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あさかぜさんは見た

日記

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02/18

Sat

2012

第146回芥川龍之介賞作品「共喰い」 田中慎弥 



第146回芥川龍之介賞作品。
すいません。今回は文藝春秋からです。
なので「共喰い」のみで。

キャッチコピーは「泥河の鰻とセックスと暴力と祭り」といったところでしょうか。

最初の感想としては「ああ、こういう際どいテーマ持ってくると必ず嫌悪感示す人いるんだよな」と思ったらやっぱりそうでした。
予想通りの反応とはいえ、会見のVTRもあってか、嫌悪感が先にきてまともに読めない人多数。

というのも男性作家が書いた「セックスと暴力」となると必ず「男性的視点から」というのがセオリーというか、だいたいの作品というか。
そうなると当然女性側が男性の欲望のままに、いいように扱われているイメージって持ちがちになるのですよね。
そこをしっかりカバーしないと「作者の都合よく人物が動かされている」と言われたりします。
これは女性作家にも言えることなのですがね。

そして男女とも嫌う「汚さ」というのもあり、汚れた河で釣り上げた鰻を食すというのも読んでいて嫌悪感をより一層抱くポイントでもあります。
男性が鬱屈していて我が強い、協調性もないとなってきたら、気持ちよくは読めないでしょうね。

何にせよ、一番凄いなこれ、と思ったのは「タイトル」です。
作品全編を見事に貫いている「共喰い」のタイトルは中身のおどろおどろしさを示すのにこれ以上ない秀逸さだと感じました。
文の細かな構成や登場人物それぞれが食い合っているんですね。
冒頭に出てくる淡水と海水が混じる川底にゆらゆらと揺れる藻を見ているような感覚に見舞われますし、この出だしあたり瞬時にして読み慣れた人は「いつもの流れか」とも思います。
「性と暴力と土着性」ときたら、だいたい古い読者は「中上健次」を思い出すでしょうし、私も途中までふっと頭に浮かんだのですが、まず消して頭を真っ白にして読みました。
文そのものは近代文学のような、ちょっとお堅いイメージを抱かせますが、構成が大変面白く短篇として文の構成の各ブロックが、それぞれのシーンや人物の心境とリンクしているところ、これは啖呵切っただけのことはあると感じました。
川端康成、司馬遼太郎、三島由紀夫等に影響を受けたと本人おっしゃっておりますが、なるほど、これは川端康成を彷彿とさせるかもしれない影がうっすら確かに見えます。
そのうえで選評で、ある方が「伝統的」と表現されたのかもしれません。
短篇としての仕掛け、道具、これもよく掛け合っていていやらしい感じで発酵しています。
最後、あれに気がつくあたり、救いなんじゃないでしょうかね。
まずああいったタイプの男性って、まったく気がつきませんし、気が回りませんからね。たとえ一瞬気がついても、すぐ忘れますよ。
少なくとも女性にとってデリケートな事情は「男性には関係ない」ことなのかもしれませんが、とある女性選評者のように、たとえ照れ隠しであっても「心配される筋合いはねえ!」と言うような母親を持たなくて心からよかったと思っている次第であります。
私だったら気持ちが悪くなって二度と顔見たくなくなりますから。

いわゆる「エログロ」の世界観にも似た雰囲気、これは「春画」の世界観でもあるなとも思えました。
鰻の顔をした大きな男が女を犯している。
その奥の部屋でも子鰻の男が初々しい女を犯している。
そういう構図の春画を彷彿とさせました。
しかしまあ、日本的かもしれませんが、陰鬱で濃淡だけの水墨画のような世界観は確かに表現が難しく、文章もやや隙があり、ところどころダブついている感があります。
おそらくそれは自分が尊敬しているものの影響をまだ色濃く受けていて、それが継ぎ接ぎ状態になっているからだと個人的には考えています。
本人も文章技術の未完成さ、達成したいものが先にあることを意識しているようで、そこがわからないと作家としてはもう終わったも同然ですが、これからおおいに変化していく予感を感じさせました。
私はみなさんが思っている以上に、この方は飛躍していくのではないかと思っています。

