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あさかぜさんは見た

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01/07

Tue

2014

偶然検索ワードで引っかかったことだけれど、よい「題」ですので書こうと思います。
さて、人の使う「言葉」には、口語と文語がありまして、口語は感情的に、文語は極めて論述的に展開されます。
そして、言葉においての口語と文語は、一致を見せないのが当然なのですが、どうにも、この両者はいつまで経っても喧嘩をしあうようです。
自分もよく経験しました。

口語は口から出る心に根ざした言葉。
文語は文章上で展開される論述的なパズルのようなものです。
口から発せられる言葉は必ずしも、言葉の意味と一致するわけではありません。
大嫌いと言っても、それは大好きの裏返しであったり、そうだねその通りだよ、なんて言葉はその場をしのぐための口あわせだったりします。
それが文語と大きく違うところです。
対する文語は記述した言葉の意味を辞書の意味とほぼ一致させながら、かつ意味を積み重ねながら意味の結論を導いていくということをします。
一番親しんでいるものは「契約書」でしょうか。
あれは書いたものと読んでいるものが両者意味を一致させなければ成り立ちません。
論文、なんていうのもそうですね。
だから、ロジック(論法)にこだわる人間が、しばしば人の心を踏みにじるのもこの齟齬(違い)によるものです。
口語にこだわる人間は心にこだわり、文語にこだわる人間はロジックにこだわるのですから、両者一致するはずがないのです。
しばしば、宗教的にも政治的にも文語が口語を踏襲し、爆走し続けることは多々あります。

「言葉と言葉のやり取り」という検索ワードだったのですが、憶測ですが一番興味があるのは「何故通じ合えないのか」なんてところだと思うのです。
何故違いが生まれるかというと、だいたい「客観」と「主観」と「当事者」と「他者」における、各々の立場からの一方的なやり取りが原因になります。
当事者は自分の気持ちを知って欲しいことに対して、他者は客観的にこうしたほうがいい、なんて知ったようなことを色々と助言したがるものです。
話もよく聞かないままに、黙っていられずにベラベラと物を言ったり、聞いて欲しくないことまで聞いてしまって信用を失うものです。
そして、最も難しい言葉と言葉のやり取りは「相手の使っている言葉の意味を知る」ということです。
両者、知ろうとしなければどちらかに不満が残りますし、口語と文語のやり取りでもすれ違ってしまいます。
ここが非常に難しいところ。

外国にポーンと2ヶ月以上出てしまえば、日本語を使わなくなるので他民族多文化などの多くの価値観を肌身で感じますが、どうやら同じ言語でやり取りすると、そんな感覚も薄れてしまう傾向にあるようです。
私たちはどこかに「同調意識」を強く持とうとするのでしょうね。
それは「承認欲求」の変化した形なのだと考えています。
そんな「承認欲求」の中で、私たちは多くの場合、自分の持っている言葉の意味を変質させたり、自分自身の言葉の意味を押し付けたりします。
これは言葉における感覚というよりも、圧倒的な経験のなさや、他者感覚の欠如とも言えるでしょう。
経験や他者感覚の欠如は、現場に出て養うしかないので、いくら知識を集めたところで追いつかないところがある。
文学青年少女が独自の世界にこもってしまうのと同じ状態になってしまう。
どこの世界にも知識に凝り固まってしまうあまり、現実世界の微妙な意味を見失う人は多くいる。
言葉を人間が扱う限り、変質し続け、意味もまた微妙に変化し続ける。
10年時代が違えば感覚も得ている環境も育ってきた場所も違うのだから、私たちはもっと他者の感覚に注視しなければいけないのに、古今東西「最近の若い者は」と「大人ってヤツは」を繰り返している有様だ。
なにせ古代エジプトにも「最近の若い者は」というようなものが残っているというのだから驚きだ。

違っている、理解しあえないかもしれない、だからと言って会話をなくすのは間違っている。
いつだって私たちの間の溝を埋めるのは対話でしかないのだから。
そして対話とは、感覚が違うことを前提に、そして立場を尊重しながら交わす言葉のことである。

拍手[3回]

