スキャン代行業者提訴で作家7名はかく語りきITmedia
今回の提訴のメインは「スキャン代行の主体が業者であるかどうか」。現行の著作権法で考えれば、「使用する者が複製することができる」と定めた私的利用の範囲を逸脱しているのは明らかだが、判例はなく、グレーゾーンでしかない。まずはそこをはっきりとさせようとしている。私もまがりなしりも書いている超端っこにいるので、大先生たちが言わんとしていることはわかります。
「裁断」という言葉がピックアップされているから、どうも本心が見えてこないだけで、結局は「自分の労力の対価としての正当な数値化」なのですね。
そこへ対する「侵害意識」を持っていると。
他の作家の作品は今まで何百トンと裁断されてきたわけです。
それこそゴミの山になった本がたくさんあったのに、他の作家のことは別に考えはしてこなかった。
今回自分の本が自炊される(紙の本を電子データに移し替える)ことで利益が侵害され、今ある収益が大幅に消えていくことに危機感を持っているのだと私は見ている。
得に東野圭吾氏などは前々から中国の違法コピーに怒りを表していた。
しかし言い分として作家として食えなくなるとか、何を今更、あんたたちは食えてるじゃないか、と食えない身分は普通に思うわけで、むしろ作家として充分に食えていけるほうが難しいわけです。
そういう人間がどれだけいるのか。
そして食えない人たちは、むしろ読まれる以前の問題を多く抱えているということ。
電子書籍は「一億総作家化」ではありますが、次々とコピーできる「データとしての作品」に対する法律は古くなってきていて時代にそぐわなくなってきている。
今回の提訴、たぶん現行法に照らし合わせれば勝訴するのではないかと考えていますが、しかしこれからの時代の流れを考えると、いくら粘っても10年以内に著作権法そのものが変わる可能性の方が高い。
つまり電子化の流れは各国の言葉の壁がまだ存在するとはいえ、やがては「国境を越える」ため、日本の現在の国内利益を守るための著作権法では海外とやりとりする場合、どうしようもできなくなるのは明白なのですね。
インターネットとその技術は今までの収益体系を根本からぶち壊し、真面目な作品製作者にとってはまるで地獄のような時代が訪れるわけです。
私も自分の労力が対価として来ないのは、もう無気力になるほど嫌だし、たとえば違法コピーみたいなものが出回って、有料の作品を無料で手に入れ、「おもしろかったです!次回作待ってます!」なんて言われたら「何をこの盗人が!」と内心林真理子氏のように思ってしまうだろう。
労働の対価が厳密に数値化できない、という問題に常に芸術や文化というものはぶち当たり、時代の中で悪戦苦闘する運命にあるということも、大先生なら豊かな教養をお持ちなので充分わかると思うのだが、今回の電子書籍の問題は、たとえ勝訴しても「モグラ叩きの方にやがてコストがかかるようになる」というのが想像できないのだろうか。
小説も、やがて音楽と同じ道をたどるのは目に見えている。
大先生方は出版の未来はどうなると考えているのだろう。
某文学賞で本を批評するように「こうあらなければならない」という理屈は「未来」には通用しない。
そういう感覚で技術と本と読者の関係に関わることを語ってもらっては溝ができてくるのは必至である。
今回は業者だが、個人が自炊しデータ化していく行為と、残念ながら大差がないのである。
そして今提訴している先生方の年代は「紙の読者を多く持つ先生」の最後のピークになるかもしれないとも考えている。
紙の本のあり方や価値観は変わらない。だが、「コンテンツ」に対する「技術」は常に変化していく。言葉にこだわる先生たちだから「人の命を削って作った作品に対してなんだ!」と怒るかもしれないが、扱いはやがてネットと技術の進歩により「コンテンツ化」されていく。
どんなに怒ったって嫌がったって反吐が出るほど汚いハイエナと思ったって流れは止められない。
当然人の手ではどうしようもできないほどコピーは広がっていく。
そして無料で読むことが当然だと思っている人たちは「作品への労力」は考えないためお金を支払うことはない、と今は考えているが、ここら辺は「アイディア」になる。
それで紙に対する思い入れもわからないわけじゃない。
「本の尊厳」だなんて、こんな言葉を出すなら他者の著作について自分以上に尊ばなければいけないのに、どんな取り組みをしてきたのだろうと首を傾げるがちょっとおいておく。
作品ができあがるまでの労力は本当に莫大で、1作品きちんと調べる作業も入れると3ヶ月とか4ヶ月とかこもりっきりでやらなければいけない。
表紙ひとつとったって本の見た目をすべて決める作業。本当に繊細に行われていく。
その作業が楽しいと思えればよいのですが、だいたい「産みの苦しみ」は誰しも抱えているものと思っています。
できたときの喜びが苦痛に勝るだけの話で、その「苦痛より上回った喜び分」で作ることができるのかな、とも自分は思うわけです。
そこから多くの人たちが関わり、ようやく労力が紙として物質化するわけですから、まるで自分の身を削って与えたような気持ちを持つのはわからないわけじゃない。
だからその思いと、今回の自炊代行業の増加の根底にある問題とごっちゃにして、あくまで「作品としての尊厳」を訴えたくなる人情は否定はできない。
しかし「作家の慣習」と「一般庶民の慣習」は違い、国家の重要案件に関わる事案でなければ通常は現行法を最大限考慮しながらも「一般庶民の慣習」に従っていくことになる。
東野圭吾氏に至っては、もう10年前ならまだしも今更、という思いを抱く人も多いだろう。
それだけ「成功」して今まできた人なのだ。今回提訴している他の作家と同じく。
もう「データ化」された時点で漫画家や小説家の収益モデルは崩れ出してきていた。その兆候が「紙の収益の上にいた」から、まったくわかっていなかったか、問題として軽視しすぎていた。
東野氏の姿は現在の出版社の象徴だと言っていい。
これからは瓦解したモデルは「文献」でしか存在しなくなる。
それこそ電子書籍化して売った方が問題意識や改善点を全体で共有できる。
それぐらい時代は変わってしまった。
もはやコンテンツにおける国境のボーダーレス化は、これからもっと加速する。
結局今回の作家たちの目的は著作権と作家の利益に対する大々的なパフォーマンスだと思い込みたい。
おもしろいって思うならちゃんと私たちが続けていけるよう、お金払ってね、と。
もし本気で訴えているのなら「日本国内しか見えていない視野の狭い人たち」になってしまうのだから。
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