次は長編で才能を発揮しているのが読めるのを楽しみにしております。

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02/17

Fri

2012

そういえばバレンタインデーは歯医者だった

先週の火曜日に行ったとき「来週火曜日から空いてますけど」と言われ、「じゃあ火曜日でお願いします」と予約を取って普通に行ったら、なんとその日はバレンタインデーじゃないですか。

別に狙って行ったわけでもなく、かわいい歯科助手さんに導かれるまま「はい、火曜日でぜひ」と内心ウキウキしながら行ったわけです。
なんで「そういえば」と思い出したのか。
その日に気がついたのですよ。
チョコなんてものに縁がないからその日に気がついたんですよ!
そして縁がなかったから今更思いだしたんですよ!

やっぱり知り合いは、それとなく探りを入れてくるわけです。
「こいつはチョコなんてもらってないだろうが、一応念のため聞いておくか」という非モテ偵察を行ってくるのですよ。
「チョコ、もらいましたか?」
うるせいやい、と心の中では夕日に照らされながら河原で石ころを蹴っているわけですが、紳士なわたくしは「ええ! 歯医者で奥の仮の詰め歯ならもらいましてね! いやあ、ずいぶんと削り取られ、美女の歯科助手には歯石がたまっていますねと告白されましてね! よいバレンタインデーでしたよ! HAHAHA!」と充実した一日であったことを暴露してやると、さすがのわたくしの過密偉業スケジュールっぷりに「ああ、そうですか」と苦笑いを見せながらも恐れおののき、そそくさと目の前から退散していく姿を晒すのです。
まさに虎を前にしたウサギのように逃げ出すという具合でありまして、私は勝ち誇ったように笑みを浮かべるわけであります。
ああ、勝利し続ける男というのは罪だなと。

いつもながら歯医者にいくと死ぬほど緊張していて、水を飲む手が震えるというぐらいガチガチになっている。
「こ、このわしが、奮えておるわ……」
と心の中だけは余裕っぷりを示しているのです。
そしてその余裕っぷりは歯科助手の「奥歯の詰めものは取れやすいのでガムとかお餅とか、そういうくっつきやすいのは食べないでくださいね」という説明の時も相手をおののかせるほどに出ておりました。

「チョコは?」
「え?」
その質問を投げかけた時一瞬マスクの下の歯科助手の顔が歪むのを見逃さない。
(こいつがチョコ? もらえるのは義理か、その程度だろ、ふっ)
「チョコレートは食べていいんですか?」
なおも食い下がり必死の応戦。
弾幕の薄さに怯まず残り弾を敵前で打ち尽くします。
「え? ええ。キャラメルとか、そういうくっつきやすいものじゃなければ大丈夫ですよ」
そういう質問をしてしまったのも、歯科助手の後ろに見えるカレンダーの「14」の文字。
チョコなんてもらっていないのに。
せいぜい自分で買うぐらいなのに。
今日という日が憎けれど、決して同士を募るなどというマネはしたくなく、つい見せかけだけでも「ちょっとモテてます感」を出したかった……

ああ、その日は歯医者から出たとき世界が潤んでいたよパトラッシュ……

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02/16

Thu

2012

才能ってなんだろうね 素人作家の愚痴

「才能」というものをきちんと述べられるほど多くのものを見ているわけではないので、きっと「才能とは何か」という文章を書けるまで、あと10年20年かかっていくのだろうなと思っている。

今日は記録のための愚痴ブログになることをあらかじめ記しておきます(笑)。
なので極めて個人的な心情を展開するので何の役立つ情報がないことをあらかじめ書いておきます。

たいてい書いている人って、それなりの情熱を持って、楽しみを持って、思い入れを持って書いているので、きっと自分の作品は他の誰よりもおもしろいに違いないと少なくとも信じている部分がある。
こういう気持ちがなければ怖くって書けないのも確かだし、長文を書いていくにはこの手の高揚感が必要になる。
たとえそれが錯覚であったとしても、完成したときの達成感がないと、とてもじゃないけれどやっていけるものではない。

