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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

03/03

Fri

2017

プロって何さ 続けていくって何さ

生計を立てていけるっていうのが一番。
確定申告で、その職業を書けるのが最もなことになるのだけど、今回は「プロとして続けていくには大衆受けするようなものを作れ」と「自分の好きな事やって個性を伸ばせ」の両立しない2つが存在していることについて。
どっちも正解です。
昔から芸術家ってお金の問題は付きまとっていた。
つまりパトロンと芸術の問題は切っても切れなかったし、今だって大量販売に耐えられるものを作りながら自分の本当に作りたいちょっと独自のものを空いた時間に作るということをやっている人がいる。
メインで稼いでいる業種は違って、副業としてやっているとかも多い。
やっぱり生活できなければ芸術は続けられないし、理解者や気に入ってくれる人がいないとお金は手に入らない。
それもこれも生活のため。生活優先で文化芸術活動が可能になります。当たり前ですが。
デザイナーというのは受け入れられるように創り込む。
アーティストというのは強い個性を打ち出していく。
どっちかしかないってことはないだろうから、やはり両立しながら探っていくしかないし、人に受け入れられることを目指しながら、少しずつ自分のエッセンスを入れていくというバランス作業は2つの論理は矛盾していて相容れなくとも技術的には可能な事。
それととにかく人に見せること。ネットじゃなくてちゃんと対面で人の顔を見ることをお勧めしますよ。
百聞は一見にしかず、ぐらいの雲泥の差があります。
見てくれる人を増やして様々な意見を聞いていかないと、人のタイプも見抜けない。
やはり人には趣味や好む趣向がある。
それは最初の時点ではまったくわからないから、見抜けるようになるまで見せまくって色々言われていくしかない。
とにかく続けて、凹んでも止めないで、基礎をしっかりやっていくしかない。
毎日が修行なのです。
何か大きなショックがあった時、突拍子もないオーダーが降りかかった時、やはり立ち戻って骨となるものは「今までしっかりとやってきたこと」以外ありえないんです。
長く続けていくには基礎は最も外せないもの。
否定されて辛い。
批判されて苦しい。
いつまで経っても下手だ。
だったら上手くなるまでやるしかない。
基礎的な技術や勉強が疎かなら調べて学ぶ。
出来ないのなら、もう止めればいい。
というより、プロになるのを諦めて趣味でやればいいのです。
身近な人に見せていく。
ネットでひっそりとやっていく。
それでいい。
不特定多数の人に褒められたいなんて慾出したら絶対傷つくし続けるの嫌になります。
芸の道は一日にして成らず。
辛いものなんです。
楽しいのは、まったく知らない赤の他人が心の底から感動してくれた時だけになりますよ。
でもそれだって一部。
一つ一つの他人の気持ちを受け取って、少しずつ成長していくのが芸術家だと今は思っているので、誰かのために心血を注ぐような姿勢じゃないと、決してよくはならないです。
世の中には才能と呼ばれるものもあり、天才がいます。
でもほとんど全ての人が秀才です。
天才とは天からもらった感性・心で理解してしまう人。1を聞いて自分で解釈して10を編み出せる人。
秀才とは努力に努力を重ねてようやく人から「天才」と言われるような能力を身につける人。人に血の滲むような努力をしてないように、その道に負の感情を抱いてない人。
私はそう思ってます。
楽して何かを成せるとか、褒められたいとか、よこしまな気持ちがある限り、決して技術が上がることはないです。
色々経験してきて今の段階で言えることは以上。
妥協は衰え。自らを鼓舞してモチベーションを保つのは他人の仕事じゃない。自身の仕事です。
また10年後、違ったことを書くかもしれませんが、それはまた経験上悟ったことなのであしからず。

