る カーペットの染み

自分は褒められたような生活はしていないし、自分がいまだに一人前じゃないことはわかっているし、まともな道を歩いていないことはよくわかっている。
私のやろうとしていることは常識ハズレで、他人には理解できないようなことも平気でやるし、とてもじゃないが誰かがついてこれるような行動は心がけない。
何故かというと、知るために手段を問わない時がある。
その代わり、学ぶ、書く、磨く。
その連続。
文学、芸の世界に出家する気持ちでいる人間に、命を人生を捧げようとしている人間に、他人の理解などきっと及ばない。

カーペットを見ると黄ばんでいる。
座布団を敷いているのに何年も座っているせいで、座っているところがハッキリと模ったようにお尻の形が浮き上がっている。
ああ、俺ここに何年座っているんだ。
俺ここでパソコンに何年向かっているんだ。

他人から見たら正気の沙汰じゃないかもしれない。
ずっと座って、何年も何年も同じことをしているみたいに見える。
その結果カーペットに染みまで作るほど、座り込んでいる。
ずっとここで書き続け、今に至っている。
実力がなければ、このまま自分がカーペットの染みになってしまう。
そういうことすら考える。

もういい。
ここに座り続けるのはもう充分だ。
もう散々座ったし、もう外に出ていいくらいのものは身に着けつつあるだろう。
あとは外に出て、新しい場所で学んでいく。
なのに、何故ここにいるんだ。
早くここから出なければいけない。
なのに自分は座り続けている。
そんな気持ちさえある。

考えないようにしてきたし、比べてもしょうがないことなので意識しないことにしていたが、ふと意識させられると辛いものがある。
そして、やはり理解されないことなのだろうなと思うと、もうその人とは距離を取りたくなる。
ある種の使命感すら持ってやっているが、まず世の中に出なければ何一つ達成できない。
焦燥感だけが積み重なり潰されてしまうので、なるべく風通しのよい心の状態を保っている。

たいしたことのない人間なのだ。
まだとるに足りない人間なのだ。

こういう人間の最も傍に来るのなら、相当覚悟したほうがいい。
常に破滅と隣り合わせになるのだから。
うまく付き合うコツは距離を取りながら、まずいと思ったら離れることだ。
そのほうがいいと思う。

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05/26

Sat

2012

高学歴でもストーカーさん

知り合いがストーカー被害にあっていた。

少々事情で数日家を留守にしている時に家にまで侵入されパソコンを盗まれ部屋を荒らされたらしい。

警察も最近ストーカー事件でマスコミから叩かれているためか、ピリピリしているようで数日でのスピード解決となった。
犯人が逮捕されたらしい。

しかしその犯人、学歴など関係ないのだろうが、日本でも指折りの国立大学の院まで出て、今回の逮捕。
いい年なのに前科が・・・驚いたことに初犯ではないという。
理系の学歴なのだけれど、私の知り合いに精神科医がいて大企業の人たちを診ているらしいのだけれど、理系の大学を出てきたエリートは今まで思い通りの人生を過ごしてきて、大学まで言わば負けなしで過ごして来た人が社会人になると突然上には上がいてつまづくのだという。
何事も理詰めで考えるために、非常に視野が狭いが、理詰めでこんこんと常識なことでも説明してあげると理解するといっていた。
まあ一例にすぎないのだろうが、理系は理論と実証の世界。
学生の間は未知の理論や理論から外れたことは、ほとんどしないだろうから、どんな思考回路になるかは推測だが想像はつく。
つまり頭の中では完全に組み立てが済んでいて、その組み立てにそぐわないものは、ことごとく納得がいかないという心情だろう。

通常ストーカーになる人間は一種の飛躍した思考の組み立て方が見られる。
自分の導き出した推測的結論をさらにベースにして次の思考に移るため、現実を置き去りにして妄想だけが進んでいく。

例を出そう。

Aちゃんはこの前お酒の席でボクに親しげに話してくれた=親密になった
親密になったので少しは二人の関係は近づいた=自分の気持ちを伝える行為
自分の気持ちを伝えたので相手はボクの気持ちを知っているはずだ=知っているからもっと二人は親密になった
相手はボクの気持ちを知っていてボクも相手のことを思っている=両思いに違いない
両思いのはずなのに相手は断ってきた=逆恨み

