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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

04/25

Wed

2012

電子書籍も結局は企画次第です 誰が小説を読むのか

http://d.hatena.ne.jp/asaikeniti/20120424
誰か小説を読んでくれ

自分が感じていたことをよくまとめてくれています。
結局小説なんて「超ニッチ」であり、その作品には本当に少数の人間しか反応しないということなのです。
それで不特定多数の人間が集まっている空間では、その小説を好んで読んでくれる仲間を限定的に集めることは難しく、結局はサークルを作ってそこへどのように参加させるかが、まず最初の作業になります。
小説を書いているもの同士なら書いているもの同士集まる。
読んでくれる人もそこに集める。
当然作家や作品によってまたガラリと違ってきますから、作家同士でまず繋がらないと読者が繋がってこない。
しかも各々持っている読者層は作家によって違うので、ジャンルのまったくかぶっていない作者同士が繋がっても読者が繋がらないのは目に見えています。
そこで通常はオムニバスという形でジャンルや雰囲気の似通った作家をミックスさせてカタログ的に読ませるという手法がとられますが、同人誌のように熱心にそしてなるべく長期間発行しないと効果が出てきません。
単発での企画ではなく一年か少なくとも半年をワンクールとして考え企画を練る。
今までの書籍の考え方は単発式でしたが、ウェブの時代じゃとてもじゃないが通用しないし一週間で忘れ去られます。
なのでどうしても最初からロングランで考えていかないと読み手の印象には残っていかないのです。
ここは「どのようにして読者の生活習慣の一部とするか」という目標の元に企画を練るということが求められます。
そして読者を巻き込むということは、意志決定力の素早さも求められます。
要望クレームに即座に対応するような体制を取っておかないと、これもまたすぐ読み手が離れてしまう。
とにかく性質として今の読者は飽きやすく一過性であることは言えると思います。
この流れるような河をせき止めるのは相当なパワープレイが必要になるので、まず小さな規模のところは考えたところで実行できようはずもありません。
流れの中で流れに沿った形で案を練っていくのが現実的。

ということで、まずは半年続く企画から考えるとよいのではないかと考えております。
同種の人が集まらないと何もできないのでね。

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03/15

Thu

2012

月額課金で見放題 さて電子書籍はどこで稼ぐか

Youtubeに映画が一本まるまるアップされていた。
申し訳なさを感じながらも見てしまった。
映画には何億というお金がかけられている。
その莫大な予算と労力を少しだけ考えられるようになった作り手の側の立場からすれば、違法アップロードされたコンテンツへ「もっと見たいのでアップしてください」などというコメントには複雑な心境がわく。
自分もちゃっかり見たから同罪なのにね。

テレビでスマフォで月額500円ちょっとで5000タイトルの映画見放題という宣伝がやっていた。
コンテンツはどうしてもこの方向で、つまり「月額課金で見放題」へと時代は突き進むだろうとは感じながら、「一体どこで製作資金と、次作への余剰資金を得るのだろう」と考える。

コンテンツは「元手を回収しただけ」では、どうしようもない。
当然才能は作りながら積み重なっていくものだし、「次回の作品も期待します」と言われながらも次回作へ必要な資金が確保されなければ作られることはない。
ここら辺の感覚は「見ているだけの人」には、とことん欠如してくる。
身銭を切って物を作るということをしたことがないなら余計に欠如する。

もっと莫大な資金をかけなくとも作品が作れるようにミニマムな製作が好まれるようになるのか、それともあらゆるメディアミックスをしながら垣根という垣根が取り払われ巻き込んでいくのかはわからない。
いずれにせよ、お金を得られる瞬間というのは「いかに鮮度の高い話題性を呼べるか」にかかってくるのかもしれないと薄々感じている。
例えば「ライブ」であったり「今旬の俳優の最新作」「ドラマのスピンオフ」など、現在進行形で、かつ「誰かと話題を共有する時に古くさくないこと」が最も大事なことなのではないか、と感じた。
カラオケを歌うとき、結構大事なのは「場が盛り下がらないこと」だ。
歌われた分だけ権利者や作者に支払いがいっている。
歌う方の選曲で気を遣うのは「場を共有している」ことにある。
ソーシャルの大事な点も「場を共有している」ところにある。

