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あさかぜさんは見た

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12/27

Tue

2011

我々の友人は影響力のない興味深い他人 「バイラル」の「入り口」を探せ

「人の好みにクチコミは効かない」──ハーヴァード大学チームの研究結果より
WIRED.jp

バイラルマーケティングとは:
製品やサービスに関する「口コミ」を意図的に広め、低コストで効率的に商品の告知や顧客の獲得を行なうマーケティング手法。「バイラル」は「感染的な」という意味で、商品の情報が人づてに伝わっていく仕組みをウィルスの感染・増殖に例えている。
IT用語辞典


最近何かと「ソーシャルマーケティング」なの「バイラルマーケティング」なの、「人が人を呼ぶシステム」で一攫千金を狙おうと様々な企業がソーシャルメディアやツイッターを駆使して日々頑張っておられます。

そこで、このマーケティング手法への実験や検証ではないのですが、「はたして人の好みって伝染していくものなのか」という研究結果について、

「人の好みに関しては、『仲間の影響』といったものは事実上存在しないに等しい」

という研究結果がまとめられ、「これはもしやソーシャルメディアを使った手法は間違いなのでは?」という憶測が生まれてきているようです。
今回のこの「記事に対する反響」も非常に大きい。
実際、この「記事についての反響の大きさ」にも言えることなのですが、「好みが伝播していかないなら、じゃあどうして口コミ(人から人へ)で広がる現象が実際に起きているわけ?」という疑問は、ちょっと考えれば気がつく点となります。

私が注目した一文は、これです。

「友達になってからの互いの影響の結果ではなく、そもそも好みが似通っていたから友達になった」

これを言い換えると
「最初から興味があったもの(共通項)を通して情報を受けとるから、繋がっていく」
とも言えます。
「話が弾んで仲良くなった」の典型例ですね。
この「興味」の部分は別に個別のキーワードの完全合致じゃなくてもいいわけです。
かする部分があれば広がる可能性は生まれる。

記事の中に「クラシック」と「ジャズ」は例外、という興味深い一文がありますが、クラシックで言うなら「作曲者」には興味なかったけど「指揮者」には興味があったから演奏を聞いて「音楽」を気に入り「作曲者」に興味を持ち始めた。さらにそこで気になった「演奏者」がいた。そこでどうしても無視できなくなってきた「歴史」を調べ出した、など。
しかし「ジャンル」はあくまで「クラシック」を中心に置いている。
一方他人は「歴史」から「作曲者」を見るが「音楽」は聞かない。こちらの「ジャンル」はあくまで「歴史」。
ここでの二人は「音楽史」で繋がっている、となります。
そして「音楽を聞く人」と「音楽には興味なく歴史に興味がある人」は、互いに興味のある部分で繋がっても、何か自発的に価値観が変わっていかないと「演奏」そのものについての話題ではずっと関わり合うことはないわけです。

このキーワードの広がりとジャンルの制限は「好奇心」がなすことです。「好き」だから好きな部分には「自発性」がわくとも。それはまた自己顕示欲や知的好奇心や地位や名誉などの「欲望の充足」であるかもしれない。
人はだいたい見たいものしか見ないものです。興味のないものは視界に入っていても気がつかない場合がかなりあります。
興味のある、集中すべき点があって初めて周囲に興味がわく。
通常いきなり身につけているものから美男美女を見つけたりしない。
先に美男美女に目がいってから食べているものや身につけているものに興味がわく。

私たちはどうにも、完全合致ではないが、どうも似たようなものに興味があって繋がっていることが経験上うっすらわかっている。
ソーシャル空間でも繋がった後、発言はするが内容は個人の興味。他人は興味が合わさっている部分がないと見ない読まない興味がないから頭に残らない。
そんなこんなで口コミは好みに影響を及ぼすことはない。
しかし好みは口コミに影響を及ぼすことは確かです。
口コミになる時点で「共通項」で繋がっているのですから。
だから「ソーシャルグループ」ができる。「グループ」が拡大していくから口コミになる。

常に興味の入り口は「極めて個人的なもの」に限られ出口は違ったものになる、というイメージを私は持ってます。
多くの女性は化粧に興味がありますが、多くの人がよいと思っている化粧品は個人の肌に合わないこともあります。体に近ければ近いほど他人の興味へ客観性を強く持つようになります。その上で自らに合致する主観的な情報を選び取る。化粧負けする肌でもお肌に合っちゃったら聞かれた時答えるでしょう。その時なるべく他人に伝わりやすいように客観的に話そうとする。
私たちの友人は影響力を持たなくとも、共通の話題を話したり好奇心を抱かせる経験を持っていたりする「興味深い他人」ということになります。