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Comment

無題

  • 権兵衛殿
  • 2014-03-02 15:34
  • edit
「他者を慮った対話をすべし」という論調にはユートピア的な欺瞞を感じます。
言葉、特にあなたの仰る「口語」のやり取りは「心に根ざした物」と一元的に語りうるものなのでしょうか?
無駄口の叩き合いから立て籠もり犯への説得まで、言葉のやり取りはその意義、互いの立場、対話の果てにある目的などによって変化してしかるべきです。
「通じ合えない」という問題意識を経験の欠如や自意識の肥大で一蹴していいものだとは思えません。それと同時に「通じ合う」状態が、お互いの認識を一致させた結果だと認めるほど、僕らは幼いわけではないと思います。
例え古代エジプト期からの悪習だとしても、老人は現在を嘆き続ける。その立場や意思を慮らずに真の理解はあり得るのでしょうか?
人間は言葉を使役することで世界に蔓延りました。ですが、古代ギリシャのデマゴーグを例に取らずとも言葉それ自体が人間を使役する事だって少なからずあります。
言葉とは人間存在そのものと言っても過言ではないと僕は考えます。ならば、時に口汚く罵り合うことも、打算に走って他者をだまくらかすことも、言葉のやり取りという行為の本質を歪めるものではありません。
「他者を慮る対話を」したければ、返答は不要です。赤べこの置物の真似をすれば事足ります。そうとわかっていても己の口を開かせるもの、言葉を紡ぎ出そうとするもの、それは己の培ってきた価値観であり、己の「心に根ざした」意志であるのでしょう。

長々と失礼しました。以上、「独自の世界にこもった」文学青年の意見でした。

Re:無題

  • あさかぜ(光野朝風) 〔管理人〕
  • 2014-03-03 21:09
仰るとおりですね。
ざっくりと一元化しすぎました。
仰るとおりの意味合いに即していけば、この記事は、あまりにも偏屈な内容になっていきます。
私はあなたと同じように文章を書いていて、ようやく去年から文章以外のこともやるようになりました。
声の活動なのですが、その時気がついたことがあります。
言葉を音で聞くと言うことです。
音を作りこむには、心を作りこまないといけない。
よく音を聞く。
その時どんなに小手先のものを作りこもうと、心を作りこまないと音が言葉になって出てこないのです。
それは言葉の意味にこだわっている文章家としては、まったく気がつかないことでした。
逆の意味においても表出してくる言葉が本心とは限らない。
そして、現場においては言葉よりも場を作りこんだ(作りこめる)やつが、言葉の主導権を握ることがよくあります。
当然理解というレベルでは我々は絶対に分かり合えない。
分かり合ったような気持ちになるのが厳密に言えば正しいのでしょう。
そこからも言えるように「慮る」ことも、幻想、理想、机上でしか存在しないようなものになることもよくわかるんです。
口語と言うよりも、口頭でのやり取りは、言葉の意味を追わない時があります。
それこそ無駄口から犯人の説得まで、目的すらもないものから、目的が明確になるものまで。
言葉で言う論述もありますから、ここで私が使った口語は酷く意味を限定しなければいけなくなるのですが、だいたいは相手の五感をあまり不快にさせないように気をつけるのではないでしょうか。
さもなければ、場の空気が壊れますよね。
誰に対しても無駄口叩けるわけじゃないし、いきなりフレンドリーにできるわけでもなく、その場に即したことを肌身で感じながらしゃべっていかないといけない雰囲気には、同年代と接していると気がつかないのですが、幅広い年齢層の中にいると常々感じることです。
五感を作りこむという意味では、よく私も言葉を暗示的に使ったりするので、言葉に使役されたり言葉を使役したりはよくわかります。
でも、誰もが、私たち文章を扱おうとするもののように、自由に言葉を扱えないということがよくわかります。
よく人の相談に乗ることがありましたが、私は相手の言っている言葉を話半分で聞くんです。
なぜなら、言葉の意味を厳密に辿ろうとすると、本心を見失うからなんです。
人の本心は、ほとんどの場合あらゆる言葉によって迷彩がかかっています。
そうそう本当の気持ちなんて出てきませんよ。
それは本人すらも自分の気持ちがわからない、ということが多々あるんです。
これは実際に人間を目の前にするとシグナルがある程度出るのですが、ネットでの相談だと一つ一つの言葉遣いから相手の感覚を探るしかなくなってきます。
やっぱりその人独自の言葉の使い方、心の偽り方っていうのがあります。
心の迷彩をかけている言葉の使い方。
それを言葉に使役されている、と考えるのもちょっと違うような気もしますから、言葉では断定はしませんけれども。
心の扉を開くために言葉という鍵がある、というのもありますが、相手よりわかってないと、なかなか鍵となる言葉、自分から出せません。
私だけではなく他の人にも幅広く話しかけてみると、もっと色々なことがわかってきます。
もちろんよろしければ、また話しかけてくださっても結構です。
鋭いご意見をお持ちですし、私はたいしたものではないので、色々とその知識を教えていただきたいと思っております。
今回のように勉強させていただきます。
私も長くなりましたが、コメントありがとうございます。
嬉しかったですよ。

色々とお強い気持ちがおありなようなので、ぜひ文章を書くこと、頑張ってください。

無題

  • 工藤 まりも
  • 2014-03-05 16:22
  • edit

ご多忙のさなか、お早い返信ありがとうございます。
匿名の投稿でもこのような精力的な返信を頂いたので、こちらとしても名乗らないわけにはいきません。工藤 まりもと言います。東京で大学生をしております。