アメリカの映画館に行くと、日本とはまったく違って、観客が劇を見るように反応する。
見せ場には「ヒュー」と盛り上がり、悲しい場面には「オー」と悲痛な声を出す。
ちょうど日本で言う歌舞伎の観客のように画面に向かって反応するのだ。
それは文化の違いと一口に言えばそうだが、「場を共有できる準備」が「観客」にも「作り手」にもできているということだ。
「場」というのは「両者の完成された空間」にしか過ぎない。
作り手にとって、この理屈は別に目新しいものでもなく、昔からこんこんと受け継がれてきたものなのかもしれないが、やたらと「ソーシャル」なのなんなのと、どうも変な理屈で現代風こじつけをされるようになってきてしまったのかもしれない。

さて場を作り上げるには観客も訓練されなければいけない。
個人的な信条や思想が作品の価値を大きく左右する本となると余計に難しくなるかもしれない。
どのように本を持ち寄った場を作るために訓練しなければいけないのか。
その試みは、どうやらあまりなされてきていないようである。
バラバラに存在し、そのバラバラを持ち寄って「商品の客観的な価値」を作るところまでは来ているが、バラバラを新たに再構成して価値を作るという新しい領域が出来ている人は少ないし、むしろそれができている人はうまくやっている。

もの凄くプライベートな感想を持ったとする。
でもそこで人に言う時、日本人が一番怖がるのは「場の空気を乱すのではないか」「自分が的外れなことを言っているのではないか」という「不和」だ。
違ったものに対して意見や感想を述べるというのは、よほど勢い余ったときぐらいしかない。
スムーズな場を作る上でやはり大事なのは、いかに会話や対話を繰り返してきたか、というところに落ち着く。
発言しやすい、参加しやすい雰囲気作りと場を作り込む力。
いくら人が来ても、これがなければ場として機能しない。

そして場として機能し始めて、ようやく本は売れるような気がしている。
落語やジャパネットでさえ言っていた。
「昨日の話題、例えばスポーツの試合の結果などを一言でも盛り込む。すると生放送だという臨場感が出てくる。これを伝えることが大事だ」と。
ということは「いかに鮮度の高い場を作れるか」にかかってくる。
そしてそれは「本」ごとに違うし、そのバラバラの本は「作者」や「ジャンル」といったカテゴリーでくくられる場合もある。
「鮮度の高さを感じられる場を作る」ことは、各々のブランディング力次第なのだろうけれど、共通した答えのこの課題を、いかに自分の持っている作品と絡めながら作れるかが勝負どころなのだろうなと考えている。

既に「パッケージを売る時代」から「パッケージの周縁を作り込み、売っていく時代」を越えて、さらに「周縁からパッケージをカスタマイズする時代」になっている。
次はおそらく「パッケージとその周縁の相互カスタマイズ」だろう。
具体的な言葉を言うならば「観客がコンテンツにより直接的に関わる時代」となるはずだ。
その方向性でなければ、死滅すると私は見ている。
そして作者に求められる資質は「ライブをこなせる実力」であり、売り手に求められるのは「ライブ会場のセッティングを演出する」ということだろう。
「セルフブランディング」となると、この両方をこなさなければいけない。
そして初めてコンテンツが動き、売れるという時代に完全になる。

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02/11

Sat

2012

電子書籍は何故ハイパーテキスト空間で孤立する運命にあるのか

偶然本にジュリア・クリステヴァの言葉が引用されており、「テキストは生産物ではなく生産性である」と書かれていて、なるほどと思い検索して見つけたこのサイトに凄いことが書いてありました。

東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 山口裕之教授のサイトより
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/inet_lec/index-i.html

このウェブ講義の12回目に書いてあるネットテキストの将来。
しかも10年以上も前に考えられていたのだから驚きました。
そこから私が強烈に学んだことがあります。

端的に書くと、以下になります。

ハイパーテキスト空間においてのテキストはオリジナルを小さな穴で覗くがごとく断片的に存在していく。
つまり「検索エンジンで検索したテキスト」は常に「オリジナルの断片」であり、オリジナルの断片は「検索エンジンで検索したテキスト=自分の興味のある分野のみ」になるわけです。
つまりハイパーテキスト空間では、「検索=興味=テキスト」の関係が常に成り立ち、そこに完成された一つのパッケージとしての「電子書籍」は、ハイパーテキスト空間における「油」で、常に水(「検索=興味=テキスト」)の底に沈む運命にあるわけです。