バイラルマーケティングなるものがあるのなら誰かの「出口(自発性の表出・欲求の発散や誇示)」が他の人の「入り口(興味や欲望)」と合致しているからだと考えますが、いかがでしょう。
ほとんどの場合誰かの「出口」を見て個人的に合う合わないはわかることになります。あるいは触れてもいないのに強烈な先入観を持つことだってある。
たいてい友達同士で趣味が完全に合致して異様に行動まで似通っているとなると関係を疑われたりしませんか?(笑)
そんな人に会うことなんてほとんどない。
だいたい「なんとなく共通項を持っている」という感覚・思い込みで繋がっている。
そして喜びにおける(あるいは痛みの)強烈な「共通項」があると「一体感」があるし、わかってくれるんだ、と「嬉しく」なる。
好きな人が好きなことを語る、尊敬できる人(自分より数値・立場・肩書き的に上回っていると感じる人)がもっともらしく語っている、というのに共感するのもこれに当たります。「そうだよな、そうかもしれない」と自らの体験に擬似的にでも変換している。
「自発性」や「繋がっている感覚」は「極めて個人的な事情」なのです。

友達といえど他人同士であれば、「なんとなく」を共有しあっているに過ぎない。
これがもっと密接な関わり合いがあるもの同士(または環境)なら少し違ってくるのかもしれないですが、距離感があるなら影響力なんてない。

それではどうして「興味深い他人同士」が「グループ」を作り口コミを広げていく「同調効果」を示しているのか。
ソーシャルメディアにおける「バイラルの芽」って何?という本題ですが、言えば何を当たり前のことを、と思われるでしょうが、私は「テキスト」と「演出(画像・映像・音声)」だと考えます。
ネットでの限界は「テキスト」と「演出」であり、それ以上は「ラジオ」「生放送」などアナログ的な手段を加えていかなければ広がりをみせませんが、今回は「テキスト」に絞って考えたいと思います。

「個々人の興味がテキストで繋がるってどういうことだろう」と考えていくと、「個人的な好奇心を持っている人がテキストを読む時、どんな心理状態か」に着目点がいくわけです。

常に個人が情報を得ようとする時「個人的な体験として変換可能なテキスト」を求めるために、「客観性」という多数の人の感想を得たりする。
でも探しているのは極めて個人的な利益や欲求に合致するための「確証」のようなものです。
ゲームにしか興味のない人がこの文章に目を通すというのは、まずありえない。
皆さん何かしら「マーケティング」や少数では「友達関係」に興味のある人なんじゃないかなと思うわけです。

他人の「出口」である「テキスト」を「個人的な体験に変換」するには、受け手が「強く意識しているキーワード」を与える必要性が出てきます。
ある程度決まった形式(ジャンル)のものであれば、最初から絞り込んだ客観性(パターン)は担保されている。クラシックとかジャズとかその典型なんじゃないでしょうか。だから「キーポイント」も合致しやすい。

これが「音楽」とか「本」とか「スポーツ」という漠然としたくくりになると、もうどうでもよくなる。
「音楽」の未来はどうでもいいけれど「テクノ」だけはなくなってほしくないな、と個人的に思ったりする人がいる。文章的には矛盾してますが個人の心情としては間違ってない。
どちらも「音楽」でも、特定のキーワードには非常に強い思い入れがある。
「漫画」はあまり興味ないけどなぜか「ワンピース」だけはずっと読んでる、とか。
他の小説家が食えなかろうと、「小説・出版業界が衰退」しようと、どうでもいいけど、「ある作家の連載」だけは止めてほしくない、とかね。

「本」でも「軍事」のことなんか興味がない人がほとんど。
じゃあ「軍事」の本だとして内容をよく見ると、どうやらどこのご家庭でもやってそうな、ある行動がよく記されている。
そこで「主人公がお父さんになったら優れていないと思った4つのイケてない点」という切り口だったら、「軍事」じゃないカテゴリーから興味を持ってくれるかもしれない。
この手のやり口ってもうやり尽くされて、過剰な煽り文句に中身の手応えのなさが続いているので相当警戒されていますが、内容を客観的に見てちゃんと合っていれば誇張でもなんでもない、切り口をちょっと大幅に変えてみただけ、ということになります。
「本当は怖い童話」もこの手の切り口ですよね。
人様が「面白い」というのは、あくまで「実感が持てるから」だし、何よりも「思い浮かべることができる」からだと思うのです。
「思い浮かべることができる」のは結構「個人的な事情」だったりします。
私たちの思考回路とは広いようで極めて狭く個人的なものだと考えたほうが、非常に現実的です。