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12/22

Tue

2015

美味いものを全部入れたらゲテモノになる

これは創作における鉄則なんですが、やっぱり描きたいものというのは絞らないといけない。
そこにテーマ性があるか、ということを自分は考えたりするのですが、最近料理も楽しくやっていることから、よく料理に例えています。
何でも「塩梅(塩加減)」ってのが大事で「入れすぎない」「少なすぎない」という絶妙のバランスが素材の味を引き出すわけです。
そんでもって、よく最初は「作りたいものを作る」という気持ちが強すぎて、あれもやりたいこれもやりたい、と自分が好きなものを何でもかんでも詰め込んでしまいますが、料理に例えるなら簡単です。
自分の好みのものを同じ鍋の中に入れて混ぜてしまったら、恐らく食べられないものになると思うのです。
そういう意味ではテーマ、最終的な出来上がりとなるものは、シンプルなものの方がいい。
それを「メインの食材」とするならば、そのメインの食材がどのようにしたら引き立つのか。
主人公や脇役でさえ冷徹に扱わなければならない時があります。

創作には二つの目が必要です。
一つは主観。
これは誰もが持っているものですが、もっと突っ込んでいくとキャラになりきる演技力というか、その心情をよく知り、その視点から世界を見るという主観です。
これ、なかなかね、できそうでできないっていうね。
鍛えるには多くの人と出会って色々な人たちのことを知ったりするのが一番なんじゃないかと思ってます。
実際肌身で人間のこと感じないと、自分の世界に閉じこもったままになってしまうので。
二つ目は客観。
客観視って「人から見たらどう思うだろう」という意識ですね。
日本人はこの「客観視」が強すぎて、なるべく波風立てない方法で、自分を殺しすぎる人がいますけれど、それこそ「塩梅」です。
バランス感覚というものは、この客観視で養ってください。
ある一方向からのものだけが正しいことではないので。
この「客観」を養うには、常に哲学的かつシンプルな問いが必要です。
「それは本当に正しいことなのか(間違っていることなのか)」
という視点ですね。
色んな方向から見る。
たとえば悪には悪が成り立つ仕組みや理屈がありますし、それでは人間は落ち着いて生きられないから戦うという善もいますし、悪だとわかりつつ、おかしいとは思いつつ、正しいことに対して勇気を持てずに傍観しながら悪化していくのを眺めていく人たちや、悪には染まりたくはなかったけれど流されたり生きるためには仕方がなかったりとか、色んな立場の人たちがいます。
それを知るには沢山本を読んだ方がいいと思います。
自分が知らなかった世界を知る。
そして自分が認められない世界のことも知る。
そうやって己の中の価値基準に対する、時には愚かとも言える何かに気がつくわけです。

正直主観は誰にでもあるわけであって、やっぱり影響を受けてきたもの自分が好きなもの、鬱屈したものっていうのは誰しもありまして、それを表現することはまったくかまわないのですが、「何故それがあなたが書かなければいけないのか」という明確な理由と、さらには誰にも影響されていない独自視点がなければいけないのです。
もういっちょ欲しいのが、いかに主観過ぎるものであっても「周囲の環境をきちんと理解できている」というのが大事で、あまりにも周囲の感性とかけ離れていても、奇人変人の作品に終わってしまいますからね、いかんのですな。
どうしても「王道」というものがあって、「他人が安心して食べられる安定した味」というものがこの世界にも存在します。
最近はシナリオやお話の世界ではハリウッド的な構成における凝った仕掛けが主流になってきていますが、それもいずれは形態を変えていくことでしょう。
最先端のものをマネするのはかまわないのですが、それが自分でできかかった頃にはブームは済んでいるなんてこともザラに。
やはり最新情報を常に得ていることが大事ですし、専門外のことにも興味を持って積極的に情報を得て、理想を言うならば、その専門分野のお友達を作るのが最高です。
なんせね、会うたびにね、話してくれるからね。
お酒の席で一緒になれるような仲になったら、色々教えてくれますよ。
それタダで聞いちゃっていいのかな?っていうことをね。

人を作るのは常に人なので、素敵な人たちと繋がっていけば、自然と「美味いもの」ってのがわかってくるのですが、そこは慎重に自分の中で選りすぐって、「最高の料理」に変えていくのが腕の見せどころかと思います。