今日「カーネーション」というNHKの連続ドラマ小説で、よい台詞があった。
あのドラマは成功のためのヒントが数多く含まれている。
ビジネスの教材にできるぐらい凄いドラマだとも思っている。
もったいぶらずに、その台詞書けよと言われそうだから書く。
一字一句はあってないが下記のニュアンスで言っていた。
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
と、将来の世界的デザイナーがお母ちゃんに説教されるシーンがあった。
店の構えもアバンギャルドすぎてデパートの支配人から「品のある店構えを」と散々きつく言われる。
そりゃあ今だからこそ世界のジュンココシノだとわかっているから安心して見ていられるが、当時の感覚としてはどうだったろうか。
もうあまりにも前衛的過ぎてついていけないものがあったのではないだろうか。

HPを見ても現在でも非常に前衛的であることがわかるし、デザインと人がきちんとマッチングするための洗練された感覚が一目で分かる。
ちなみにHPはこちら。

ヒロココシノジュンココシノミチココシノ

今となってはセンスの凄みが世界中に知れ渡っている。

でもね、誰が将来世界的に有名になれるなんて保証できますか。
誰もできない。
もしかしたら失敗したかもしれない可能性がたくさんあった。
その「失敗した可能性をどう改善したか」があのドラマには本当にたくさん込められている。

ということで長くなりましたが、
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
という台詞まで戻ります。
この台詞は文章にも言えることではないかなと強く感じたのです。
いえ、芸術全般に言えることなんじゃないだろうか。
文章に限って言えば「読んでいる人がアクションを起こしたり、心の中でなんらかの強烈な印象を抱くことでようやく完成する」とも。
当然終わりのない、半永久的に続いていくことではありますが、やはり作品と受け手の因果は「受け手を見抜く発信者の心意気」にあるような気がいたします。
そして最後に完成されるのは「読み手の心の中」であります。

いや、今日は愚痴を書こうと思ったのですが、いわゆる私なんぞは「落ちこぼれ街道まっしぐら」のペースで歩んでいます。
それで周囲の人が自分よりも活躍するとイライラするわけですね。
差し置かれていっているような気がして。
でも本当は自分に才能がないだけかもしれない。
それよりも活躍している人は才能の片鱗を誰かに認められているわけで、そういうものを無意味にいちいち比較して現在の自分に当てはめて落ち込むわけです。
落ちこぼれは非常に強いコンプレックスがあり、その卑屈な感情を刺激されると包まれてあった柔らか膜が破けて一気に汚物が中から出てきて汚さをまき散らします。
長年積み重なった卑屈さがありますから、「そんな気にしなくても君は君だ」と言われてなんとかなるほど軽いものではないのですね。

それで大抵コンプレックスを持っている人が小説やお話を書くなんていう根暗なことをやり始める。
自分の心への一種の救済行為として始めるのですね。
だからまず人に認めてほしいという感情が全面に出てくる作品が出来上がります。
自分の実現したいことや鬱憤などが当然出てくるので、どうにも読んでいられないものが出来上がる。
それでも自分としては懸命に、それこそ生涯で使ったことがないのではないか、というくらいに情熱を注いで作り上げますから余計に否定されると全人格否定を受けたような衝撃を受けるわけです。
笑い事ではなく、本当に。
素人がやっているわけですから、プロの世界などしるよしもなし、こんな文章などでは通じないしもっと洗練させてたくさん文章を読んで他人の技術とか発想とかを盗んで身につけないと到底生涯やっていけるはずはないのに、なぜか自分を「天才」のように錯覚してしまうのもこの頃です。
だいたいコンプレックスを持っている人間は通ってくる道だと私は勝手に思っているわけですが、素人の皆さんは思い当たることありませんか?