結局ここから考えると「バイラルの入り口」とは「個人的な体験にいかにマッチングさせるか」が引き込みのポイントだと思いますけど、最初はピンポイントで切り口を変えながら「大まかな層」で捉えるのではなく、もっと「絞り込んだキーワード」で「集」を捉えるべきなのかなと考えています。
今回の記事を読むと、合わない人には合わない。しょうがない。と思えるようになってきます。
某アイドルにまったく興味のない人に年賀状で「この子が一押し!今年もよろしくお願いします!」なんて写真付きで新年早々送りつけられても、好きにはならないわけです。

じゃあ、ジャンルが違うもの同士は絶対に繋がらないのか、と言えばそうじゃないとも考えるわけです。
例えば違うジャンルである「音楽好き」と「読書」はどうやって繋げるのか。
「音楽好き」は広すぎる。「演歌好き」ちょっと絞れてきた。
扱っている作品で「演歌」ではなくとも「演歌的叙情」を扱った作品がある、となると共通項が生まれます。
演歌聞いている人たちにも「実体験に変換可能なテキスト」を作ることができる。

電子書籍に興味がある人なら「ランナーから読み取れる電子書籍出版と紙出版との大きな違い」と書いてあったら読んでみたくなりませんか?
これが「短距離ランナーと長距離ランナーの筋肉の作り方の違い」とストレートに書いてあったら興味は持たないかもしれない。
短・長距離走のことが出ていながらも知りたいことも書いてある。
「生活の中にもソーセージのような歯切れのよさと味わい深さを。ソーセージに見る熟成生活のススメ」とか別にソーセージに興味なくとも読みたくなりますよね。

このように「入り口」は「実体験へ変換可能」であること、が求められると思います。
それが人が多いとより「入り口」が多くなる。様々な体験・角度から語られるから。
だから最初はきついことこの上ない。最初の「入り口」は一つしか作れないのですもの。
書くと簡単ですがやるのは相当苦労の連続です。
「何が起爆剤になるか」だなんてわかってないのですよ、どんな専門家も。
だから「マーケティング本」が「売れる」のです。恋愛本と同じですね(笑)。
何が障害になっているかはやっていれば経験上わかってくると思いますが、意外にも非常に身近に本音を言ってくれる人が問題の本質を突いていたりするので、あなどれません。
直接手売りのような真似すると、ストレートに伝えてくるのでよく見えてきますよ。
そのトライアンドエラーを繰り替えしながら、自分たちの商品や手法、アプローチ方法、切り口に改良を加えた上で、その人が喜ぶようにしたいなと情熱を持ちつづける。

好きな人(好きになってもらいたい人)を口説くとき、自分の熱意を伝えるとしたら、自然と相手の魅力も絡めて伝えることになる、というのと似ているかもしれませんね。
一番最初はそこから始めないといけないのかな、と私は考えています。

そこから「入り口」を増やしていくことにより、「新しい視点の人たち」を増やしていく。
そうすると「同じ価値感同士が長く居つづけることで生まれる硬直化」も揉みほぐされていきます。
必ずユーザー主体のコンテンツが衰退する理由は「古参がいつの間にか強いていた自治ルール」だったりするので。

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12/24

Sat

2011

電子書籍の夜明けとなる人たちの意見を聞きたまえ

紀伊國屋書店でソニーリーダーの販売員と話してきた。
そこで動いている年齢層は以外にも4・50代の人たちが多いという。
若い人たちは今持っている携帯・スマフォ・タブレットと比較して割と興味持たないみたい。
わざわざ読書するために端末まで購入して活字を楽しむ人たちは「本好き」の人たちだというのが見えてくる。
そしてさらに驚くことに「自炊」の問い合わせ、つまりファイル形式のこととか質問してくる人がいるらしい。
私はこの手の作業に興味があるのは若くもなく高齢でもない40代くらいなのかなと薄々思っていた。

現在リーダーストアはクレジット決済のみで敷居が高すぎる。
まだまだ気楽に買える場所でもないし、親しめるようなデザイン・サイト作りには程遠い。
例えばライトノベルを好むような若年層は携帯で楽しみ繋がり合う。
そこに本来の本好きの人たちである中年層と同じ考え方で一緒にできるはずがない。

