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あさかぜさんは見た

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11/22

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2024

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07/15

Fri

2011

だいたいこういうニッチな世界、これは演劇とか芸術とか、そういう偏狭な世界に入っていく人たちに言えると思うが、専門的になればなるほど、技術的に高まってくれば高まってくるほど、理解が深まれば深まるほど視野が狭くなるという側面がある。

私は文学をやっている身分であり、文学を目指す以上は、やがて病的なことも言うようになるのかもしれないが、やたらと「若い作品」を「自分の知っている限りの最高峰」と比較して「まだこの基準には達していない」とするのは、どの世界でもありがちなことだ。
当然私もそういうモノサシでもってやることがある。

そもそも「文学とは何か」という議論において、私の答えは明確であくまで「人間が生き生きと描かれているリアリティ」を示すものとするが、これは人の感覚によって大きく尺度が違うので、もっと客観的に示せるものはないのかと言われると難しいところがある。
そもそも人間、接したことのない他人のことを描かれても理解できないことは多々ある。
その「接したことのない人の心情」を慮ってみるのも、小説を読む楽しさなのかなと思う。
だが、例えば快楽殺人犯の思考回路でもって世界を分析した本を書いたとしても、恐らく誰も理解できないどころか、焼き捨てられるようなレベルと判断されるだろう。
ここでの読者における「人間らしさ」とは「共感」に他ならない。
必ずしも「人間らしさ」は「共感を担保」するものではない。

それ以前に芸術作品である限りは他人の感性における多数の同意を得るものが常に優れたものであるとは言えないところが、なんともこの世界の難しさでもある。
他人の感性を投影して値段をつけるというのが芸術世界の根本にあるために、「売れる」ということを意識しただけでたちまち個性が消えて下卑てくる。
芸術性とお金。
この二つの側面で揺れ動いてきた芸術家は多いとは思う。
芸術家は病的なだけに自分と他人の境界線を必死に埋めていく作業を生涯にわたってしていかなければならない。
それだけ、やくざな商売だし因果なものなのだ。
そして人気も関わってくるだけに「生もの」としての性質も強い。
新人であろうと大御所であろうと、この世界にいる限りは生涯戦わなければならない宿命である。

ところで、テレビで一番有名な文学賞は直木賞・芥川賞であるが、いつも審査員たちの偏狭振りが面白く腹立たしいことがある。
だいたいどの賞の選評でも言えることだが作家が他人の作品を批判すると、必ず自分の立ち位置からものを言ってこき下ろすということをやりだす。
自分も例外ではない。
それは必ずしも相手の狙うところの延長線上でものを言うわけではないので、時として作者本人にとっては迷惑この上ないことも珍しくない。
それは一所にこもって文学などという狭い世界を極めようとするあまり、思考回路や視野の狭さを自ら招いているのだという失態に気がつかなくなったほど病気にかかってしまったという証でもある。
つまり好意的に言えば「文学を愛している」のだ。
その熱愛振りといったら、好みの女のスタイルや性格を最初から最後まで語りつくさなければ満足がいかず、自ら愛している女性を酒の席に連れてきて「どうだ、この女は最高だろう」と舐めるように再度見逃した部分を語り、挙句の果てには「お前もこんな女を愛さなきゃいかん」としてやったりの満足顔で肩を叩いてくる、というぐらい底知れぬものがあると言ったらよくわかっていただけるだろうか。
これは「マニア」の世界にも同様のことが言えると思う。

この「病気」にかかった人たちが上位を占めるのが偏狭な世界の逃れられぬ宿命であるために、新しい風潮が評価されにくいというデメリットを含んでいる。
そもそも文学は時代に生きる人間を反映しなくては「現代の作品」とは言えないわけであり、別に経済小説であろうと量子コンピューターの世界であろうと宇宙理論であろうと人間世界と密接に関わり、その人間世界を鋭く切り取っていれば文学であると私は思う。
それがデフォルメされた世界でもなんでも、ひとつの真実を強烈に切り裂いているのなら、作品としての評価は充分に下すべきであるというのが持論だ。
ところが「文学が」「人間が」などと言って自分の慣れ親しんだものを尺度に、自分が新しい時代の風潮や理論を知らないばかりに、壇上の上で滑稽な踊りを見せびらかすという一人エンターテイメントをやりがちなのが「病気にかかった人たち」である。
私もその宿命から逃れられないことから自らのことを「永遠のピエロ」と呼ぶことにしている。

この病気は風邪のように放置しておくとこじらして悪化する可能性が高い。
だからこそ日々の予防や心構えが大事になってくる。
健全な魂は健全な肉体に宿るというが、健全な肉体作りは体を動かさないことには出来上がらない。
体を動かすということはより多くの人や見たこともないものに触れ合うということだ。

もし、この記事をお読みの方が私以外の「病気の人」に出会ってしまったら、芸術家の因果な宿命たるこの病的な心理作用のことを思い出して許してやって欲しい。
愛ゆえの、歪みであると言えるのだから。