※今回の場合は恐らく自分の組み立てどおりにいかないための逆恨みであることが推測される。この手の「頭の中で完全に組み立てて起こった現実を受け入れない」というのはエリートにありがちなパターンかもしれない。

上記の例のように自分で導き出した結論を現実と混同して飛躍的に思いを積み上げていくという特徴は結構見られる特徴だ。

しかしまあ、いくら有名大学の院まで出た高学歴の人間だろうが、ここまでの犯罪を起こしたら人生終わったも同然で何せ犯を重ねているあたり救いがたい。
知り合いは女の子なので、やっぱりストーカーが生きている限りは恐怖を感じながら生きていかなければならないのだと思うと、その心情は察するにあまりある。

ストーカータイプの人間は特に今回の場合エリート意識がどこかにあるため、自分の行動や人生に傷をつけた人間を逆恨みするなどのことが考えられる。
ストーカーが出てきてから被害者を守るようなシステムは現在ではない。
アメリカかどこかでストーカーは発信機をつけるような措置をしていた気がするけど、日本でもそのくらいはして欲しい。

ひとまずは解決したことを安堵し、犯人がちゃんと心を入れ替えてくれることを願うばかりなのだが。

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05/22

Tue

2012

余計な描写をしてしまう理由

年をとってきて、よく思うようになったが、ある程度相手の出方というのが見えてくると、話し合いの場においての「余計な情報」というのは話をこじらせる最も大きな原因となる。
現在話している論点から類推せず、拡大解釈したものを持ち出さず、比喩も勘違いさせずに的確で、しかも伝えるべき結論や趣旨から一切それないということが伝えることの大前提になる。

一言で言うなら「余計なこと」が、すべてを台無しにする火種になるということだ。

最近知り合いの女の子が空き巣に入られた。
その子は以前からストーカー被害にあっており、バイクのナンバープレートを曲げられるなど、小さな被害にあっていた。
そして家を留守にしている間に、犯人はわかっていないが何者かに荒らされていた。
金目のものはほとんどとられておらず、家具や電化製品が壊されているという、少し物取りにしては疑問点が残る部屋の惨状だった。
このような状況から警察も、そのストーカーへと事情聴取をするようだ。

ストーカー被害に合う人の気持ちなど、察するに余りある。
私だって、このような話を聞くと腹立たしくなる。
何人かに聞いてみたが、小さなことでも「執拗に付きまとわれる」というのは、女性にとっては大抵「怖い」と思うことが当たり前で、夜も眠れないほど震えるという。
そんな気持ちがわからず、自分の気持ちだけを優先し、願望を叶えようとする気持ちは、ちょっと言ってもわからない人のことが多い。
私も中学生の頃は好きな子ができたら家のまで行ったりもしたから、相手に気がついてほしい、自分の気持ちが伝わればいい、と妄想や願望だけを膨らませていく気持ちがわからないまでもないが、今はいい大人なので、そんなことはしない。

さて、話を戻すが、実際に現実で被害に合っている、苦しんでいる人たちの気持ちを知り、そこへの何らかの感情をさしはさむと、どうしても作品作りのときに描写したくなる。
極端に言うのなら、ストーカーが主人公の作品を書いているとして、そこへ批判的な描写を入れてしまう。
ストーカーの不幸を願いながら描いてしまう、という状態になる。
読みなれている人間にとっては「作者の介入」は非常に不自然に感じる。
そして前後の文章とは明らかに違ってくるので浮いているように感じるし、作品の完成度そのものへも影を落とすことになる。
これはベテランの作者でも例外なくよくやることで、ベテランの場合つじつまを合わせるために、相当うまくコーティングしてくるのだが、やはりうっすらわかる。

何故このような状態が起こるのか。

元々文学というのは人を描くものだ。
例えば物を擬人化して書くというのもあるが、それだって共感を得ねば作品として成り立たない。
それは結局人が触れているものに対して思いを巡らせることだから、人の介在できないところに作品は存在できないと私は考えている。

それでは、もっと根本に戻って「人」とはなんだろう。
私はずっとこのことを考えている。
自分が何かの価値観を持って、その人に接してしまったら、自分の価値観という金型で、ただ思い通りの形を縁取っているにすぎないのではないか、と反省している。
それはその人そのものがもっている形ではなく、所詮自分の願望の現われにしか過ぎない。
小説家は私小説でもない限り、これをやってはいけないのではないかと考えるところがある。