私が感じていた「違和感」というのはどうにも、こういう「本好きの人たちが望んでいる本屋」と、「これから本好きでもなんでもない人たちを引き込んで楽しませていく開拓作業としての本屋作り」とのギャップだった。
これからまず最初に電子書籍はどこの層にターゲットを絞るかと言ったら、断然「本好き」の人たちかもしれないと思っている。
何せ、本を作る人たちやショップを取り囲んでいるスタッフがきっと今まで出版社で働いていた人や本を読み漁ってきた人たちに違いないと実感として思うからだ。
一番意思疎通ができて、実感も共有しやすい年代層から掘り下げるのが一番だ。

端末やストアによって年齢層も本の動きも違ってくる。
本好きの人たちは電子書籍に「文字の読みやすさ」や「本棚のスペース削減」や「検索の手軽さ」などをメリットに思っているだろう。
何せ老眼入ってくるし、本は莫大になってくるし、好きな本・ストーリー・文体へのこだわりだって出てくる年齢だ。
本好きは本を読み漁り、質も量も経験上選んでくる。

さて、若い人はそうじゃない。
エンターテイメントが欲しいし、共通の話題が欲しいし、楽しみを探し求めているし、誰かと繋がりたい欲求がある。
一人でじっとしていられないだろうし、黙って思索にふける若者なんてどうも違和感がある。
いわゆる本好きの人がバカにする携帯小説やライトノベルだって彼らにとっては優れた読み物だ。
うるさい制限なんてないし、勝手な想像、勝手な設定をどこまでも膨らませて奇想天外なことだってできる。
人生の教訓や説教や苦しみなんていらないし、とにかく何かの形で楽しみたいのだ。
だから活字よりも漫画やライトノベルや掲示板込みで楽しめる携帯小説なのだろう。

また女性ともなれば若い人は恋愛を楽しみたい。
子供を持てば実生活に絡んだものが少しずつ比重を占めるかもしれない。
中年ともなれば、「難しく考えずにすっと飲み込める単純明快なストーリー」を求めるかもしれない。
一口に「本」と言っても無数の考え方価値観がある中で、今一番の突破口になりそうな「本好き」の人たちに対して一体どんなアプローチをしているのか。

どうにも若い人が電子書籍専用端末に入り込むような余地はない。
電子書籍にはあっても、端末が求めていくものと折り合いがつくのだろうかと考えたら今のところなさそうな気もしてくる。
これから進化するスマートフォンで充分な気がしている私と感覚は大差ないだろう。
若い人は好きなものにしかお金は払いたくない。
色々なものを比較して実験して楽しみを得るというのは熟年の楽しみなんじゃないかとさえ思う。
きっと私が思い描いている電子書籍の未来と中年の本好きが捉えている「読書」としての電子書籍は大きく違うだろう。
若い人たちにとって「読書」という感覚は少し中年の人たちのものとは違うような感触を抱いている。
しかし、一番の開拓者となるのは、この「本好きの人たち」だろうと思っている。
聞いた限りじゃ若い人が開拓者になるとはどうも考えづらい。
なんせ「読書離れ」なんて言われているのだから。でも「テキストの消費量」はおそらく増えている。ネットで繋がりネットサーフィンをし、それだけでも莫大なテキスト量になってくる。読書とは違うところでテキストを楽しんでいる。もう、これだけでも感覚は違う。

電子書籍の夜明けとなる大きな鍵となるのは、この「本好きの人たち」の「本への欲求」をいかに充足させるかにかかっている。
端末が売れる年齢層からまず深く掘り下げていくのが一番妥当な攻め筋だと考える。
このことをもっと具体的に言えば「中年の欲求を満たせ」ということなのだ。
前々から言われているような気もするが、どうにも「声」が見えてこない。そこまでの段階ではまだまだないということなのかもしれない。
後にぼちぼちと若者が別の形で続く形になるだろう。しかもまったく違う形で盛り上げる気がする。

私は私で思い描いていることが少しずつ固まってきているので、少しずつ実効に移していこうと考えている。
そこには従来の「本」の姿や「読書」の形はないかもしれないなと思い描いている。

追伸:
考えるに、ソニーリーダーが電子書籍端末として非常に役立つ技術がある。
DAISYだ。
つまり視覚障害者のためにも幅広く電子書籍が触れられるようになると、今度は「教科書ツール」や「社内・企業広報ツール」や「学校広報・連絡ツール」などとしても幅広く進出できることになる。
得に「既刊されていない小さな広報誌」をターゲットにすることで、端末の利便性や活躍する場所はぐっと上がることになる。
そして視覚障害者のためのサイト・電子書籍作りのノウハウは必ず、非常に有益な知識となってくに違いないのだ。

