偶然検索ワードで引っかかったことだけれど、よい「題」ですので書こうと思います。
さて、人の使う「言葉」には、口語と文語がありまして、口語は感情的に、文語は極めて論述的に展開されます。
そして、言葉においての口語と文語は、一致を見せないのが当然なのですが、どうにも、この両者はいつまで経っても喧嘩をしあうようです。
自分もよく経験しました。
口語は口から出る心に根ざした言葉。
文語は文章上で展開される論述的なパズルのようなものです。
口から発せられる言葉は必ずしも、言葉の意味と一致するわけではありません。
大嫌いと言っても、それは大好きの裏返しであったり、そうだねその通りだよ、なんて言葉はその場をしのぐための口あわせだったりします。
それが文語と大きく違うところです。
対する文語は記述した言葉の意味を辞書の意味とほぼ一致させながら、かつ意味を積み重ねながら意味の結論を導いていくということをします。
一番親しんでいるものは「契約書」でしょうか。
あれは書いたものと読んでいるものが両者意味を一致させなければ成り立ちません。
論文、なんていうのもそうですね。
だから、ロジック(論法)にこだわる人間が、しばしば人の心を踏みにじるのもこの齟齬(違い)によるものです。
口語にこだわる人間は心にこだわり、文語にこだわる人間はロジックにこだわるのですから、両者一致するはずがないのです。
しばしば、宗教的にも政治的にも文語が口語を踏襲し、爆走し続けることは多々あります。
「言葉と言葉のやり取り」という検索ワードだったのですが、憶測ですが一番興味があるのは「何故通じ合えないのか」なんてところだと思うのです。
何故違いが生まれるかというと、だいたい「客観」と「主観」と「当事者」と「他者」における、各々の立場からの一方的なやり取りが原因になります。
当事者は自分の気持ちを知って欲しいことに対して、他者は客観的にこうしたほうがいい、なんて知ったようなことを色々と助言したがるものです。
話もよく聞かないままに、黙っていられずにベラベラと物を言ったり、聞いて欲しくないことまで聞いてしまって信用を失うものです。
そして、最も難しい言葉と言葉のやり取りは「相手の使っている言葉の意味を知る」ということです。
両者、知ろうとしなければどちらかに不満が残りますし、口語と文語のやり取りでもすれ違ってしまいます。
ここが非常に難しいところ。
外国にポーンと2ヶ月以上出てしまえば、日本語を使わなくなるので他民族多文化などの多くの価値観を肌身で感じますが、どうやら同じ言語でやり取りすると、そんな感覚も薄れてしまう傾向にあるようです。
私たちはどこかに「同調意識」を強く持とうとするのでしょうね。
それは「承認欲求」の変化した形なのだと考えています。
そんな「承認欲求」の中で、私たちは多くの場合、自分の持っている言葉の意味を変質させたり、自分自身の言葉の意味を押し付けたりします。
これは言葉における感覚というよりも、圧倒的な経験のなさや、他者感覚の欠如とも言えるでしょう。
経験や他者感覚の欠如は、現場に出て養うしかないので、いくら知識を集めたところで追いつかないところがある。
文学青年少女が独自の世界にこもってしまうのと同じ状態になってしまう。
どこの世界にも知識に凝り固まってしまうあまり、現実世界の微妙な意味を見失う人は多くいる。
言葉を人間が扱う限り、変質し続け、意味もまた微妙に変化し続ける。
10年時代が違えば感覚も得ている環境も育ってきた場所も違うのだから、私たちはもっと他者の感覚に注視しなければいけないのに、古今東西「最近の若い者は」と「大人ってヤツは」を繰り返している有様だ。
なにせ古代エジプトにも「最近の若い者は」というようなものが残っているというのだから驚きだ。
違っている、理解しあえないかもしれない、だからと言って会話をなくすのは間違っている。
いつだって私たちの間の溝を埋めるのは対話でしかないのだから。
そして対話とは、感覚が違うことを前提に、そして立場を尊重しながら交わす言葉のことである。
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