以上の理由がハイパーテキストと電子書籍の決定的な違いになり、そして電子書籍がハイパーテキスト空間で孤立する運命を決定づけています。

だからと言って電子書籍にはまったく未来がないかと言ったらそうではない。
「検索=興味=テキスト」の関係性は絶対に崩れない。
常に「オリジナル」を針の穴で覗いていく「検索によって導かれたテキスト」「興味のあるテキスト」を読むという行為は、まず崩れることがないにしろ、これは「点描画」であると言えると考えます。

検索で覗かれた一つ一つは小さな点であるとしても数多くの点を打っていくことで最終的には「絵」になる。
しかしその「点」である一つ一つのテキストたちも、検索エンジンやネット空間というデジタルの海に消えていく作用は強烈に働いていくわけです。
せめて私たちができることは「点ではなく点描画だ」と示唆することです。

そんな中で後半で書かれているのですが「「書物」がより細分化された単位同士の結合である」という点が重要であり、ハイパーテキスト空間であっても結合の仕方が大きく変化しているだけで、テキスト同士の結合性の性質はそれほど変化していないのではないか、という点です。

検索でテキストを探すということは、よりピンポイントなわけです。
検索したテキスト以外は興味がない。
これはユーザーそのものが編集作業をしているのと変わりがない。

どうやら我々が電子書籍を扱う上で最も注意しなければいけないのは、このハイパーテキスト空間上のユーザー任意のテキストの結合の仕方であり、その関連性の中にテキストを配置していかなければならないのではないか、という点に尽きると思います。

しかし私が実際に電子書籍やテキストを配置している中で実感するのは、たとえ「検索=興味=テキスト=点」であっても、「点のオリジナルである点描画」は用意しておかなければ、本当にデジタル上の「点」でしかなくなってしまう、ということです。
「点」が強力であれば強力であるほどよいにこしたことはないのですが、そう連発できるものではありません。
最も理想的なのは「個人が記号化すること」でしょう。
例えば法人でも「SONY」とか「TOYOTA」とか言われれば、すぐそれが何であるかがわかるわけです。
つまりテキストが完全にシンボルとなっていて「記号としての意味」を示している。
今ネット上で勢力をふるえるテキストを発信できるのは「記号化した個人」「シンボル化した個人」であると言えるでしょう。
しかしこれもそう簡単になれるわけではない。

一番最後のところになるとハイパーテキスト、デジタルという道具によって変化した感覚が、テキストのオリジナル性を歪めていく機能を指摘しておりますが、ここは私も危惧しており、テキストを生み出す人間の大きな課題となるだろうことは目に見えております。

そして最後に指摘しておられるこの部分。

これからもし、ハイパーテクスト的な読み方が社会・文化において圧倒的な力をもつものとなるとすれば(ちょうど、技術メディアによる映像的・音響的な文化がそうであるように)、そういった読みのあり方、さらにはそれによってもたらされる文化のあり方を無視することはできなくなるはずです。こういった事態がとりわけ顕在化するならば、それまで絶対的な準拠枠と思われていたテクスト的な思考、テクスト的な文化のあり方に対して、疑問が生じることにさえなるでしょう。ハイパーテクストとポストモダンの「収束点」は、まさにこの根本的な点にあると考えます。コンピュータは人文研究のための有用な道具となりうるという側面を持ちながら、同時に、人文的な思考のあり方そのものを解体する可能性をももっています。自分の手の中にあると思っていたものが、その特性にしたがって、知らないうちに自分の立っている基盤そのものを掘り崩すことにもなりうるのです。

これを電子書籍に置き換えるのならば、ハイパーテキスト空間で解体・変貌を遂げたオリジナルの欠片、これを一般的には「コンテキスト」と言いますが、この「コンテキストに電子書籍は対応できるのか」ということが、電子書籍をデジタルの中に置く上で見えてくる最終的な目標となることは言えると思います。