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12/22

Thu

2011

やがて「愛情」は時代に取り残される 〜作家7名がスキャン代行業社を提訴〜

スキャン代行業者提訴で作家7名はかく語りき
ITmedia

今回の提訴のメインは「スキャン代行の主体が業者であるかどうか」。現行の著作権法で考えれば、「使用する者が複製することができる」と定めた私的利用の範囲を逸脱しているのは明らかだが、判例はなく、グレーゾーンでしかない。まずはそこをはっきりとさせようとしている。



私もまがりなしりも書いている超端っこにいるので、大先生たちが言わんとしていることはわかります。
「裁断」という言葉がピックアップされているから、どうも本心が見えてこないだけで、結局は「自分の労力の対価としての正当な数値化」なのですね。
そこへ対する「侵害意識」を持っていると。
他の作家の作品は今まで何百トンと裁断されてきたわけです。
それこそゴミの山になった本がたくさんあったのに、他の作家のことは別に考えはしてこなかった。
今回自分の本が自炊される(紙の本を電子データに移し替える)ことで利益が侵害され、今ある収益が大幅に消えていくことに危機感を持っているのだと私は見ている。
得に東野圭吾氏などは前々から中国の違法コピーに怒りを表していた。
しかし言い分として作家として食えなくなるとか、何を今更、あんたたちは食えてるじゃないか、と食えない身分は普通に思うわけで、むしろ作家として充分に食えていけるほうが難しいわけです。
そういう人間がどれだけいるのか。
そして食えない人たちは、むしろ読まれる以前の問題を多く抱えているということ。
電子書籍は「一億総作家化」ではありますが、次々とコピーできる「データとしての作品」に対する法律は古くなってきていて時代にそぐわなくなってきている。
今回の提訴、たぶん現行法に照らし合わせれば勝訴するのではないかと考えていますが、しかしこれからの時代の流れを考えると、いくら粘っても10年以内に著作権法そのものが変わる可能性の方が高い。
つまり電子化の流れは各国の言葉の壁がまだ存在するとはいえ、やがては「国境を越える」ため、日本の現在の国内利益を守るための著作権法では海外とやりとりする場合、どうしようもできなくなるのは明白なのですね。
インターネットとその技術は今までの収益体系を根本からぶち壊し、真面目な作品製作者にとってはまるで地獄のような時代が訪れるわけです。

私も自分の労力が対価として来ないのは、もう無気力になるほど嫌だし、たとえば違法コピーみたいなものが出回って、有料の作品を無料で手に入れ、「おもしろかったです!次回作待ってます!」なんて言われたら「何をこの盗人が!」と内心林真理子氏のように思ってしまうだろう。
労働の対価が厳密に数値化できない、という問題に常に芸術や文化というものはぶち当たり、時代の中で悪戦苦闘する運命にあるということも、大先生なら豊かな教養をお持ちなので充分わかると思うのだが、今回の電子書籍の問題は、たとえ勝訴しても「モグラ叩きの方にやがてコストがかかるようになる」というのが想像できないのだろうか。
小説も、やがて音楽と同じ道をたどるのは目に見えている。
大先生方は出版の未来はどうなると考えているのだろう。
某文学賞で本を批評するように「こうあらなければならない」という理屈は「未来」には通用しない。
そういう感覚で技術と本と読者の関係に関わることを語ってもらっては溝ができてくるのは必至である。
今回は業者だが、個人が自炊しデータ化していく行為と、残念ながら大差がないのである。

そして今提訴している先生方の年代は「紙の読者を多く持つ先生」の最後のピークになるかもしれないとも考えている。
紙の本のあり方や価値観は変わらない。だが、「コンテンツ」に対する「技術」は常に変化していく。言葉にこだわる先生たちだから「人の命を削って作った作品に対してなんだ!」と怒るかもしれないが、扱いはやがてネットと技術の進歩により「コンテンツ化」されていく。
どんなに怒ったって嫌がったって反吐が出るほど汚いハイエナと思ったって流れは止められない。
当然人の手ではどうしようもできないほどコピーは広がっていく。
そして無料で読むことが当然だと思っている人たちは「作品への労力」は考えないためお金を支払うことはない、と今は考えているが、ここら辺は「アイディア」になる。