ということで今現在私は自分自身にとても無力感を感じていながらも、「まだ達成できていない数々のこと」に思いを巡らせながら「俺の実力はこんなもんじゃねえ状態」で頑張っているわけです。
「才能って何だろうね」ということは何度も考えたし、自分の才能のなさに本当に大泣きしたこともあります。
正直に告白すると去年応募した坊ちゃんの文学賞はやたら自信があっただけに最終選考に引っかかりもしない惨めさに号泣しました。
これホント。
それぐらい情けなくて申し訳ない気持ちでいっぱいで生きているのも肩身が狭いというのに、ああ、どうして自分はここに意固地になってしがみついているのだろうと考えたりするわけです。
結局、これを奪われたら本当に自分の軸のようなものがすべて引っこ抜かれるような感覚になってしまうからなのだろうなと思うところがあります。
こういうので食っていける、成功する、芸術分野において、そんな次元にまで行くには人生一つ賭けていかないとダメなものなのではないかと思うところがあります。
食えなくて連絡とれなくなって飢え死にしているんじゃないかと思われるような末路も見ているので自分も覚悟しなければいけない部分が大きいのですが、思い返してみれば長年思い描いてきて「創作のための環境」が少しずつですが整いつつあります。
それは自分の努力の部分による所は少なく、ただの幸運ではないかと思ったりもしますが、これも「誕生」のためには必要なことであって、「誕生」のための条件も整いつつある。
去年の終わり頃から「そろそろこの埋もれた状態に終止符を打ってもよいのではないか」「こちらで味わうことは一通り味わった。屈辱も苛立ちも」と思い始めているのですが、まだ何かが足りないのかもしれません。
それがわかったらすんなりいくのかもしれませんが、ああ、ひとつだけわかっているのは「技術」と「面白み」ですね。
これがまだきちんとわかってないんじゃないかと思うわけです。

そろそろ、素人の域は出たのではないかと勝手に思っているわけです。
それと常々思っているのですが「素人だからと言って何も擁護されない。素人でもプロ根性でやらなければ、いざプロになったときに使い物にならない」という気持ちを持ってやっております。
いくら言い訳しようとプロになったら結果がすべて。
結果を出せないものは忘れ去られ時代にも人の心にも残らない。
芸術家の厳しい運命がここにあります。

どうしてしがみついているのか。
もうひとつ理由があります。
前にも何度か言っている理由の他に不思議な縁についての理由がもうひとつあります。
それは必ず一人二人直接「書いてください」とお金を払ってくれる人がいる。
一人二人とか思うかもしれませんが、少なくとも一人でも二人でもいるって凄いことじゃないですか。
しかもネットでショッピングするって結構な手間がかかるのですよ。
店頭で財布から出すのと違ってカバンの鍵を開けて、巾着の紐を解いて、中のお金を取り出して、というぐらいの手間がちょっとかかるのですが、それでも買ってくれるってことはやっぱり相当なんだろうなと思うわけです。
アホらしいと思われるかもしれませんが、こういうところにもしがみついているわけですね。
いきなり大きなところから考えていたらどうしようもないわけですよ。
いきなり不特定多数の人のことを考えていても道を踏み外すような気もするのですよ。
自分は着実に進んでいる。
そして遅いペースではありますが、応援してくれる人もいる。
この先もしかして儲かってしまったら忘れるかもしれないこの気持ちを、きちんと覚えておいたいのと、やっぱり今の状態にもの凄く苛立ってどうしようもなく周囲をけなしたいと思いつつ、一番寂しい思いをするのは自分だとわかりきった私がここにいることを、ちょっと記録したくて今日は長々とつまらぬ日記を書いた次第でございます。

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02/11

Sat

2012

電子書籍は何故ハイパーテキスト空間で孤立する運命にあるのか

偶然本にジュリア・クリステヴァの言葉が引用されており、「テキストは生産物ではなく生産性である」と書かれていて、なるほどと思い検索して見つけたこのサイトに凄いことが書いてありました。

東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 山口裕之教授のサイトより
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/inet_lec/index-i.html

このウェブ講義の12回目に書いてあるネットテキストの将来。
しかも10年以上も前に考えられていたのだから驚きました。
そこから私が強烈に学んだことがあります。

端的に書くと、以下になります。

ハイパーテキスト空間においてのテキストはオリジナルを小さな穴で覗くがごとく断片的に存在していく。
つまり「検索エンジンで検索したテキスト」は常に「オリジナルの断片」であり、オリジナルの断片は「検索エンジンで検索したテキスト=自分の興味のある分野のみ」になるわけです。
つまりハイパーテキスト空間では、「検索=興味=テキスト」の関係が常に成り立ち、そこに完成された一つのパッケージとしての「電子書籍」は、ハイパーテキスト空間における「油」で、常に水(「検索=興味=テキスト」)の底に沈む運命にあるわけです。