基本的なノウハウとしては比喩を多用すると陳腐になるとか、あるキャラに同情する余り本筋からそれて描写が飛んでしまうとか、細かく書いてしまうあまり作品のリズムやキレが瓦解しているとか、色々あるだろう。
これらはすべて「余計な情報」だ。
最初お菓子の話をしていたのに、いつの間にか政治の話題を絡めてくるぐらい読者にとっては不自然に感じる。
だが作者は描いている時、不思議とこのことに気がつかない。
だからよく「寝かせなければいけない」という。
自分の作品を客観的に見られるようになるまで置いておくということだ。

世の中には自分の気に入らないこと、自分が最も好んで重視したいことがあるだろう。
普通に生きていれば、このことを優先し、差別的に区別的に見ることに、なんら疑問をさしはさまなくていい。
しかし人をあくまで中立的に見ていかなければいけない小説家にとって、この偏見は作品への致命的な傷となることがある。
そして余計な描写へと繋がってしまう。

もし自分の価値観や偏見が拭い去れない時、対極にある価値観を知ろうとすること。
これは作品や人間への公平性を自分の中で保とうとする時、とても大事なことだ。

偏見まみれの作品は、誰も読みたがらない。
偏見に共感を得たいのなら、信者家させるしかない。
だが、たいていそのような作品は残らないし、時間とともに消える。

思い当たる節があったら、ぜひ自分の嫌悪感と戦い打ち克って欲しい。
得るものもたくさんあると思う。

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05/20

Sun

2012

よく知るにはよく見ること

人には当然価値観があって、癖があって、そして傷がある。
思い込みがあって、曲げられないことがあって、こだわっていることがある。

人は通常、自分の価値観を中心にして物事を見ていて、特に集団でこれを共有する時、自らの承認欲求を満たし、時には共有している価値観が正しいことのように安心する。

そうしていつの間にか薄っぺらくなったものや、信じ込んでいたものが、実はもろく、とてつもなくあっけないものだと知った時、自分の信じきっていたものが揺らぐ。

信じていたものを変えられなくて、長年苦しむ人間もいれば、受け入れて新しい道を歩む人もいる。
ただ、普通は自分の信じているものが崩れてしまわないように、一生懸命努力し、努力するがゆえに崩壊を信じないし、対極にある価値観を否定するし、それが向かってきた時は何らかの防御反応を示す。

通常信じられないものが身近に来た場合、違和感や拒否反応を示す。
そのまま目をそらしたまま、これ以上近づいてこないよう様々な防衛手段をとる。
当然きちんと相手を見ていないので、嫌悪感が妄想を生み、その妄想がさらに嫌悪感を積み上げていく。
やがて大きくなった嫌悪感は憎悪に近い状態となり、話し合いすらも通じなくなる。
嫌悪を向けられた側は、賢明なれば引くが、大事にしていたものが揺らいでしまうと感じたとき、相手の攻撃性に対し過激に反応する。

人はわかりあえない。
わかりあえないのが当然で、わかりあえるとしたら最も幸福な機会を与えられたのだろうと感じるしかない。
しかし全員とわかりあえないわけではない。
中には気が合い、意気投合し、生涯の友と呼べる仲間もできることだろう。
しかし中には友と思っていても、相手と自分の仲を取り持っていたのは「利害」だったのだと気がつくことも時にはあるだろう。

自分の価値観も、また「利」なり。
その「利」を交換できる相手を、いつも望んでいるのが人間だ。

中には犬猿の間柄であったとしても、双方とも慎重で思慮深く、熱い魂を持っていながらも、やり過ぎないという礼儀は守る、という人間で、やがて分かり合えることもあるだろう。
お互い分かり合えなかったが経験をつんで、ようやく互いのことが見えてくることもあるだろう。

ただ、どんな状態であれ、目を背けられ、しっかりと見ようともしないのに、否定などされたら不愉快に感じるのは誰でも一緒だ。
人には価値観があって、癖があって、そして傷がある。
思い込みがあって、曲げられないことがあって、こだわっていることがある。
それが他人にとって、どんなにくだらなくとも、その人なりに大事にしていることがある。
そしてそれは時として愚かしく見え、くだらなく馬鹿らしいことのように見えたりもする。
だがそれでも、そう言われることがわかっていても、やっていることもある。
反社会的な行為で、明らかに直接的に何者かに被害を及ぼしているのなら、それは倫理的に反する行為なので、当たり前のごとく止めさせなければいけないが、そうではない場合は、他者が口出ししてもしょうがない部分がある。