それで紙に対する思い入れもわからないわけじゃない。
「本の尊厳」だなんて、こんな言葉を出すなら他者の著作について自分以上に尊ばなければいけないのに、どんな取り組みをしてきたのだろうと首を傾げるがちょっとおいておく。
作品ができあがるまでの労力は本当に莫大で、1作品きちんと調べる作業も入れると3ヶ月とか4ヶ月とかこもりっきりでやらなければいけない。
表紙ひとつとったって本の見た目をすべて決める作業。本当に繊細に行われていく。
その作業が楽しいと思えればよいのですが、だいたい「産みの苦しみ」は誰しも抱えているものと思っています。
できたときの喜びが苦痛に勝るだけの話で、その「苦痛より上回った喜び分」で作ることができるのかな、とも自分は思うわけです。
そこから多くの人たちが関わり、ようやく労力が紙として物質化するわけですから、まるで自分の身を削って与えたような気持ちを持つのはわからないわけじゃない。
だからその思いと、今回の自炊代行業の増加の根底にある問題とごっちゃにして、あくまで「作品としての尊厳」を訴えたくなる人情は否定はできない。
しかし「作家の慣習」と「一般庶民の慣習」は違い、国家の重要案件に関わる事案でなければ通常は現行法を最大限考慮しながらも「一般庶民の慣習」に従っていくことになる。

東野圭吾氏に至っては、もう10年前ならまだしも今更、という思いを抱く人も多いだろう。
それだけ「成功」して今まできた人なのだ。今回提訴している他の作家と同じく。
もう「データ化」された時点で漫画家や小説家の収益モデルは崩れ出してきていた。その兆候が「紙の収益の上にいた」から、まったくわかっていなかったか、問題として軽視しすぎていた。
東野氏の姿は現在の出版社の象徴だと言っていい。
これからは瓦解したモデルは「文献」でしか存在しなくなる。
それこそ電子書籍化して売った方が問題意識や改善点を全体で共有できる。
それぐらい時代は変わってしまった。
もはやコンテンツにおける国境のボーダーレス化は、これからもっと加速する。

結局今回の作家たちの目的は著作権と作家の利益に対する大々的なパフォーマンスだと思い込みたい。
おもしろいって思うならちゃんと私たちが続けていけるよう、お金払ってね、と。
もし本気で訴えているのなら「日本国内しか見えていない視野の狭い人たち」になってしまうのだから。

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12/12

Mon

2011

電子書籍などで、「よい作品だから売れる」と考える前にやること

これはゼロから始める場合にとくに言える。
そろそろ、このような意味もなく湧き上がる自信や幻想はやめにしないか、といきなり切り出す今日の考え事。
というのも、当然よい作品は口コミで広がる、作品がお客を引き込んでくる、と考えられがちだ。
しかし本当にそうなのだろうか。
では「同調効果」で爆発的に売れるものはどうだろう。
何年立ってもリメイクされ、年月が経っても色あせない名作はある。
しかし一方ではけなされ、これは商品レベルではないと言われながら、買った読者の一部を幻滅させながらも十分商業レベルで成り立っている物がある。
これについてどう説明すればよいのか。
今までの流れから言えば売れたものではないものが売れる。
若い世代の、同世代の話のネタやすき間時間の楽しみになっている。
今や目の肥えて金を出し渋る人間よりも無垢な読者に刺激を与えた方が儲かる場合がある。
理想論どうこうではなく、現実なのだ。

作者として当然よいものは作りたいし、よい作品は必ず日の目を見るのだと思い込みたい。
だが私は気がつきました。
「いつ、よい作品が生まれるの?」と。
誰も保証などしてくれないわけです。
それに、「よい作品って何?」この世界の総人口に聞いたってまともな答えは出てこないだろう。
いい加減に「よい作品だから売れる」なんて幻想はさっさと過ちだったと認めるべきだ。
得に芸術家など「個性」を売りつけているわけです。
「個性」に「正解」などあってたまるか。
「個性」を「売りつける」ってことは「人によっては嫌がられる」ということでもあるわけです。
これは「技術」とはまったく違う次元の話なのです。
目の肥えた人間は「技術」や「知識」に対する重厚さを作品の中に求めますが、コミュニティー空間における話のネタ、手軽さにおいては「個性」が重要視されている。
この二つのことを同一視して、技術のことをけなすわけです。
腕がない、商品レベルじゃない。
しかし個性とコミュニティーと演出で商売としては成り立っているのだから、しょうがない。
時代は変わったのだ。
だからと言って、腕を磨くな、技術は関係ないという話しにはならないわけです。
技術がなければ、下地が深くなければ続かないことは当たり前だし、一発屋で終わりたいならまだしも作品群にするためには多くの知識が必要になってくる。
これはどんな道でもプロフェッショナルとして見られたらやらざるをえなくなってくる作業だし、本当に作品作りに真摯に向き合っているならば自然と身につくことなのです。

