うーん。
時々小説家を目指す人の中でネットで意見交換している人がいるけれど、最近ようやくわかってきたことがある。
例えば小説家と一言に言っても、大衆小説、純文学、ライトノベルと大きく書き方が異なる。
大衆小説は文章としての面白みやストーリーとしての構成のうまさなどが重要視され、純文学は人間の内面を深く抉り取っていくような人間洞察に優れた素質と奇抜な構成力が必要になり、ライトノベルは破天荒な空想の面白みのみを特に重要視する。
それで、特にこの三つの意見と考え方がごちゃごちゃになって区別もされてない状態になっている。
私の考えは文学とは人間を見つめるもの、というよりこれからの芸術は都市化社会の中で失われていく人間的感覚をきちんと刻むことがひとつの芸術が存在しえる理由となると思っているので、あくまで人間に寄り添って、というのが主軸にある。
だから立場から見てしまって、相手の望むものから大きくそれる意見を出すことも多々ある。
ネットでは自分の望んでいるものを実現させるために、自分の意見と似通った人を集めて自分の作品を肯定していく傾向があり、違った立場の人は違った立場で意見を押し付けてくるという、成熟してくればしてくるほど「要塞化」と「拠点攻撃」がなされ、最後の勝利者は他の意見が入りづらいように完全に周囲を同意権の人で固めて堅固な要塞を作る。
「要塞化」っていうのは、自分の思想を同じタイプの意見や人間構成で固めてしまうことね。
「拠点攻撃」は「要塞化」されようとしているものを、自分の価値観から崩そうとする人「小説はそうじゃない」とか言うのがそう。
この二つの攻防によって、偏狭な自らの世界観を誇示するというのが、よくあるパターンであります。
それで毎年懸命に文学賞に書いては送る人がいます。
文学賞の性質も調べないで、名前や好きな作家がそこから出ているからとか、文章よりもむしろ憧れに近いもので送るのですね。
「私もあの作家みたいになりたい」
「自分の作った文章が世に認められたい」
そして年間何十人も新人が生まれては一割も残っていかない悲惨な結末が待っているのですが、どうしても諦めない人がいる。
新人賞を受賞するまで諦めない人たちがいるのです。
ここら辺の心理は芥川龍之介の「芋粥」に滅茶苦茶近いものがあると思うのですが、食べたことがないばかりに憧れや妄想の中で膨らんでいく「芋粥」をぜひ食べてみたいのだとあれこれ思い巡らすのですね。
新人賞に応募している限りは、この話の結末までたどり着けないので、永遠に思い巡らしている状態なのですが、実は一番この状態が楽しいのではないかと。
だからやめないんじゃないかと。
そう思うわけですね。
で、これが救いがたい病であって、この病にかかった限りは、一生を費やしてもやり続けるかもしれない。
ある意味、幸福なのではないかと思うこともあります。
私も最近気がついたことがありますが、この手の人たち、自分もそうでしたが、とにかく「研究不足」なんですね。
小説は読まない、人間は観察しない、ヒット作に憧れ劣化を作る。
大衆小説における罪と純文学における罪とライトノベルにおける罪を平気でやってのけてしまう。
そのくせ、自分の作風に迎合する人間を集めてくるという、本当に救いがたいのは、自らの罪を数の力や慰めで浄化させようとするわけです。
しかしその「過程」は大事なわけです。
気がつけばいいだけで。
気がつかないから「罪」なのです。
これから先の時代、電子書籍なるものが出てきて、罪人どもが地獄釜で沸き立つようにボコボコと煮え立ち沸き立ち溢れてくるわけですね。
そして自分と似たような人間がわんさかいると安心しつつ免罪符を得ていくという、目も当てられない阿鼻叫喚の状態が渦巻いていくわけです。
そして河原で自分の作品を石のように積み上げては、大きな鬼、その名も「新人賞」という鬼に蹴り崩されるわけです。
さて、かと言っても、これからの時代新人賞や文学賞だけが文学の純度を測るモノサシではなくなるわけです。
彼らの業界も古く、依然として旧体質のまま。
温故知新どころか、温故・・・知新してみたけど温故という状態であります。
旧体質の構造を崩すには、古い人間の頭が一新される必要があります。
当然電子書籍にだって未来はある。
そう、誰にだって未来はあると、誰でも作家の時代が訪れて錯覚するわけです。
そしてさらに罪が加速するわけですね。
私が編集者や出版社の人間だったらダメなものは落としたい。
進歩ない勉強しない愚痴ばかり、挙句の果てには出版社のせいにする読者のせいにするという、私も堂々とやっていた救いがたい状態の自称なんちゃって作家をこの世から一掃してやりたいと鬼のごとく切り捨ててやりたい。
・・・おそらく、救いがたい状態が蔓延してくれば、こういうこと考える人はたくさん出てくると思います。
結局「ブランド力」をつけるための作業なのですね。
だいたい作家は作ることばかり考えていて、あちらさんの状態は知らない。
それでもいいのかもしれませんが、いかに自分の思想や作品がまだまだ眉唾であるかを知るには「学ぶ」ことでしかわからないわけであります。
もし本気で作家を目指したいのなら学ぶことなくして前進はありません。
「芋粥」を脱出できないのはどうしてだろうと、ふと考えた今日この頃。
[8回]
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