以上の理由がハイパーテキストと電子書籍の決定的な違いになり、そして電子書籍がハイパーテキスト空間で孤立する運命を決定づけています。

だからと言って電子書籍にはまったく未来がないかと言ったらそうではない。
「検索=興味=テキスト」の関係性は絶対に崩れない。
常に「オリジナル」を針の穴で覗いていく「検索によって導かれたテキスト」「興味のあるテキスト」を読むという行為は、まず崩れることがないにしろ、これは「点描画」であると言えると考えます。

検索で覗かれた一つ一つは小さな点であるとしても数多くの点を打っていくことで最終的には「絵」になる。
しかしその「点」である一つ一つのテキストたちも、検索エンジンやネット空間というデジタルの海に消えていく作用は強烈に働いていくわけです。
せめて私たちができることは「点ではなく点描画だ」と示唆することです。

そんな中で後半で書かれているのですが「「書物」がより細分化された単位同士の結合である」という点が重要であり、ハイパーテキスト空間であっても結合の仕方が大きく変化しているだけで、テキスト同士の結合性の性質はそれほど変化していないのではないか、という点です。

検索でテキストを探すということは、よりピンポイントなわけです。
検索したテキスト以外は興味がない。
これはユーザーそのものが編集作業をしているのと変わりがない。

どうやら我々が電子書籍を扱う上で最も注意しなければいけないのは、このハイパーテキスト空間上のユーザー任意のテキストの結合の仕方であり、その関連性の中にテキストを配置していかなければならないのではないか、という点に尽きると思います。

しかし私が実際に電子書籍やテキストを配置している中で実感するのは、たとえ「検索=興味=テキスト=点」であっても、「点のオリジナルである点描画」は用意しておかなければ、本当にデジタル上の「点」でしかなくなってしまう、ということです。
「点」が強力であれば強力であるほどよいにこしたことはないのですが、そう連発できるものではありません。
最も理想的なのは「個人が記号化すること」でしょう。
例えば法人でも「SONY」とか「TOYOTA」とか言われれば、すぐそれが何であるかがわかるわけです。
つまりテキストが完全にシンボルとなっていて「記号としての意味」を示している。
今ネット上で勢力をふるえるテキストを発信できるのは「記号化した個人」「シンボル化した個人」であると言えるでしょう。
しかしこれもそう簡単になれるわけではない。

一番最後のところになるとハイパーテキスト、デジタルという道具によって変化した感覚が、テキストのオリジナル性を歪めていく機能を指摘しておりますが、ここは私も危惧しており、テキストを生み出す人間の大きな課題となるだろうことは目に見えております。

そして最後に指摘しておられるこの部分。

これからもし、ハイパーテクスト的な読み方が社会・文化において圧倒的な力をもつものとなるとすれば(ちょうど、技術メディアによる映像的・音響的な文化がそうであるように)、そういった読みのあり方、さらにはそれによってもたらされる文化のあり方を無視することはできなくなるはずです。こういった事態がとりわけ顕在化するならば、それまで絶対的な準拠枠と思われていたテクスト的な思考、テクスト的な文化のあり方に対して、疑問が生じることにさえなるでしょう。ハイパーテクストとポストモダンの「収束点」は、まさにこの根本的な点にあると考えます。コンピュータは人文研究のための有用な道具となりうるという側面を持ちながら、同時に、人文的な思考のあり方そのものを解体する可能性をももっています。自分の手の中にあると思っていたものが、その特性にしたがって、知らないうちに自分の立っている基盤そのものを掘り崩すことにもなりうるのです。