もし、よい作品というものが存在し、それをあえて定義するならば「技術的に優れており、作品に対する考察や直感力が読むものを圧倒している」となるだろうと考えるわけだが、さてこの定義は読む年齢層によっても違ってくる。
だったら個人で思っている「よい作品」だなんて、幻想そのものじゃないですか。
他者から見たら価値のないものに変わり果ててしまうかもしれない。
「よい作品」とは「共同幻想」なのですよ。
それのよい例が「携帯小説」なわけですよ。
あれは作品を売っているのではない。
コミュニティー空間をそのまま売っているわけです。
応援してくれていた人へのメモリアルと場合によっては言えるかもしれない。

とにかく、ひとつだけ言えることは「同調効果」をうまく利用しているわけです。
人を多く集めて「よい作品感」を演出しているわけです。

じゃあちょっと立ち戻って考えるわけです。
「共同幻想」とは言いましたが「作品の質」とは具体的に誰が決めるのでしょう。
この漠然として曖昧で、誰かの価値観の中にしかない独善的な言葉の内容を、一体誰が決めていくのか。
それは「良い!」と大きな声で示してくれた人が作っていくものだと考えるわけです。
つまり「ファン」の存在です。
歴史に残るなの時間に耐えられるなの、そんな大それたことは「生きている人間」は考えなくていい。
ただ作品に対して懸命であればベストなわけです。
じゃあ「ファン」なる存在を作るにはどうすればよいのか。
私の経験上では作品を公開するだけでは足りない。陳列だけではどうにもならない。
会話の成り立っていない間接的な読者はすぐ離れていってしまう。
存在さえも思い出されないわけです。
もちろん作品が読むものの心をとらえなければ、次の話すら読んでもらえないことは間違いない。
しかし基本は「会話」の中にあります。
会話の奥にある「背景」のようなものを見てもらえると印象深くなります。
親しくなると作品の中身の説明もないのに買ってくれたりしました。
そういうものなのです。
つまり「ファン」とは「自分の存在そのものを応援してくれる人」のことなのです。
作品の質がどうこうじゃない。
あなたが作り出す世界が好きだよと言ってくれる人のことなのです。
このような存在は「読者」とは少し違うわけです。

まず「ファン」の存在が作品を神聖化し、そして「読者」となる人に伝わっていく。
その「読者」の中から、また「ファン」が生まれてくる。
この流れはほとんど例外がないように思います。
結局「買う前から納得」している状態がここにあります。
買うときには既に「お金を払うだけの価値を得ている」状態だからこそ、買ってくださる。
その「価値」について「納得」している状態の人たちが「ファン」であります。
このレベルでは「よい作品」も「悪い作品」もない。
この二つの選り分けは常に後付けでされていくものです。
目が肥えていて作品を客観的に見れる人は常に意見を持ち合わせていますが、好きになってくれるとは、その次元とはまったく違うところにいる。
何か、底知れぬ愛情のようなものを感じるのです。

「よい作品」だから売れるのではない。
愛されるから、価値を感じるから売れるのです。
愛されるためには愛さなければいけない。
そんな基本的で密な関係性を構築できれば、「ファン」は増えていくし、作品の価値も高まります。
よいものを作りたいし常にそうであればいい。
しかし「よいもの」も、最初は思い込みでしか過ぎない。ただの主観でしかない。
よい料理を作るには何度も失敗を繰り返し試作品を作り、おいしいものをたくさん食べ比べ、試行錯誤の上で作り上げるものですが、そんな莫大な労力の上にできる「名作」の出現は本人ですら保証できないし、誰も保証してくれない。
作品が出ても「名作」は「迷作」となり、入り組んだ迷宮の奥深くへ行ってしまうように次々と出される作品の中へと埋もれてしまう。
これが現実なのです。
だから目を覚まさなければいけない。
「よい作品」は、まずは存在などしない。「作品に対する良し悪し」は作品に対する反応は生んでも、作品が読まれる・買われるまでの道筋は「作品そのもの」からは生まないのです。
そのよい例が「青空文庫」の中にはごまんとある。
「よい作品」は作者を取り囲む人たちが作り出す「神秘の像」なのです。

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12/05

Mon

2011

少し立ち止まって考えを整理したい。
今うわさの会社の携帯小説コーナーを覗いている。
そして同時に書籍化された感想をAmazonで見ている。

アマゾンの方はかなり、猛烈に、これでもかというほどの酷評。
そもそも一般文芸から携帯小説というのも無理があるだろうし、批判している人の中には実際に文学賞を狙い、何度も投稿し、何作も書き上げている人もいるだろう。
自分と作者との労力と努力の差から理不尽さを感じ嫉妬し下品なコメントをしている人も中にはいるだろう。

