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あさかぜさんは見た

日記

01/16

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2026

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03/11

Sun

2012

去年の今ごろ

確かバスの中にいた。
温泉地に向かう途中で、久しぶりの温泉を楽しみにしていた。
震災を知ったのは、夜につけたテレビだったように思う。
携帯電話のメール機能などがほとんど使えず、辛うじて電話が通じた。
北海道内だが心配になった母親が電話をしてきた。
無事であることを伝えると安心したようだった。

テレビをずっと見ていて何かができるわけではなかった。
ひとまずは温泉地に来たのだからゆっくりとリラックスして楽しもうと思った。
できることをする。
楽しみにしていたのだから、楽しむべきだと考えた。
もし身内がいたら、友達がいたら心境は少し違っていたのかもしれないけれど、それでも人には各々の日常と囲まれている環境がある。
地球規模で見ると人間には不条理さがつきまとう。

一年経って何か進めたかというと、どうにも居心地が悪い。
誰かのために何かしなければならない前に、自分のことをしなければいけない。
その自分のことすらまともになっていない。
動けやしない。
そして自分のことができたら、今度は支援してくれた人にお返ししなければいけない。
順番があり、その最初のやつさえこなしていない。

進まなければ、という思いが随分空回りしているようにも感じるけれど、それでも苛立ったり焦ったりしてはいけない。
そうして、進んでいかなければいけない。
思いだけ、ぽかんと浮かんでいるような気持ちだ。

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03/07

Wed

2012

サザエさん BANDE  DESSINEE



こういうパロディを見ると、どんなコンテンツも見せ方次第で大きく印象も、その後のコンテンツの運命も変わってくるのだなと思う。
どう見せるか、中身を外に出すとき、どう加工していくか。
その作業はマーケティングだ。
こう見ていくと地味なサザエさんのイメージもぐっと変わるし、別物になる。
中身とは少々違って他の作品を混ぜ合わせているけれど、それでも魅せる、見るものの心をぐっと掴むには、優れた感覚が必要なのだなと感じる。

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03/06

Tue

2012

テストが怖い

いいアイディアが浮かんで、また懲りずに送ろうと思うのだけれどね、新人賞。
でも今回のは「意味を解体した小説」なので、文章というよりも詩の羅列。
それが小説になるのか、という疑問はあるけれど、試してみるのも悪くないと思っている。
ただ、審査員のハイコンテクストなコメントを見ると、反吐が出てきそうなほど気持ち悪くなる。
どうして作家とは、人に対する具体的なコメントを示さなければならないところで、他人に非常にわかりにくい表現を使うのだろうかと、いつも疑問に思う。
だから私は理路整然とした文芸評論家が審査員になるのならまだしも、オタクを極めた「作家」なる存在が審査員の半数以上を占めて他人の審査をするのは、本当に愚かなことだと思っているし、実際半分近くの作家のコメントが非常に分かりにくく、一般人に理解しがたく、独善的で、お前の文章の発表の場でもないのに厚顔無恥な「論評」をツラツラと書き連ね、他人を煙にまくような幕引きで終わらせる、あの滑稽さとくだらなさが大嫌いなのである。
ああいうハイコンテクストで否定されても、やたら自分の心の中が散らかされた感がするだけで、何の足しにもならんといつも感じるのである。

思えば、こういうのは答えのないテストのようなもので、そういえば、私はテストが大嫌いだった。
元々、メンタル攻撃に対するバリアはもう使い尽くしたようなところがあり、諸肌さらしているようなものなので、やわらか戦車なのである。
豆腐の角に頭ぶつけて負傷するレベルなのです。
そして、否定されることが、死ぬほど恐ろしいということに、改めて気がついた。
私の心の底には「認めてほしい」という気持ちが強く、つまりは自尊心が否定されてきた分、それをどこかで強烈に補おうと飢えているのだと思う。
だから、頑張ったものを否定される衝撃を味わうよりも、最初から頑張らないことで、あえて「悲惨な結果になって当たり前。言われた通りの人間だ」と自分を納得させる方が安心できた。
このような心理作用を「ゴーレム効果」と言うらしい。
反発心を持って、何クソと頑張れる人も中にはいるが、私は「お前はダメなやつだ」と言われれば、なんとなくそんなような気がしてきて「ああ、お前の言う通りになってやるよ」と意固地になってダメなところに走るようなタイプだった、というか今もそうなのかもしれない。

