デビュー当時から一人だけ追っている若手の作家さんがいる。
まだまだ20代ど真ん中。将来性が高い。
そういう人が自分の中で出るのは珍しい。
今は幻冬舎アウトロー文庫などを中心にして「官能」と分類されるジャンルで書いているが、そのうちもっと来るのではないのかなと成長を楽しみにしている。
その人の日記の中で面白い文章があった。
うまく書いたつもりでも、読者の方には理解してもらえないことだってあります。
今朝、私の物書きの友達が、こんなメールを送ってきました。
「伝えたいことが伝わらない、そもそも伝えたいことには真に意味があったのかと迷うことがある」
言葉を綴って表現する者にとって、誰もがぶつかる壁だと思います。そもそもこの問いは「作家とは何か」という問答になるだろう。
書いているからには「伝え」なければいけない。
その「伝え」がしっかりと「伝わって」いるかは書いている当人にとっては重要な問いなのかもしれない。
私はどうかと言うと「意味を持たせて伝えるのは作家」だけれど、必ずしも「読者の持ちえる意味」まで限定して書いているのなら、それを後世の人は「作品」として残すだろうか、と思っている。
時代によって言葉のニュアンスも変わるし、当然環境の違いがあれば受け取り方も違ってくる。
作者の傲慢なのではないのか、とも考えている。
ただ「今作家として自分が存在している意義や意味」を「人々」に対して問うているのなら、充分に理解できる悩みだ。
しかし、そんな悩みは「私ってどうしてこの仕事しているのか教えてよ!」と言うのと同じようにも感じる。
もし「伝えたいこと」があり、「受け取って欲しいことを作者が完全に制御」したいのなら、「論文」を書けばいい。
そうではなくて、「何故小説という手段をとるのか」という問いがここにはない。
究極的には作家が死んで作品だけは残る。
生きているからこそ持ちえる贅沢な悩みだ。たとえ伝わらずに憤死したとしても、「表現」を突き詰める作家としては、それもひとつの「伝え方」なのかもしれないとも思う。
また人間の理解力の曖昧さと能天気さと身勝手さに絶望して「そのまま地獄まで落ちればいい」と死ぬかもしれないし「人間そのものの浅ましさ」に気がついて生きる気力をなくすかもしれない。
そもそもこの問いは「言葉とは何か」にも波及する。
同じ「平和」でも「幸福」でも人々によって様々な答えが出る。
「不幸」や「悲しみ」もそうだろう。
「あなたにとって幸せとは何ですか?甘いとはなんですか?」と問うた時、様々な答えが出るのはどうしてだろう。
それを考えていない。
作家はたいてい一人だ。
複数でやってもさすがに10人を超えることはないだろう。
しかし受け手は桁が違う。
多い場合には100万以上にもなる。
たとえば一人の人間が100万もの人間の意味を限定しようとするのならそれは「政治」だ。
「小説家」は「政治家」ではない。
しかし「政治機能」も持たせたいのなら話は別だ。
結局コメント欄で読者の方に「文脈=コンテキスト」を言われ目から鱗だったようですが、私は「読者が持ちえる様々な意味」にこそ「リアリティー」というものが存在し、そしてそれこそ「文学の本質」ではないのかなと考えているのです。
「小説化がリアリティーというものを失ったらおしまいだ」と平野啓一郎のブログでは書かれているが、私もこの言葉を時として反芻している。
「リアリティー」とは、目の前に存在するすべてのことであって「自分がここにいる」ということよりも「世界が存在している」ということなのだ。
その「世界」は「自分を主体」にしては到底見えてこないものだ。
作家はたいてい一人だ。
その作家を中心にして世界は存在している。
しかし「世界に対する解釈力」というものは「自分」が強ければ強いほど鈍ってくる。
このジレンマは恐らく作家や芸術家をしていればいずれ気がつくのではないかと思う。
世界に対する感覚の鋭さというものは、「自分」であって「自分」ではない。
「世界の一部」であるという「バランス感覚」だ。
卑屈にも傲慢にもならない、そこに意思や意味もまずは介在しない、そういうフラットな状態からいやがおうにも「個」が浮き出る。
その時初めて自分が認識でき、世界の中の単なる一部である自分が世界に対して共感をしだすのだと思っている。
勝手に文章を拝借してしまったが、見つかってクレームが来たら削除することにしよう。
[2回]
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