私はといえば、携帯小説など肌に合わなかったし、内容の酷さ、繰り替えされる同じネタ、シチュエーションのえげつなさ、これが本当に未成年の読み物かと気持ちが悪くなったし憤りも覚えた。正直日本語のことよりも内容その物にショックを受けた。
でも実際大人が知らないだけで子供の性の事情は深刻だし進んでいる。
二十年前の私の中学生時代でさえ3年生にもなれば噂レベルではなく結構している人がいた。知っているだけでも5人以上はいた。つまり、学年で言えば1割ほど。そしてその頃は市内の中学でもトップクラスの学力を誇った。そこでさえそれだ。
今ならもっと低年齢化していても別に不思議ではないだろう。
しかもこの手の話題、えげつない事件も含め、大人にバレるものは末期となる。
つまり学生だけでは対処できないような際どいものだけが表出し、穏便にすませられるものはやり過ごされる。
校内でレイプが起こったとしても、親に迷惑かけたくない、学校中の騒ぎにしたくない、口に出すのも嫌だ、などの理由で負の事件は黙っているなどもある。
同意の上ならば絶対に話さない。
だから自分がしていなくとも、友達がしたとかの理由で話の話題にあがっていると思われる。
得にいじめとなると陰湿だし、やり口も汚いし、そういう子たちって絶対に逆らわない、チクらない子を選び取るのがうまいから、これもなかなか表出しづらい。
つまり表には出なくとも「知っている」のだ。
自分が参加しなくとも「知っている」のだろう。
これはネットの情報がどうこうという問題ではなく、子供を取り巻くすべての環境に言えるかもしれない。
と、このようなことを考えれば、今の携帯小説の内容について憤っていてもしょうがないと考えることにした。

国語表現については、確かに問題があると言える。
しかしその前にちょっと待てよと考え直してみた。
そもそも何が凄いかって、1万でも2万でもコミュニケーション空間を作れること自体凄いのだ。
自分の小説ではそれだけのコミュニティーを作ることさえできない。
その点では日本語表現うんぬん以上に凄いこと。
この国は資本主義で動いているし、会社だって社会に奉仕するためにあるわけではない。
稼がなければいけない。
つまりもっと言えば、金を持っているものが勝つ。
稼いだものが発言権を増していく。
それがお金の理屈なのだと私は考えることにした。
あれはだめ、これはだめ、そう言ってお金を投資しなければ大事なものは残っていかない。どんなに優れていようと金がなければ滅びるのだ。
これは厳然たる事実なのだ。
芸術において、この理屈はこれからも覆されないだろうと思う。
そして金を持っているものが人を雇うことができ、人を雇ったものが、会社を動かしていく。
つまり、お金の払われないところには滅びが待っているだけなのだ。
会社は稼げる間は必ず繰り返す。
稼げなくなるまで繰り返す。酷いと罵られようが、これは商品じゃないと言われようが稼げるうちはやるのだ。向こうだって家族がいるし、食っていかなきゃいけない。
こんな当たり前の理屈に対して何が文学だと反省することにした。
不満があるなら今携帯小説に食いついている人たちに対し、面白いものを作らなければいけない。
もっといいものを作って、コミュニティー空間を作って、彼らに対してアプローチしなければいけない。
そういうことを考えると、さぼっていたんじゃないのか。
若い人たちに文章の面白さをきちんと伝えていくことをさぼっていたから、新しい時代に対して新しい表現を編み出し、彼らへの面白みを創造することをさぼっていたんじゃないのか。
古典がどうこう、近代文学も読んでないのか、このジャンル書くのにこれは押さえておけよ。
しかし何も知らない読み手は、そんなことどうでもいい。
活字がズラッと並んでいるのを見ると勉強しているようで嫌になるんじゃないだろうか。
夏目?芥川?川端?三島?江戸川?溝口?司馬?なにそれ?知らない。これでおしまいだろう。
勧めても「長いし面倒くさい」で放置。
それが現実なんじゃないだろうか。
私だって中学のころは児童文学も面白くなかったし、「龍馬がゆく」を勧められても文字数の多さ、大人の世界観に入っていけなかった。
今は面白いのだけど、やっぱり人はステップアップしていかないと面白いものにも面白みを感じない。

こうじゃなければいけない、ああじゃなければいけない。
自然とこのような考え方が染み付いていた。
隔たった考え方をしていたのは、自分であったかもしれないと、今猛烈に反省している。
人を集めて金を出させたものが勝つ。人を集められるだけの作品を書けなければ敗北するのだ。
今回は始めに書いたように整理のために残しておく。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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