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09/01

Tue

2015

そんなものは存在しない、と言ったほうがいいだろうし、「純文学とは何か」と問われて自分は「業界の人が感性の翼羽ばたかせるままに大いに持論をぶちまけている一小説分野」としか言いようがないほどにわけのわからぬものとして捉えてはおりますが、例えば「芥川賞」を一つ取るのならば、その年その年の「テーマ」のようなものがうっすら見えてくることはあります。
でもそんなもの気にして小説なんて書いていたって大変下卑たものしか出来上がらないし、辞書の定義に沿うならば、

じゅんぶんがく
【純文学】
(通俗文学と区別して)純粋な芸術性を目的として創作される文芸作品。

となるわけであるから、例えば小説のある形式を徹底的に守った上で独自スパイスを入れるとか、言語という分野を離れて別領域の方式や形式・視点・法則などを、そのまま世界観に取り入れるとか、例を出すならばピカソの絵の法則性と精神と人生と哲学をそのまま小説において別の景色の中にしっかりと当てはめて全体を描くとか、日本ならば岡本太郎の方がいいか。
など、純文学を描くためのヒントって結構文章以外のところに存在していて、それがガラスの性質だろうと、今MITが研究している最先端理論だろうと、それが「人間」を描く上でバッチリと当てはまっていれば小説の領域などいくらでも広げられるのだ。
つまり「独自視点」とは「独自の研究に基づき得られた、確かな人間生活上の普遍性(もしくは希少性)」であり、そしてそれが確かに他人にも伝わる文章技術において構成されている一小説であれば、私は純文学と定義していいと思う。
当然「研究に基づき得られた」ものであるから、自分の中だけで喧々囂々とやっていたのでは純文学などできようはずもないし、所謂「独りよがり」を長年続けて得られるものは「社会とは隔絶された鬱屈さ」であることは間違いないものになってしまう。

よく「描写」と書く。
だが最初から「描写」ができる人間はいない。
これは一つの完成された小さな絵だと思っていい。
その小さな絵を完成させる前に私たちは「素描」と呼ばれる、所謂練習で書く「スケッチ」のようなものを繰り返さなければ「描写」は上手くできるようにならない。
最初から文章を書いて、自分の中で上手く出来た、私はこれだけ努力したのだから認められるはずだ、独自性を貫いているし今までにない文章だ、とよくナルシシズムに浸りきり右も左も上も下も糞も味噌もわからぬ状態になるが、そこは冷静になってもう一度考え直すべきことは多々ある。
だから普段から文字でスケッチをするといい。
名文に触れるのもいいし、小説を読むのもいいが、書を捨て町へ出るのだ。
そこで目に触れたものを文字でスケッチしてみるといい。
一体自分が何に心動かされるのか、何を無視しているのか、人の中で自分の欠点と長所を炙りだしてみるといい。
自分の方向性も見えてくる。
もちろん、様々な方法があるから一例として出しているのだが、そうやって普段から自分の中へ「リアリズム」を徹底させるんだ。
それをしておくと、どんなに幻想的な世界や突拍子もない奇抜な世界観を描いたって、地に足がついているから、ちょっとした風に作品そのもの、作者自身が吹き飛ばされることはないだろう。

純文学を描くんだったら、この領域でやらない方がいいのは「売れようとすること」「大衆に媚びようとすること」「驕り昂ぶり他人を見下すこと」「教訓など一切存在しない領域なのに、人間の真理や教えを探して描こうとすること」だろう。
これは文章・作品性質上のことではなく「作者のスタンスとして」だから、このバランスを崩すとコンプレックス丸出しのみすぼらしい文章になるので、本当におすすめしない。
つまり、文章よりも先に作者がでしゃばってくる作品になる。
こうなってしまっては読者としては、ただひたすら苦痛。作者に正座させられて永遠と聞きたくもない御託を並べ立てられている苦痛に苛まされる。当然、作品を読みきる前に捨てる。
評価されるとは程遠い領域の所で終わってしまう。
そうなると作者怒る。読者呆れる。作者ぐれる。読者毒づく。作者鬱。読者無視。
とお決まりの負のスパイラルに陥るのは目に見えているから、普段からバランス感覚を保てるよう、いつも持っているくだらないプライドはトイレに流しておいた方が得だ。
もし怒るのなら、悔しいのなら、ひたすら「技術」にだけ向ける。
その方がずっといい。