それで、そんな状態でどんどん追い込まれて、逃げ場のようなものがなくなってくると、今度はもう進むしかないなと開き直り、今は少しずつ精神的な安定も取り戻して一歩ずつ踏み出しているところだ。
きっと将来この手の日記を見れば「ああ、こいつなんてくだらないことを書いているのだろう」と思うのだろうが、その気持ちこそ大事であって、やっぱりもしそう思ってしまうなら、この日記も文章も今しか書けないものとして記録しておこうと思うのだ。

淡々と何事もなく人生を過ごせている人にとってコンプレックスを強烈に抱えている人の気持ちはわからない。
それこそ白髪が増えるぐらい具合が悪くなるくらい悩んでいるものなのである。
そうしたコンプレックスが私には強くあり、何かと比べられて卑下されるのが、もうトラウマレベルで嫌なのだ。
もし大きなものをつかもうとしたとき、当然この手のコンプレックスは克服していかなければいけない。
昨日までダメだったのなら、今日少しでもよくならなければならない。
そうしなければ同じ器の中、同じ部屋の中でぐるぐる回っているのと同じことだ。
人間が人間らしくあるのは考える葦、現代風に言うなら常にアップデートされるソフトウェアだからだ。
昨日の自分よりも少しだけよくなっていく。
そんな風にして人生は自分を克服していくものだ。

さて、3月にやることは決まったけれど、動悸が止まらない。
コンプレックスってこういう自分が意識してない勝手な作用が体に出てくるので怖い。
しかし克服しなければならないものなのだ。
頑張るかな。

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03/05

Mon

2012

絶望と希望

ずっと家に引きこもりの生活をしていて、自分の思考回路の中であれこれぐるぐる考えていると、自分の直前の思考を拾い、さらに広げていくため、私の場合はどんどんネガティブになる。
まあ、そういう癖がついているのでしょうけれど。

そういう自分の癖がわかってくると、酒に逃げる。
ダッシュで酒飲む。
思考回路を散らす、ということを昔からやってました。

なにせ、何度も書いている通り、基本的には鬱屈したものが心の根底にあり、まだそれを浄化しきっていないので、人に対し、物事に対し、なかなか寛大になれないわけです。
そんな中、色々あれこれ物事が思い通りにならないと子供みたいにストレスがたまってくる。
それで塞ぎ込んでくる。

しかしちょっと待てよと。
昔は心理的な束縛があり、その束縛から逃れることができず、とにかく病んでおり、命すらも軽視するような考えをしていましたが、今は少しだけ前向きな考え方ができるようになっております。
例えばうまくいかないこと、物事を思い通りに飲み込めないこと、そんな自他への動きに消極的な気持ちを抱き、すぐにもうダメだ、なんて思いがちでしたが、今は「健康でやれることがあるうちは幸福なのではないか」と思うようになっています。
これが誰かの圧力を受けている。
身近な何者かに心理的な迫害を受けている。
社会情勢政治的に行動が制限されている。
勉学しようにもその環境がない。
食料水衣服など生活に最低限のものが揃わない不安がある。
などという状況があれば、とても不幸な気持ちを覚えますが、少なくとも何か挑戦できるような気持ちがあり、環境があるのなら、それはとても幸福なことなのではないかと思うわけです。