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02/08

Wed

2012

デジタルの時代で「思い出」に革命は起きるか

ひとつ課題として考えていることのひとつにデジタル時代に入り思い出というものにも革命が起こるのか、という疑問が浮かんでいた。
というのも、遺品整理の際、多くの物を捨てる。
その中に「写真」がある。
これは当然現物としての写真が一枚二枚と積み重ねられていくことになる。

もしかしたらこの先写真は現物では存在しなくなるかもしれないなどと考えながら、目の前にある写真を遺族が捨てていく様子をテレビで眺めていると、多くの思い出は「物」の中に存在し、その人の「人生の中」に存在しているのがわかる。
人の「所有物」と「思い出」は今まで密接な関係を持っていた。

テレビでは義理の兄が亡くなった妹の写真を捨てていたが、理由は「自分の死を意識するから」だった。
義理の妹は心不全で孤独死。
ちょうど義理の兄は家族旅行へ出かけていた時だったという。
義理の兄も高齢っぽく、残り時間のことを考えるのだろう。

昭和の時代とは違い、これから多くの物がデータとして残っていくことになる。
データとしてたくさんのものが残るということは「不要な物」も多く残るということになる。
この膨大なデータは一人の人間が取り組んで編集しようとしてもどうにもならないぐらいの膨大な量になる。
ネットの記事に本棚の中の自費出版物として編集された「日記」というものがあり、これが資料になり、そしてその資料の欠片が寄り添って新たな編集物として再編されるようなことが書いてあったが、疑問が多く残る。
まず「誰が見つけるのか」という問題。
遺品整理の際、遺族がいとも簡単に捨てる確率の方がはるかに高い。
それだけ「他人が持つ個人の記憶に対する価値」は薄れていくと悲しいながら思っている。
そうしないためには今から地道に活動しなければいけないほどだとも。
あとは、これからの人間は「紙で残すか」という問題。
わざわざコストのかかるものを選択するだけの価値が生み出せるほど個人に編集能力はつくのか。
結局はデジタルによって吸収され、編集の作業は検索エンジンのようなアルゴリズムがし、そして人間が選び取るという考え方の方がはるかに私は実感が持てる。
生み出すものよりも編集する側の方がはるかに貴重になるため、価値が出てくる。
「思い出のデザイン化」という現象が起きてくる。

「思い出」は誰のものになるのか、という問題はまずここでは論じない。
デジタル時代に出てくる問題よりも、ここでは「所有物」に吸着していた「思い出」という作られ方、残され方が、デジタル時代になるにつれて変わるのか、ということを考えていきたい。
もちろん「物」が消えることはない。
どんなに愛着が物になくたって、人間が幽霊のような某アニメのようなネットの中の「データ」に意識が入り込めない限り、「物」は使わなければならない。
場所や服や日用品。
これらの中に思い出とまではいかなくとも「愛着」が出てくることはある。

それでは「思い出」の最初の段階として「気になる」や「好き」や「愛着」が出てくるとしたら、何が発端になるのか。
相手の「脳」を使ってもらって、さらに「記憶」に落ちるまで「脳で処理」してもらうには、羅列された信号だ。プログラムによって並んでいるにすぎない景色だ。
所詮はデータなどその程度の物なのだ。
ユーザーが検索エンジンによって選んだ「ピンポイントの興味の対照」だけではどうにもならない。
私たちにとっては他人のデータなど流れて埋もれていくものであるが、個人にとっては、それなりに価値がある。
多くは個人の経験を起点にしてネットも動いている。
なぜなら自分の知らないことは調べられないし、価値観の中にないものを価値と感じることはそうあることではないのだ。
だから個人は経験を元にして価値を取捨選択するというのはしばらくは続く。
その経験も都市の情報化社会で純粋培養された人たちにとっては、どう認識されるようになるのか、私には想像が現段階ではつかない。
もう少し技術が出てきて人の生活に浸透するまでは。