あさかぜ様は声優の集うサロンを主催しているのですね。勝手ながらZeroKelvinを調べさせて頂きました。幅広い年齢層を取りまとめる実力と、それに見合った心労のほどを、傍観者の立場ですが推察いたします。
声優業には明るくないのであさかぜ様の仰りたい主旨の細部は想像で補うことしかできませんが、恐らくあさかぜ様にとっての「言葉」とは社会レベルのコミュニティにおいての「日常発話」を最重視していると愚考します。そして、それはアクターとして「リアリティをもって演じる」ためには不可欠の要素なのでしょう。
確かに「社会言語」の見地では他者への配慮なしに発言することはご法度です。コミュニティはコミュニケーションを糸に自己と他者を繋ぐものですから。それは先も申し上げた通り、人間の在り様となんら矛盾するものではありません。
ですが、私の論じたい点は言語活動の表層をなぞるようなものではなく、もっと根源的な「言葉」においての部分なのです。
あさかぜ様の指摘されたように、「口語」にはトークやらスピーチやらの様々な意味合いを含んでおります。ソシュールの提唱した言語論ではそれらの総称して「ラング」といいます。もっと明確にするなら、「ある限定的な集団において、意図を伝達可能にする言語の音声、語彙、文法の総体」が「ラング」なのです。ここには英語やドイツ語といった国際言語だけではなく、方言や業界用語やネットスラングなども含んでいますが、ここでは「ラング」を「ネイティブの話す日本語」に限定させておきます。
「ラング」の見地からは理解し合うこと、通じ合うことはさほど難しいものではありません。アナログな意思を「言葉」にすることでデジタル化し、聞き手に伝える。それはデータを「日本語」という形で圧縮(不可逆圧縮)し、聞き手はその圧縮ファイルを「日本語」解凍ソフトで解凍してデータに戻す。会話というのはその繰り返しと言っても過言ではありません。しかしあさかぜ様の言うように、そこには様々なノイズがつきまといます。まるで意味をなしてない符号のやり取りもあるでしょう(時候の挨拶などもそれに類するものです)。
そういった言語活動に宿命的な齟齬があるから対話における真の理解を困難にせしめている。しかし、いくらそこに言及しても議論は不毛になるばかりでしょう。その点においては「他者を慮った対話をすべし」という、ある種お決まりの約束事に止めるのが最適解になるでしょう。
あえてここで明らかにしておきたいのは、私の申し上げた「言語に使役される」という部分です。誤解されている様なので先に申し添えておきますが、これは言語活動に熟達した文章を書く人間に限らず、広く言語を駆使して社会に参加する人間全体の問題です。

突拍子もない問いかけになりますが、虹の色はいくつありますか?

あさかぜ様はこの問いに素直に「七色」と答えるでしょうか。或いは若輩者の引っ掛けを警戒して「無数にある」と言葉を濁してしまうでしょうか。
正解は「七色」です。ただし、この解答には「近代科学」の文化が流入した地域においてのみ、という補足が必要です。アフリカのある部族では虹の色を「五色」あるいは「二色」だという人もいます。
何故、このような違いが生まれるのでしょうか。別にアフリカの部族が色盲だというわけではありません。
答えは簡単です。二色だと言った彼らには「赤と青」しか言葉がなかったのです。
アナログな意思、と先ほど申し上げました。しかし、その思考は常に言語によって制約されています。極論で言ってしまえば「我々は名前のない存在を認識できない」のです。言語に使役されるとは、つまりそういった思考の制約のことなのです。
あさかぜ様が本稿でお書きになった「通じ合えない」という問題は全てこの制約に端を発しているといっても過言ではありません。そして、この制約を考えることは「発話」に密に携わる声優業にとって有意義になる気がします。

最後に、あさかぜ様は返信で「勉強させていただきました」と仰りましたね。私はその言葉が嫌いです。ここまで言葉を尽くしても通じ合えるのは、あさかぜ様が薄々感じていた部分に過ぎません。「勉強」という言葉が「わからないものをわかるようになる」という意味であるなら、一回り年下の言葉で明らかになるはずはないのです。あさかぜ様の培った価値観や人生訓はこんな若輩者の言葉に揺らいでしまうはずはないと、私は手前勝手ながら期待しております。
もしも本当に「勉強」したいとお思いなら、ソシュールの本を紐解いてみることをお勧めします。価値ある本は人を素直な受け皿にします。その方があさかぜ様の見聞を広める一助になるでしょう。

長々と失礼しました。幅広い年齢層の方たちと対話することを、あさかぜ様は暗に私に勧めておられるようですが、私は一介の大人や子供に期待も不満も持っておりません。言葉に対し真摯に向き合おうとする「あさかぜ様」個人にこそ持論を打ち明ける価値を感じたから拙いながらもこうして書いているわけです。どうか、ご自分を「一介の大人」と小さくまとめないでください。対話の本質は過去現在未来通じて「意思を持った個人と個人のやり取り」でなければならないはずてすから。
では、失礼します。