これを電子書籍に置き換えるのならば、ハイパーテキスト空間で解体・変貌を遂げたオリジナルの欠片、これを一般的には「コンテキスト」と言いますが、この「コンテキストに電子書籍は対応できるのか」ということが、電子書籍をデジタルの中に置く上で見えてくる最終的な目標となることは言えると思います。

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02/10

Fri

2012

五感を欠落させないこと

これからどんどん情報化社会になってきて五感情報が欠落してくる。
何度も言いたいのだが、繰り返し言うつもりだが、五感情報を欠落させないことが重要だと思っている。

そんな中、ふと、この言葉遣いでは通じないのではないかというまとめがあった。
よく聞くことだが「精神疾患は努力で治る。精神病になるのは甘え」というやつだ。

私はこの理屈で、冗談でも誇張でもなく現実で命を一つ二つ犠牲にしそうになったので、口が割けてもこれが言えない。
だが、そのような危機になる前は確かにこの理屈はまかり通っていたし私も苦しめられた。
自分が人殺しになるかもしれない、などという危機感などあろうはずがない。

そもそも人間はとことん因果な生き物で、自分の感覚に近い情報を集めて脳内情報として編集し、蓄積していく癖がある。
なので基本的には思いやっても、わからないものはわからないし、理解しようと思っても限度がある。

まとめられていた内容を端的に言うと、「甘え派」の主張は自分の主張がくくっている「グレー」の部分と「アウト」の部分を混同していて、もはや医療そのものに対する批判、暴言にまで自分の主張が達しているのに、その分別ができていなかった。
ようは自分が見てきた、主張してきたものを肯定する情報だけ集めていたのだが、大事なのは自分の意見が批判された時に他者を納得させられるだけの論拠が提示できるかどうかが対話であり正しい分別と思考なのだ。
最もやってはいけなかったことをやっていたのだが、「アウト」の部分「完全に精神疾患となり苦しんでいる人たち」「もはや自分の努力ではどうにもならない人たち」を、「グレー」の部分である「自分が主張している半分落ち込みぎみで努力でもなんとかなるが鬱にもなりそうな人たち」と混同して絡めていた。
自分が思い描いている「グレー」の部分を「アウト」部分と絡めるだけではなく、医療や精神疾患の人たちにまで主張が及んでいるのが完全な暴論や罵倒の部類であるということに気がついていなかった。

このように自分の感覚に沿って情報を集めるということは、いくら表面上綺麗に言おうと以上のようなとんでもない罵詈雑言の範疇を人に対して叩きつける暴力を平然と行ってしまうことにもなりかねない。
そしてこのような主張のほとんどは実例に基づくものに乏しく、ほとんどが「また聞き」「間接的情報」による推論と「極めて小さな規模の個別の事情の集積」による極論である。
テレビでああいっていた、私の友達が知り合いが、といって全体を否定するのは完全な感覚の閉鎖性を示している。
これは分別ある大人とは言えない。
何も理解していない子供が言うことだ。

おそらくこの「甘え」の主張をした人は、私が言う「五感を大事にしろ」の言葉も、自分の感覚の中に取り込んで理解するだろう。
私は経験している。経験したことしか言ってない。だから正しい。
もしかしたら全体には適応できず「自分とそのお仲間にしか正しいこと」なのかもしれないとは絶対に思わないわけだ。

このような事例が目の前に出たからには今回はまた私の主張を補足しておきたい。
そもそも正常な五感感覚とは「自然」であるということだ。
「自然」とは「自然物」のことであり、当然「人工物」ではない。
人工物は人間の作り出したあらゆるものを指す。
情報や自分の中に存在しているもの、人が作り出した物(物体)など、人工物である。
ここで「自然物」を出したときに、混同するところは、一体どこなのかということを考える。

端的に言えば「他者感覚を知る」ことができるのが正常な五感を鍛える近道だ。
私も小説を書いていてようやく気がついてきたが、閉鎖的な感覚、辛いときなど自分の主張しかできない。
自分の主張が精一杯で他人の感覚へ想像力がいかない。
これは知らないからしょうがないとも言えるのだが、他者感覚を鍛えるには、かなり辛いものがある。
というのも自分の感覚を優先させているうちは自分以外の自然に存在している感覚は少し理解し辛い。