さて、純文学の領域ではまず食えない。
食っていけないし、時代は純文学を求めてはいない。
だが一部のマニアを相手にしたいのだったら続けるといい。
当然きちんと定職を持って、食っていける手段を完全確保してから書くのが鉄則。
じゃないと確実に飢え死にするか、もし上手くできたのなら、その才能は文章の才能じゃない。
マーケティング戦略上の才能だから、作家としての才とは少し違う。
でも普段からきちんと人を見ていれば、たとえ食えない領域だったとしても道は見えるだろう。
頑張ってね。
ここはちょっとやそっとの根気があったくらいじゃ、精神が壊れるほど大変だから。

あ、そうそう。
日本語はちゃんと勉強するんだよ。
私も頑張るから、一緒に頑張ろう。

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05/22

Tue

2012

余計な描写をしてしまう理由

年をとってきて、よく思うようになったが、ある程度相手の出方というのが見えてくると、話し合いの場においての「余計な情報」というのは話をこじらせる最も大きな原因となる。
現在話している論点から類推せず、拡大解釈したものを持ち出さず、比喩も勘違いさせずに的確で、しかも伝えるべき結論や趣旨から一切それないということが伝えることの大前提になる。

一言で言うなら「余計なこと」が、すべてを台無しにする火種になるということだ。

最近知り合いの女の子が空き巣に入られた。
その子は以前からストーカー被害にあっており、バイクのナンバープレートを曲げられるなど、小さな被害にあっていた。
そして家を留守にしている間に、犯人はわかっていないが何者かに荒らされていた。
金目のものはほとんどとられておらず、家具や電化製品が壊されているという、少し物取りにしては疑問点が残る部屋の惨状だった。
このような状況から警察も、そのストーカーへと事情聴取をするようだ。

ストーカー被害に合う人の気持ちなど、察するに余りある。
私だって、このような話を聞くと腹立たしくなる。
何人かに聞いてみたが、小さなことでも「執拗に付きまとわれる」というのは、女性にとっては大抵「怖い」と思うことが当たり前で、夜も眠れないほど震えるという。
そんな気持ちがわからず、自分の気持ちだけを優先し、願望を叶えようとする気持ちは、ちょっと言ってもわからない人のことが多い。
私も中学生の頃は好きな子ができたら家のまで行ったりもしたから、相手に気がついてほしい、自分の気持ちが伝わればいい、と妄想や願望だけを膨らませていく気持ちがわからないまでもないが、今はいい大人なので、そんなことはしない。

さて、話を戻すが、実際に現実で被害に合っている、苦しんでいる人たちの気持ちを知り、そこへの何らかの感情をさしはさむと、どうしても作品作りのときに描写したくなる。
極端に言うのなら、ストーカーが主人公の作品を書いているとして、そこへ批判的な描写を入れてしまう。
ストーカーの不幸を願いながら描いてしまう、という状態になる。
読みなれている人間にとっては「作者の介入」は非常に不自然に感じる。
そして前後の文章とは明らかに違ってくるので浮いているように感じるし、作品の完成度そのものへも影を落とすことになる。
これはベテランの作者でも例外なくよくやることで、ベテランの場合つじつまを合わせるために、相当うまくコーティングしてくるのだが、やはりうっすらわかる。