私は今ものすごく大きな勘違いをしているのかもしれないと、ここまで書いて気がついた。
今まではパッケージ化されたものを「コンテンツ」と呼び、そして囲まれたユーザーたちが作り出していくものを「コンテキスト」とさしていた。
だが、デジタルの時代になって本当にそう認識されているのか。
もはや「コンテンツ」と呼んでいる物は見事に「コンテキスト」に化けているのではないのか。
その「コンテキスト」を共有できる人たちだけがデジタル上に存在するものを取り囲んでいる。

例えば私が作り出した小説はすべて「個人的なコンテキスト」なのではないだろうか。
少なくとも実感として感じているのは、デジタルの中に放り込まれれば「コンテンツ」ではなく、何者かの「コンテキスト」に近い状態で認識されてしまうということだ。
そしてソーシャルなのとちまたでは言っているのだから、妙な感触を受ける。
本当に「コンテンツ」となるものは何か。
逆流しているようなこの流れから考えればデジタル時代に重要なのは個人に「コンテキストによってコンテンツを与える」、今はわかりやすく言い換えるならば「経験」「思い出」を与えるのは「コンテキスト」に移り変わろうとしている。

そして本当のデジタル上の「コンテンツ」とは大きなくくりになろうとしている。
数々のソーシャルネットワーキングのサイト、各社検索エンジン、音楽販売サイトなど、いわゆる「今までコンテンツと呼んでいた小さなものの集合体」こそがデジタルでの「コンテンツ」に成り代わろうとしている。
そうなれば人間に適応すれば、もはや一個の人間の脳こそ「コンテンツ」であり、そこから出た物はすべて「コンテキスト」としてデジタル上では処理される。
「思い出」や「愛着」は既にデジタルでは「コンテキスト」なのだ。

「コンテキストから思い出は作られるのか」という疑問が浮かぶ。
それが強い共有を生めば、アクション、衝動を生むことができれば、彼らの思いの集合体がデジタルで「コンテンツ」となるのだ。
ならばデジタル上では発想を変えなければいけない。
膨大なデータというコンテキストの中で思い出を集めて「コンテンツ」を完成させて、ようやくデジタルではパッケージ化されるのだ。
それまで個人の「思い出」は、ふわふわと塵のようにネットの海に漂うだけだ。

デジタル時代の「思い出」は、他人の思いの集合体によって、ようやく「思い出」として形作られるのではないかと、ひとつ考える。
もちろん、これだけではないし、少し最初の論旨とはずれてしまったが、データと思い出との関係はひとつ炙り出せたように思う。

少なくとも言葉による定義は、技術などにより認識による定義にすり変わろうとしている。
そう考えれば何故ネットで繋がっていても「孤独」なのか、説明がつく。
生身の人間である「コンテンツ」そのものに興味が持たれていないと、皮膚感覚でどこかわかっているからだ。
これは蛇足だった。

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01/30

Mon

2012

世界のスマートフォン ユーザーの利用動向調査 日本は6%

http://www.ourmobileplanet.com/
去年のデータで少々古く、年末を越えた今年はどうなっているのかは不明。

自分たちが今どこで商売しようとしているか、という現状認識は必要で、まだ数の面からいっても電子書籍を売り込める体制が整っているとは、とてもじゃないが言えない。
タブレットや電子書籍リーダーの普及台数がいかほどなのか日本国内での細かな数値が見つからないが、私たちが思っているよりかは少ないのかもしれない。
大きな所ならまだしも、小さな勢力が勝負できるのは依然としてガラケーと呼ばれる旧式の携帯プラットフォームだけれど、その携帯もいずれは買い換えなければいけない。
各会社の新商品携帯がほぼスマホなのを見ると、徐々に数値は移行してくるのだろうとは思うが、まだまだ苦情が多くガラケーのようなシンプルな使い勝手のよさは実現していない。
人間は選択肢が多くなればなるほど、そのどれをも選ばないという傾向がある。
ミニPCのような多機能の携帯電話に慣れるまでは時間がかかるだろうが、使っていればそこそこ慣れてくる。
しかしすべての機能を理解して使っていけるわけではない。
ここで、機能そのものに取り残されていく人と、機能に慣れて使いこなせる人間の二種類が出てくるだろう。
ガイド本が売れることになるだろう。