例えば風を出すとわかりやすいのだが、風は体に受けないとわからない部分が大きい。
温度や湿度や風力などは体感温度でわかるし、時には雨や雪など気温や天候によって風の中に混じるものが違ってくるのはよくわかるだろう。
そして同じ場所に立っていれば、だいたいは皆同じ感覚と意見で仲違いをせずに一致すると思う。
しかしこれが「どこからこの風が流れてきているのか」とか「この風はどこへ行くのか」「どう変化してきて、どうなっていくのか」という部分になるとたちまち争いが起きる。
ここで一番正しい意見を言うものは足を使って風や地形や雲行きなどを追うものであって、その場から一歩も動かないで体感だけで言う人間ではない。

自然のものを知る。
五感を自然に慣らす、五感情報を人工物によって欠落させない、というのは流れる様々なものの中で自分の立ち位置を変えながら物事を見ていき、今までとは違った感覚があることを知るということだ。
そこに突っ立っているだけでも「知識」はつくかもしれない。
しかし実用的な知恵は頭だけ動かしていてもまったくわからない。
推論だけで語るならまだしも、他人にまで推論を根拠にして指示をするようになる。
自分はずっとここに立ってきて感じたことは間違いないから、”この先もこうなるはずだし、それを証拠付ける体験もしてきた。お前らもそうだ。”、となっていく。
自分は農耕民で相手が遊牧民にもかかわらず平然と言う。
「個人の意見」がいつの間にか「集団の理論」にすり変わる瞬間だ。
自分が立ち位置をまったく変えない限り、自分のテリトリー内での意見であることをわきまえられないと、何もかも絡めてやたら大きな問題にまでしてしまう。

多くの分別のつかない人間がすることは、コンパクトにまとめ、選り分けなければならない問題を、あれもこれもごっちゃにすることで雪だるま式に問題を大きくして、場を混乱させるというのがあげられる。
物事を知ることがなぜ辛い作業なのかというと、自分の立ち位置を変えることは、時として真っ向から反対してくるものの立場と考え方を知るという場面にも遭遇するからだ。
この作業が一番苦痛を伴うし、相手の攻撃性に余計に持論を固めて意固地になる心理作用が出てくるため、大抵の場合は、喧嘩別れする。
それも自分の知識や知恵や教養不足からくることなのだが、攻められ反発しなければ敗北感に見舞われるため、相手を認めたくないし、もし認めてしまったら自分を否定することにつながると感覚的に思うのでやらない。

頭では議論を公平にしたいとわかっていても、感覚的に「勝負」の土俵になってくる。
おかしなことだ。
もしかしたら世界はこんな風に争いを繰り返しているのかもしれないが、少なくとも持論を引っ込めてよく相手を観察することでしか相手の感覚は飲み込めてこないし、感覚が飲み込めないと言語感覚すらも理解できないと私は思っている。

知識を深める。
よくものを知る。
自然を知っていく。
これは「ざっくり」ではいけない。
植物は緑だ。
本当だろうか。
魚は皆水がないと生きていけない生き物だ。
水がないと生きていけない生き物は魚だ。
逆にしてみたがたちまち違和感が出てくる。
Aさんは明るい人だ、と言えても、明るい人はAさんだ、とは言えない。
かと言って、Aさんはずっと明るいままの人だ、とも言えない。
こういう当たり前の感覚が頭だけで考えているとわからなくなるのが怖いところだ。
このような間違いは人間はよく起こすが、その度に自分以外のもの、自然物に触れて頭の中を叩き直していく。
こういう作業ができるのが自然であり、五感が鍛えられていると言える。
昨日までの自分は今日の自分ではないし、ましてや他者ならなおさらだ。

いつの間にかざっくりと知った程度で「わかったつもり」になっていないだろうか。
何か異種のものに降れたとき、自分が間違っているかもしれないと疑問が持てるのが正常な感覚であると申し上げておきたい。
五感を鍛えるには「自然」に触れていることが大事だ。
それは決して理屈の世界ではないことが皮膚感覚でわかってくるだろう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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