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07/05

Tue

2011

小説家を目指す人の救いがたい病

うーん。
時々小説家を目指す人の中でネットで意見交換している人がいるけれど、最近ようやくわかってきたことがある。

例えば小説家と一言に言っても、大衆小説、純文学、ライトノベルと大きく書き方が異なる。
大衆小説は文章としての面白みやストーリーとしての構成のうまさなどが重要視され、純文学は人間の内面を深く抉り取っていくような人間洞察に優れた素質と奇抜な構成力が必要になり、ライトノベルは破天荒な空想の面白みのみを特に重要視する。

それで、特にこの三つの意見と考え方がごちゃごちゃになって区別もされてない状態になっている。
私の考えは文学とは人間を見つめるもの、というよりこれからの芸術は都市化社会の中で失われていく人間的感覚をきちんと刻むことがひとつの芸術が存在しえる理由となると思っているので、あくまで人間に寄り添って、というのが主軸にある。
だから立場から見てしまって、相手の望むものから大きくそれる意見を出すことも多々ある。

ネットでは自分の望んでいるものを実現させるために、自分の意見と似通った人を集めて自分の作品を肯定していく傾向があり、違った立場の人は違った立場で意見を押し付けてくるという、成熟してくればしてくるほど「要塞化」と「拠点攻撃」がなされ、最後の勝利者は他の意見が入りづらいように完全に周囲を同意権の人で固めて堅固な要塞を作る。
「要塞化」っていうのは、自分の思想を同じタイプの意見や人間構成で固めてしまうことね。
「拠点攻撃」は「要塞化」されようとしているものを、自分の価値観から崩そうとする人「小説はそうじゃない」とか言うのがそう。

この二つの攻防によって、偏狭な自らの世界観を誇示するというのが、よくあるパターンであります。

それで毎年懸命に文学賞に書いては送る人がいます。
文学賞の性質も調べないで、名前や好きな作家がそこから出ているからとか、文章よりもむしろ憧れに近いもので送るのですね。
「私もあの作家みたいになりたい」
「自分の作った文章が世に認められたい」
そして年間何十人も新人が生まれては一割も残っていかない悲惨な結末が待っているのですが、どうしても諦めない人がいる。

新人賞を受賞するまで諦めない人たちがいるのです。
ここら辺の心理は芥川龍之介の「芋粥」に滅茶苦茶近いものがあると思うのですが、食べたことがないばかりに憧れや妄想の中で膨らんでいく「芋粥」をぜひ食べてみたいのだとあれこれ思い巡らすのですね。
新人賞に応募している限りは、この話の結末までたどり着けないので、永遠に思い巡らしている状態なのですが、実は一番この状態が楽しいのではないかと。
だからやめないんじゃないかと。
そう思うわけですね。

で、これが救いがたい病であって、この病にかかった限りは、一生を費やしてもやり続けるかもしれない。
ある意味、幸福なのではないかと思うこともあります。

私も最近気がついたことがありますが、この手の人たち、自分もそうでしたが、とにかく「研究不足」なんですね。
小説は読まない、人間は観察しない、ヒット作に憧れ劣化を作る。
大衆小説における罪と純文学における罪とライトノベルにおける罪を平気でやってのけてしまう。
そのくせ、自分の作風に迎合する人間を集めてくるという、本当に救いがたいのは、自らの罪を数の力や慰めで浄化させようとするわけです。
しかしその「過程」は大事なわけです。
気がつけばいいだけで。
気がつかないから「罪」なのです。

これから先の時代、電子書籍なるものが出てきて、罪人どもが地獄釜で沸き立つようにボコボコと煮え立ち沸き立ち溢れてくるわけですね。
そして自分と似たような人間がわんさかいると安心しつつ免罪符を得ていくという、目も当てられない阿鼻叫喚の状態が渦巻いていくわけです。
そして河原で自分の作品を石のように積み上げては、大きな鬼、その名も「新人賞」という鬼に蹴り崩されるわけです。

さて、かと言っても、これからの時代新人賞や文学賞だけが文学の純度を測るモノサシではなくなるわけです。
彼らの業界も古く、依然として旧体質のまま。
温故知新どころか、温故・・・知新してみたけど温故という状態であります。
旧体質の構造を崩すには、古い人間の頭が一新される必要があります。
当然電子書籍にだって未来はある。
そう、誰にだって未来はあると、誰でも作家の時代が訪れて錯覚するわけです。
そしてさらに罪が加速するわけですね。

私が編集者や出版社の人間だったらダメなものは落としたい。
進歩ない勉強しない愚痴ばかり、挙句の果てには出版社のせいにする読者のせいにするという、私も堂々とやっていた救いがたい状態の自称なんちゃって作家をこの世から一掃してやりたいと鬼のごとく切り捨ててやりたい。
・・・おそらく、救いがたい状態が蔓延してくれば、こういうこと考える人はたくさん出てくると思います。
結局「ブランド力」をつけるための作業なのですね。

だいたい作家は作ることばかり考えていて、あちらさんの状態は知らない。
それでもいいのかもしれませんが、いかに自分の思想や作品がまだまだ眉唾であるかを知るには「学ぶ」ことでしかわからないわけであります。
もし本気で作家を目指したいのなら学ぶことなくして前進はありません。
「芋粥」を脱出できないのはどうしてだろうと、ふと考えた今日この頃。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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