何故このような状態が起こるのか。

元々文学というのは人を描くものだ。
例えば物を擬人化して書くというのもあるが、それだって共感を得ねば作品として成り立たない。
それは結局人が触れているものに対して思いを巡らせることだから、人の介在できないところに作品は存在できないと私は考えている。

それでは、もっと根本に戻って「人」とはなんだろう。
私はずっとこのことを考えている。
自分が何かの価値観を持って、その人に接してしまったら、自分の価値観という金型で、ただ思い通りの形を縁取っているにすぎないのではないか、と反省している。
それはその人そのものがもっている形ではなく、所詮自分の願望の現われにしか過ぎない。
小説家は私小説でもない限り、これをやってはいけないのではないかと考えるところがある。

基本的なノウハウとしては比喩を多用すると陳腐になるとか、あるキャラに同情する余り本筋からそれて描写が飛んでしまうとか、細かく書いてしまうあまり作品のリズムやキレが瓦解しているとか、色々あるだろう。
これらはすべて「余計な情報」だ。
最初お菓子の話をしていたのに、いつの間にか政治の話題を絡めてくるぐらい読者にとっては不自然に感じる。
だが作者は描いている時、不思議とこのことに気がつかない。
だからよく「寝かせなければいけない」という。
自分の作品を客観的に見られるようになるまで置いておくということだ。

世の中には自分の気に入らないこと、自分が最も好んで重視したいことがあるだろう。
普通に生きていれば、このことを優先し、差別的に区別的に見ることに、なんら疑問をさしはさまなくていい。
しかし人をあくまで中立的に見ていかなければいけない小説家にとって、この偏見は作品への致命的な傷となることがある。
そして余計な描写へと繋がってしまう。

もし自分の価値観や偏見が拭い去れない時、対極にある価値観を知ろうとすること。
これは作品や人間への公平性を自分の中で保とうとする時、とても大事なことだ。

偏見まみれの作品は、誰も読みたがらない。
偏見に共感を得たいのなら、信者家させるしかない。
だが、たいていそのような作品は残らないし、時間とともに消える。

思い当たる節があったら、ぜひ自分の嫌悪感と戦い打ち克って欲しい。
得るものもたくさんあると思う。

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05/16

Wed

2012

素人作家にありがちな理想論とスランプ

若いころ、具体的に言えば20代前半など、作家を熱心に目指す人にとっては、様々な理想的な状態を思い浮かべている。

当然実践の理論ではなく、それらはすべて理想論なので、年上から見えれば「宙に浮いた考え」に見えるのだが、当人にとっては全力で、むしろ周囲の人間が何故理想的な状態ではないのか、お前たちこそ間違っているぐらいの勢いで来る。
それは私は間違ってはいないとは思うし、本当にその人に実力があり、反骨精神を貫けるのなら、ぜひ逆風という大きなチャンスを生かしてのし上がって欲しいと思う。
つまり作家は注目されなければ意味がない。
書いても認知されなければ、それは「妄想」と同じレベルで他人に処理される。
現物がなければ「何こいつ」程度で誰も話してくれない。
そこを例え批判とは言え、否定されようとも、注目されているうちはチャンスを握っているといっていいし、むしろ主導権は自分にある。

技術職は現場でしか腕が鍛えられないのは、どの職業でも同じことだ。
作家にとってはあらゆるものがチャンスになる。
つまりきちんと理想論へのプロセスを戦場で鍛えていれば、必ずチャンスをものにできる。
できないのは、そのプロセスとノウハウがごっそり抜け落ちているからに他ならない。
プロの現場は理想論へ近づくプロセスを突き詰める。
だからこそ理想論だけの状態が無意味だということを身をもって知っている。

素人作家にありがちなのは、特にこのプロセスを積み上げるという作業で、理想論だけが浮いて存在するので、口から出るのは泥臭いものではなく、かなりの綺麗ごとや、今まで自分の妄想の中で積み上げてきた偏屈な考え方だったりする。
そして理想的な状態を自分にも当てはめるばかりに、作品に対して「これでは完成ではない」「もっと素晴らしいものができるはずだ」もしくは逆の発想だと「こんなものでは見せられない」「批判されるのが怖い」という思いで他者に対して公開するのを止め、常に身内、気の合うサークル仲間など内へとこもりだし、最悪の場合そこで馴れ合いをしだす。
もしそうなってしまったら、理想論ばかりが大きくなり、他者への批判意識ばかりが育てられるという危険性がますます大きくなる。