Re:無題

  • あさかぜ(光野朝風) 〔管理人〕
  • 2014-03-05 21:44
ソシュールのことについては円城さんの時にちらっと流し読みした程度で理解しているとは到底言えないので、そのことは一切省きながら以下返信いたしますね。
最初にとても理系的な考え方をするのだなと思いました。
確か円城さんも芥川賞受賞の時にプログラマーが読んで面白い小説を、と言っていたような気がします。
そして私にもプログラマーの知り合いがおりますが、「その考え方だといずれは不便になるね。自分は解を限定するのではなく、いくつも解があるように見せかける詐欺的手法だから」と話をしたのを思い出しましたよ。
そして私が人と接してきて思うのは、そんなに人の感性ってお馬鹿なのかな? というところなんです。
そのつもりはまったくないのはよくわかりますが、意味を組み立てすぎて、まさに五感を無視しているのではないのかな、という感想は抱くのです。
厳密に言えば個人も他人も認識というレベルまでには辿り付かないものの、やはりモヤモヤと感じているものが人間にはあって、表出され、交換しているものは言語で限定的だとしても、体の中に収められている情報は言語で認識するよりももっと多いのだろう、というのが実際人間と触れ合ってみての実感です。
そして私は認識のズレや齟齬を人間全体の問題だとはまったく思っていなくて、このようなまったく違うやり取り、お互いの感性の違い、そこに誤解や勘違いがあったとしても、創作の中で大事なのは違いから生まれる偶然だったりするので、逆に意思疎通のズレをとても楽しいと思う部分があります。
愚かな方向に大衆や個人が行き着いてしまう可能性も非常に高いのですが、このヒューマンエラーこそ、いいにしろ悪いにしろ可能性を生み出す大きな要因だとも考えています。
ここでの理想の状態は何なのでしょう。
言葉が一点の齟齬もなく正しく伝わることが人類にとっての理想でしょうか。
そこらへんはわかりませんが、もし正しく伝えられるとしたら、最後は限定された空間で限定的な意味で、そして限定された認識で、限定された行動に辿りつくのではないかなと考えたりします。
そこまでいくとSFの世界ですから、あまり話は膨らませられないのですがね。
言語に使役される部分は人間ありますが、人間は言語の奴隷ではありませんからね。
青を完全な青だと認識していなかったら、その方の使っている青は他人が受け取る青とは違うわけです。
そして突拍子もないことを思いついたりするのも人間だし、そうは言ったもののやっぱりなぁと心変わりするのも人間ですからね。
結構言語を使う人間そのものがちゃらんぽらんな場合って結構ありますし、私も結構やらかしております。
さて、虹の色は7色だとわかっても、色を塗れといわれると、忘れてしまったので塗れません。
その場合きっと私は適当に7色、こんなんだったろうなとやりだすに決まってる。
もうこんなことやっちゃう人間だと言葉の認識からズレまくってる。
私のような忘れっぽい例ではなくとも記憶の中で改変されていく意味もあるんですよ。
年月の中で生まれる記憶の改変は言葉に使役されているからでしょうか。
言葉がなければ脳の映像は維持できないものなのか、言葉から映像を維持しているから記憶の改変が起こるのか。
この辺になると言語から離れてきますので、よしておきます。
私は感性の違う人、考え方の違う人、自分の知らないものを知っている人から常々勉強させてもらってます。
知らないことばかりですからね。
年下だろうと年上だろうと賢い人は賢い。
自分でものを体得しようと実践の中で動いているからです。
そういう人は自分にはないものをたくさん持っている。
すばらしいことだと思います。
もちろん「理解した」という意味において「勉強した」がイコールなら私の使い方はあまりにも緩すぎて、そんなの勉強したうちにならんと仰るかもしれませんが、私にとってはこのような真摯な交流は身になりますし、そして大変緊張もいたしますから、よい刺激となります。
ソシュールとふられて、いつまでも「読んでません」じゃまりもさんに笑われてしまいますしね。
こんなのらりくらりな返信だと、なんとなく苛立つかなとは思いますが、人間が使う限り五感にとことん左右されて意味がぶれるというのが私の口から出る言葉に対しての今のところの実感です。
そして「他者を慮った」というレベルに至るまでには「いっぱい経験しなさい」って言葉に置き換えられるということも、いずれは気がつく人がいるのではないかなと思って、書いているのもあるんですよ。
逆に大人は「膝を落とせ」ということでもありますね。
自分がわからないものは、いつまでもわからないものですし、答えがわかったつもりでも体では理解していないものです。
それこそ、学ばないとね。
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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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