今の私には色々目標があり、死ぬまでにはノーベル文学賞をとってやろうか、という気持ちがあります。
この年数は約40年以内を目指しているわけですが、日記を書いている時点ではまだ32歳です。
成人してから12年と半年は過ぎてしまい、今ようやく心理的抑圧状態、苛立ちやストレスで半日以上も思考回路を使うという日々を過ごす状態からほとんど解放されつつあります。
色んなことを勉強したり、将来英語で小説を書けるように、その前に話せるようになろう、世界を見ようなどなど目標がたくさんできてきて、ようやく少しだけわくわくできるようになりました。
こう考えると今の自分にはやれることがたくさんあって、それに向かえるわけだから、とても幸せなはずなのです。

昔だとちょっとしたことでネガティブ回路がフル回転して、もうどうにもならなかったわけです。
今友達が塞ぎ込んでいて一年以上も部屋の中でいて死にたいと毎日思っているようですが、そういう心理状態は凄くよくわかるだけに、自分が今興福だと思っているからと言って、こうせよとは言えないのですが、少なくとも誰かに連絡ができるということは、まだまだ救いの可能性は残っているわけです。
完全に絶望的な状況ではない。

発想を変えても、思考がついていかないことがあります。
心理的な病の場合は、どうしても脳のシグナルの異常も含まれるので治療が必要ですが、まだそこまでいっていない人は「できないこと」よりも「やれそうなこと」に目を向けてみるとよいです。
そこで大事なのは完璧主義にならないこと。
周囲の野次に絶対耳を傾けないこと。
それが大事だと思いますよ。

世間の皆様は普通大学を出て就職して三十半ばときたら役職などついてくるわけですよ。
それを30過ぎてようやく歩み出している自分など世間様から見れば屑同然。
そういう自分が周囲から見ればアホのようなことを書いている。
それでも私自身は希望にあふれているわけですよ。
そして自分にはできるだろうなと薄々感じている。
あとはその努力をするだけなのです。

たまたま調子がよかったので書いてみましたよ。

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03/04

Sun

2012

狂気と狂喜と凶器と

「きょうき」という日本語は色々な漢字に変換できる。
文章活動をしているけれど、よく「きょうき」という言葉を考える。
これを言葉の上で意識しだしたのは何でも鑑定団で伊藤若沖の紹介VTRを見たときからだった。
自分の中でしっくりとくるものがあった。
若沖は一年間庭の鶏をじっと見続けたという。
そして「きょうき」を見た。
宇宙を見た。
己れが鶏に宿って絵となった。


http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic43.htm


そもそも、芸の世界などまともではない。
まともではない世界からまともな世界へアプローチするようなものだと思っている。

伊藤若沖は鶏の中に「きょうき」を見た。
そして、現代に金魚の中に「きょうき」を見ている芸術家がいる。

"Goldfish Salvation" Riusuke Fukahori from ICN gallery on Vimeo.



深堀隆介。
http://goldfishing.info/about/kingyo.html

かつて私が山形を旅行したとき、確か酒田駅だったと思うが、庄内金魚がいた。



美しい尾びれが風に旗のようになびいて天女の羽衣になっていた。
凄い金魚があるものだと数分じっと見入ってしまった。
金魚など小さなころにお祭りで救ってきたものしか飼ったことがなかったので、別に興味があったわけでも詳しいわけでもない。
少し調べてみると金魚は人工的に生み出されたもので、自然の中にはないという。
つまり人間が交配させて生み出したひとつの芸術品だと言える。

水槽の中をひらひらと泳ぐ金魚を眺める日本人。
その中に何を見たのであろうか。
なぜ金魚ひとつにここまでこだわるのか。
美意識とはどこからくるものなのか。
最初に見つけた中国人はどうして金魚を作り出したのか。