理想論の中に閉じこもり、作品を外に向かって公開できないということは自分の実力すらも知らないということだ。
だからこそ無限大に理想論は頭の中で膨れ上がり、外に向かって対応できるノウハウが削られ、自分を批判するものに対して強烈に噛み付いていく姿勢が生まれてしまう。
これは特に20代の、そして少し教養を嚙み始めた学生に多い姿勢でもある。
そしてそのまま現場を知らずに過ごしてしまうと、いつまでも理想的なことだけ述べて、突然気に入らないものに対して憎悪に近い感情を燃やすということは、いい大人でもたまにやったりするので、なるべくそうならないように自分を鍛えて欲しいとは感じる。

理想論を思い浮かべるばかりに上記の理由からスランプに陥る人もたくさんいる。
複合的に理由が重なっているので、自分の中で何が原因なのかまったくわからず、かといってぼんやりと見えているような霞のような、どうにもすっきりしない状態で、かといって筆が進まなくて苛立つことに、さらに苛立つという畳み掛けで、ドツボにはまるという状態だ。
批判されても理想論が邪魔をし、自分の現在の実力を受け入れられず、いつまでも「違う」という感覚しか持てない。

そんなドツボにはまらないためにも、作家は自分に対して人に対して寛容で、かつ柔軟でなければいけないとは考えている。
さもなければ自分の視野の狭さに作品の首が絞められ、それがやがては致命傷を作家自身に及ぼしていくからだ。
一本や二本ならまだしも、生涯20,30と書いていく豊かな創造性は、自身の劣悪な視野の中では生まれてはこない。

例えば人に対して不器用すぎて礼儀を尽くせず暴れてしまうような性格というのもあるだろう。
無頼なら無頼で通せばいいし、荒唐無稽な人生だってできないこともないだろう。
だがそれは実力に裏打ちされなければ、たちまち他人に引き摺り下ろされるし、自分が思ってもいない、特に油断していた後方から突然殴りかかられるという事態だって起こりうる。
そのことは実は自分で蒔いていた種だとも気がつかないわけだが、結局は広く視野を広げてみれば、やはり自分のせいなのかなと気がつく。
もしそうなったとしても、またそれを作品にできるのが作家の凄いところで、何一つ無駄にはならないのは確かだ。
意図してやるのなら覚悟してやるといい。
愛されなければ、殺される。
二つに一つしかない。

作家は中に浮いたふわふわとしたものを追い求めるものじゃないのと言われたことがある。
半分合っているが半分間違っている。
つまりそこには現場で鍛えられたノウハウなどなく、プロセスがごっそり抜け落ちれば、口だけのやつに過ぎないし、その他大勢の人間と大差がないことになる。
それは理想を叶えようとする以前の問題で、今やるべきことは我武者羅に自分の身の丈、器の大きさを受け入れて、そこからやるべきなのだ。
所詮、人は手に余ったものをこぼれ落とせば、その分反動が来る。
恐ろしいことに、それは思いもよらない暴力的な力だったりするかもしれない。

外に出れば、広い世界が待っている。
その世界にはたくさんの人たちがいて、自分ひとりでは到底こなしていけない。
つまりは誰かの力が絶対必須になる。
そんな戦場で一人でふらふら、あちらにふわふわ、こんな状態で生きていけるはずがないのだ。
もしあなたが作家を目指したいのなら、人の力を真正面から見つめないと、次の瞬間道が崩れ落ちることはよく覚えておくといい。

批判されようと何を言われようと、頑張ってください。
その歩みこそ、美しい姿です。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
38
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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