だいたいこういうニッチな世界、これは演劇とか芸術とか、そういう偏狭な世界に入っていく人たちに言えると思うが、専門的になればなるほど、技術的に高まってくれば高まってくるほど、理解が深まれば深まるほど視野が狭くなるという側面がある。
私は文学をやっている身分であり、文学を目指す以上は、やがて病的なことも言うようになるのかもしれないが、やたらと「若い作品」を「自分の知っている限りの最高峰」と比較して「まだこの基準には達していない」とするのは、どの世界でもありがちなことだ。
当然私もそういうモノサシでもってやることがある。
そもそも「文学とは何か」という議論において、私の答えは明確であくまで「人間が生き生きと描かれているリアリティ」を示すものとするが、これは人の感覚によって大きく尺度が違うので、もっと客観的に示せるものはないのかと言われると難しいところがある。
そもそも人間、接したことのない他人のことを描かれても理解できないことは多々ある。
その「接したことのない人の心情」を慮ってみるのも、小説を読む楽しさなのかなと思う。
だが、例えば快楽殺人犯の思考回路でもって世界を分析した本を書いたとしても、恐らく誰も理解できないどころか、焼き捨てられるようなレベルと判断されるだろう。
ここでの読者における「人間らしさ」とは「共感」に他ならない。
必ずしも「人間らしさ」は「共感を担保」するものではない。
それ以前に芸術作品である限りは他人の感性における多数の同意を得るものが常に優れたものであるとは言えないところが、なんともこの世界の難しさでもある。
他人の感性を投影して値段をつけるというのが芸術世界の根本にあるために、「売れる」ということを意識しただけでたちまち個性が消えて下卑てくる。
芸術性とお金。
この二つの側面で揺れ動いてきた芸術家は多いとは思う。
芸術家は病的なだけに自分と他人の境界線を必死に埋めていく作業を生涯にわたってしていかなければならない。
それだけ、やくざな商売だし因果なものなのだ。
そして人気も関わってくるだけに「生もの」としての性質も強い。
新人であろうと大御所であろうと、この世界にいる限りは生涯戦わなければならない宿命である。
ところで、テレビで一番有名な文学賞は直木賞・芥川賞であるが、いつも審査員たちの偏狭振りが面白く腹立たしいことがある。
だいたいどの賞の選評でも言えることだが作家が他人の作品を批判すると、必ず自分の立ち位置からものを言ってこき下ろすということをやりだす。
自分も例外ではない。
それは必ずしも相手の狙うところの延長線上でものを言うわけではないので、時として作者本人にとっては迷惑この上ないことも珍しくない。
それは一所にこもって文学などという狭い世界を極めようとするあまり、思考回路や視野の狭さを自ら招いているのだという失態に気がつかなくなったほど病気にかかってしまったという証でもある。
つまり好意的に言えば「文学を愛している」のだ。
その熱愛振りといったら、好みの女のスタイルや性格を最初から最後まで語りつくさなければ満足がいかず、自ら愛している女性を酒の席に連れてきて「どうだ、この女は最高だろう」と舐めるように再度見逃した部分を語り、挙句の果てには「お前もこんな女を愛さなきゃいかん」としてやったりの満足顔で肩を叩いてくる、というぐらい底知れぬものがあると言ったらよくわかっていただけるだろうか。
これは「マニア」の世界にも同様のことが言えると思う。
この「病気」にかかった人たちが上位を占めるのが偏狭な世界の逃れられぬ宿命であるために、新しい風潮が評価されにくいというデメリットを含んでいる。
そもそも文学は時代に生きる人間を反映しなくては「現代の作品」とは言えないわけであり、別に経済小説であろうと量子コンピューターの世界であろうと宇宙理論であろうと人間世界と密接に関わり、その人間世界を鋭く切り取っていれば文学であると私は思う。
それがデフォルメされた世界でもなんでも、ひとつの真実を強烈に切り裂いているのなら、作品としての評価は充分に下すべきであるというのが持論だ。
ところが「文学が」「人間が」などと言って自分の慣れ親しんだものを尺度に、自分が新しい時代の風潮や理論を知らないばかりに、壇上の上で滑稽な踊りを見せびらかすという一人エンターテイメントをやりがちなのが「病気にかかった人たち」である。
私もその宿命から逃れられないことから自らのことを「永遠のピエロ」と呼ぶことにしている。
この病気は風邪のように放置しておくとこじらして悪化する可能性が高い。
だからこそ日々の予防や心構えが大事になってくる。
健全な魂は健全な肉体に宿るというが、健全な肉体作りは体を動かさないことには出来上がらない。
体を動かすということはより多くの人や見たこともないものに触れ合うということだ。
もし、この記事をお読みの方が私以外の「病気の人」に出会ってしまったら、芸術家の因果な宿命たるこの病的な心理作用のことを思い出して許してやって欲しい。
愛ゆえの、歪みであると言えるのだから。
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