芸術家にとって人生とは何を見て何を宿すか、なのかもしれない。
しかもその見るべきものは日常性の中に潜んでいる。
身近な自然の中にあるのだ。
結局は自然的なものを宿していき、それを突き詰めていくのだから、究極的なものは「宇宙観」になる。
自分を越えて周囲になり、周囲はやがて拡大し、そして見えないものへと近づいていく。
想像よりもずっと超え、妄想をぶち破り、そして現実と相対し苦悩し、さらに現実を越えると、「ゆめうつつ(夢現)」となる。
つまり究極的なリアリズムである「夢幻(無限)の世界」になっていく。
なぜリアリズムを究極的に突き詰めると夢幻になるかというと、時間の流れと人間の一生を比べればすぐわかることだ。
生は儚い。「人」に「夢」と書いて、「儚い」のだ。
芸術とは限られた生の中で宇宙を目指そうとする作業だ。
完全には成し得ないからこそ、成し得ようとする、神に近づきバベルの塔を建てるようなことをしていく。
それが本物の芸術家なのだと思う。
そこには「きょうき」が宿っている。

さて、私は文章に携わっている。
文章をまとめると最後には「本」になる。

ヨコハマ創造センター「天野太郎」氏の講演を聞きに
深堀隆介のブログ 金色ノ鮒 より

アートで生計を立てることは、批評と市場という枠組みが不可欠だといっていた。

批評とは、「この作品はこんな作品ですよ」と世に伝達すること、野菜の産地表示や、WEBで買い物する時のクチコミ欄みたいなものも批評だということ。

それを市場(ギャラリーや、美術館、コレクター)が紹介したり、売買したりする。それで、また作家が新しい作品を作る・・・・。

この仕組みは絶対に変わらない。というお話しは興味深かった。


この仕組みを考えれば、アートはビジネスだと理解できるだろう。


以上の文はこちらの世界にも言えることである。
まがりなりしも文筆活動を続けていこうと考えているのだから、どうしてもお金を取るということは考える。
あらゆる場所で従来の売り方が崩壊している中、デジタルの時代と向き合おうとしている。
今はその過渡期だ。

「本の性質」を考える。
視覚にダイレクトに訴える絵などに比べて本はといえば「閉じられて」いる。
「閉じられている」から、「開いた者」に「編集権」みたいなものが与えられる。
この「編集作業」も「伝達」の一種だ。
「伝達」が機能しなくなると開かれることもない。
それは本ができる前から始まっていて、本ができてからも続けられなければいけない。
それが「閉じられた世界」における「伝達」だ。
「開かれ」なければ「閉じられる」。
放っておいても「閉じられて」いく。
本は常に閉鎖的な作用をもたらしていく。
電子書籍の世界になればなおさら埋もれるので閉じられる性質は強くなる。

私たちはよく開かれるべきアプローチをしていくべきであり、その伝達の手段を日々考えている。
もしかしたら鶏や金魚もまた閉じられていくものなのかもしれない。
それを開き、表現し、伝達している。
書店がなくなる、新刊がどんどん出る、ネットにどんどん依存していっている。
私たちが身近に触れるべき「開かれたもの」が狭まっていく。

そこで「狂喜」を考える。
創造するとはある種の「狂気」と「狂喜」の伝達だ。
本はあらゆる段階で編集されるという。
本が出来上がった後でも書店の棚でも。
そして買われてから個々人の生活の中でも。

「伝達」には「きょうき」が宿らなければならないと考えている。
それはもうひとつの意味、「生物学で、神経繊維の興奮がシナプスを介してニューロンまたは筋・分泌腺などに伝えられること。興奮伝達。」を示すように、ある程度の刺激以上の信号でなければ伝わらないように。
ある意味、燃え上がっていなければ熱など伝わらないし、伝達など不可能だ。

私たちは「喜びのマッチング」を試みている。
自分が幸福だと思ったものを表現して何かを救いたいと思っている。
「伝える」ということの根底には、そんな衝動が隠れているのだと思っている。
「救われたい」と思ったらダメだ。
「救いたい」と思わなければ。
それじゃあ、「何を救いたいのか」が「伝達」する上で「伝えていく」上で大事なのだと感じている。

そこに「きょうき」は宿っているか。
芸術家が背負う命題だろう。
刃物は人を傷つけるためだけに存在しているのではないのだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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