西村賢太氏の時も非常に印象的だったが、今回の田中慎弥氏の会見では非常に学ぶものが多かった。
略歴を見れば田中氏が偏屈な感情を持つ理由もよくわかる。
私も作り手だから、本当に自信のある作品をいくつかすっ飛ばされて今回の受賞となったら、「何を今更。この節穴ども」と罵りたくなるだろう。
田中氏は長州人だから、江戸の人間に選ばれて「はい!本当にうれしいです!」だなんて爽やかに会見したんじゃ、長州人としての気質が疑われかねないと思っていたが、どうやらあの会見は素らしく、あとで折れたと聞いてちょっと残念に思った。
しかし何よりも今回の会見で大きな学びを得たことは、生意気でも小賢しくともふてぶてしく無礼にしたほうが、メディア露出が増えるということだ。
そして何より人の印象に残る。
作家なのだから作品で印象に残せよ、という意見もあるだろうが、そもそもあの賞は「商業的な賞」なわけであり、名誉とか実力とかよりも、文学的なお祭りとしての神輿担ぎであることは少しでも文学を噛んでいる人には言わずと知れたことなのである。
今回芥川賞は二人受賞しているが円城塔氏に比べれば田中氏のメディアでの騒がれようは圧倒的な差がある。
真面目に会見した方よりもふざけている方が騒がれているのだからバカらしいことこの上ない。
文学賞の中でもNHK、全国紙、メディアに堂々と流されるのは芥川賞と直木賞しかない。
ましてや芥川賞は「新人に」という趣きが強い賞である。
だいたい地位がある程度固まっている直木賞作家とは違い、「賞を取っても明日の命がわからない」のが「芥川賞」なのだ。
これらのことを考慮すると、手段を問わず強くキャラクターを印象づけた方が勝ちなのだと見ながら感じたのだ。
読者やファンというものはせいぜいいっても100人に1人の割合でしかつかない。
これがほぼ文学の最大値だとしたら、100人に出会うよりも千人。千人よりも百万人。百万人よりも一億人に出会う方が圧倒的に作家としては勝利なのだ。
その意味でもテレビに映ったのなら「江頭2:50」並のギリギリさで、派手なパフォーマンスをしたほうが株があがると私は見た。
嫌う人間は嫌えばいい。最初から人格で作品に入る人は、まず読まない、読み込めないと判断した方がいい。淡い期待を捨てて狡猾に、一度切りのお祭りを最高に演じてやったほうが、あの場面では勝利なのだ。
作家はテレビで勝負するものではなく作品で勝負するものなら、もう二度とテレビに出ずともよいという覚悟でいくらでもぶちかませばいいのだ。
あとは作家としての実力で勝負していけばいいだけの話。
作家の価値をあげる最初の砦は「入り口の大さや広さをいかに確保するか」にかかっている。
これは自分で展開していてよくわかってくることだ。
まず興味を持ってもらって読んでもらうまで引き込まなければいけない。
そのためには色んな意味で露出を多くしなければいけない。
この最初の段階を効果的に展開するには最も大事な席でテレビに映ってふざけたように振る舞い印象づけた方がいいに決まっている。
そんなこんなで、万が一にもあの場所に立つ日が来たのなら、せいぜい派手に振る舞ってやろうと心に誓ったのである。
「ああ、もらってやるよ」ぐらいの勢いでなっ。
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