もし、嫌悪感を抱くようなもの、受け入れられそうもないものに相対してしまった場合、普通は逃げる。
関わらないようにする。
それで無難にすごしていける。
酷い場合は目の前に一切現れないように執念を燃やして叩き続けることもある。

もしどうしようもなくなったら、見るしかない。
見て知るしかなくなる。
それもぱっと見ただけではなく、腰を落ち着け、しっかりと相手を見つめ、口をつむぎ、自分の考えをまず捨て去らなければいけない。
そして出てくる言葉に耳をしっかり傾けなければいけない。
そうしてようやく知ることができる。

じゃあ例えば、逆の場合は。
好きから入った場合は。
知りたいと思う。
その知りたいの中にも好きじゃないもの、受け入れがたいものがある。
妥協するか話し合うか、どちらにせよ知る必要がある。
きちんと真正面から目を向けて知ろうとする。
腰を落ち着けて逃げない。
そうしてようやくわかることもある。
拒否していたものがうっすら理解できることもある。
ひとつ世界が広がると、以前の自分とは違ったものの見方ができるようになる。
よく知るにはよく見ること。
そうして出てきた言葉に耳を傾けること。

大変な作業だが、そうしなければ永遠に理解とは程遠い。

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05/19

Sat

2012

久しぶりに怖い夢を見たというか、起きても覚えていた。

夢は見ているのかもしれないが、忘れてしまう。

もしかしたらよい夢や心地よい夢は忘れやすいものなのかもしれない。
その代わり、緊迫した夢は起きても居心地が悪い。

その夢は、中学生の頃の友人からだった。
どういう経緯で連絡を取るようになったかは忘れたけれど、映像電話を使って話していたが画面の向こう側に出てきた顔はやつれて、顔もどす黒く、とてもじゃないが元気そうだとはいえない様な顔だった。

私は彼のことを心配して「会おう」と約束し、住んでいる場所に覚えがあったので自転車をこいで走っていった。
車の通れるような路地を自転車で走りながら、どこらへんだろうと探していく。
最初はきちんと碁盤の目に住宅地も整備されていたが、だんだんとアスファルトがなくなり、タイヤの跡で草だけが剥げたようなでこぼこ道を行くと、ようやく民家の点在する一角に彼の住んでいる家を見つけて自転車を止めた。

ちょうど彼は地下から友達と上がってきたところだったが、その地下というのが入り口だけでも少し気持ち悪い。
というのも、入り口から奥へとフジツボのようなものが生えていて、私はそれを見たとき、キノコを栽培しているのだと直感的に思った。
その胞子が入り口にまで来ているのだ、と。

久しぶりに旧友に出会い、2階へと通される。
その家では旧友を含め3人住んでいたのだが、2階にいたもう1人のやつは、完全に薬をやっているのか少し話がわからなくて、支離滅裂なことを言っていた。
そして台所の近くの壁にかけてあった、小型の針付の瓶。
ちょうどサイズが小指の先ほどで、そこから小さな針がついているものがびっしりと並べて掛けられてあり、ひとつ小瓶を抜き取ると腕に注射をしだして、先ほどのピリピリしたような雰囲気とは打って変わって安心したような表情になり穏やかになった。

部屋の中も見回ったが掃除などされておらず汚い。
それに、こいつらやってるのヤクだろと、さすがにわかり旧友を外へ誘い出し自転車に乗せて逃げようとする。
旧友を乗せて自転車をこぐのは大変で、のろのろとふらつきながらも走るが、最初地下からあがってきたやつが気がつき、後ろで何か叫びながら追いかけてきていた。
マズイなと感じながら余計に力を入れてでこぼこの悪路を走る。
やがてパンパン! と乾いた音が鳴ったかと思うと、目の前の民家のトタンに穴が開く。
やられる。逃げないと。
そうやって逃げて、目が覚めた夢。

起きてからも友人の亡霊のような顔が忘れられなかった。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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