まだまだ私たち電子書籍販売側はアプリやネットにおける電子書籍を「どう扱ってよいのか」という疑問は取れないままだ。
紙の本のままの考えの人。紙とはまったく違う捉え方をする人。電子ならではの「更新」に着目しリアルタイムとソーシャルを兼ね合わせ、かつ読者と我々が笑顔で手を固く握れる場所を模索している。
「いずれは本は無料になり、ガイドにお金を払うようになるだろう」という記事があったが、もしここまで来てしまったらコンテンツは活性化されるがコンテンツ製作者は地獄を見る。
我々芸術家はスポンサーの手を離れ、空想の翼を伸び伸びと広げながら自由に創作に力が注ぎ込める環境を夢見ている。
そんな環境、ありはしないとわかっていても夢想せざるをえない。
それがまた大きな力関係に圧迫されて創作の力がねじ曲げられるのかと思うと、もはや金と芸術の上下関係は逃れられぬ因果なのかと落胆してしまう。

私たちは「鑑賞者」の立場になったとき、非常に優位な立場から見ていると錯覚しがちだ。
調理された数々の食材を「料理」という形で目の前にすれば、あとは自分なりに味わうだけなのだ。
だからこそ多くのものを見落としているし、見落としているものを料理人がウンチクをたれるのは客商売として最も愚かなことであると理解している。
このジレンマの中で私たちは新しい時代に沿った芸術的な方法を模索していかなければいけない。
そして、私たちの実力がきちんとした目によって導かれることを常に望んでいる。実際、運に左右されることがあらゆる状況から鑑みて、わかっているにも関わらずだ。

日本でのアプリ利用率はダントツであるという。
ガラケーの時代からそうであったように、携帯電話をいじりながら、テキストやソーシャルでの「声」を受発信したい、楽しみたいという欲求は変わらないだろう。
だからこそ端末普及率は電子書籍を扱う私にとっても注視していくべき数字だし、商売をしようと画策している人たちにとっても本格参入と展開を目論む上でよい材料になる。
私たちは自分たちで思っているよりも、他人には伝えていないし、他人のことを知ろうとしていない。
コンテンツを作っても、その魅力を充分に伝えられているか、その前に引き出せているのかと言ったら「NO」なのだ。
読者に伝える前に、最も熱心で客観視できるファンは自分自身であらねばならないのに。

いい大人が集まれば未来の話をしているようで、結局お互いの秘密を話せないまま、意味のない状況分析と今後の傾向を話し合い終わってしまう。
シンプルな問題として、自分たちが扱おうとしている、開拓しようとしている場所では何をすればみんなが楽しめるようになるのか、ということに絞られるのに。

電子書籍元年と言われた去年は船を漕ぎだし陸地を離れようとしたに過ぎない。
陸地が見えなくなり不安感に囚われ、海の上ではやっぱり商売ができない、人がいないじゃないか、帰らせてくれ、と情けないことを叫んでいるのと同じだった。
そして今年は何も見えない大海原で新大陸を見つける作業に追われるだろう。
来年ようやくたどり着いたそれぞれの陸地で、自分たちの王国を築いていく勢力が現れるだろう。
本当はいけないことなのだが、今私はお金のことはある程度抜きにして腕を磨くことに集中しようと考えている。
もちろん作品は書くし、実験を繰り返しながら様子を見ていくけれど、大事なのは他人ではなく、自分の手数の多様さに尽きるということだった。
何か手応えのないとき、「何らかの準備が足りていないからだ」と考えるようにした。
そのしっくりこない感覚は情報の欠乏かもしれないし、状況の貧困さかもしれないし、準備不足かもしれないし、己の実力のなさかもしれないし、教養の欠落かもしれない。
やがて「電子書籍戦国時代」と言われるようになったら、勝手に「天下統一」の実力を持ったものが台頭していく。
私たちは各々の戦略を胸に秘めながら、他を出し抜いて吸収する機会をうかがうことになる。
結局は才能の評価をいかにシンプルに魅せるか、ということが読者に伝える上では重要になりそうだ。
そして最も優れた君主は才能と努力の対価を臣下に示せるものになるのだろう。

ここについてのヒントは、数多く転がっているように思う。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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