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あさかぜさんは見た

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12/07

Wed

2016

「声は響き鯉は泳ぐ」

一縷の銀星が夜空を飾っていた真下では、小さな池に黄色や赤のカエデの葉が散りゆき、藻のついた池底の石をひらりかわしながら薄黄金の鯉が泳いでいます。
 池を色づける紅葉は星々のように輝いて、淡い空よりもハッキリと、足跡をつけ、誰かの残した吐息の跡や、想いの痕を身に宿しながら水面へ、ポツリ、ポツリ。
 葉が落ちるとともに波紋は咲いて、隣に近づいてきた赤い葉を波で遠ざけたり、遠くに行った黄色の葉を近づけたりしています。
 やがて風が吹いてくるくると葉を回転させます。想い出を巡らせるように。
 鯉は泳いでいます。泳いで、泳いで、ざわめきつつある水面の間近で、夜空のはるか下で息を潜ませることなく、伸びやかに踊っていきます。
 月の雫が落ちた時、水面には少年がいました。
 水面に映った月を本物と見間違えて、時折歪む自らの顔から目を背けたりしながら、いつまでも水面を覗き込んでいました。
 まるで初めて自分の顔を見たかのように、いつまでも確かめているのです。
 少年の姿は池の傍らにいた老人の目に、しっかりと映っていました。とても美しく、水の上に膝を付いて、沈むことなく、不思議そうに、映った世界を見つめているのです。
 少年は風や落ちてくる葉の刺激や、鯉が時折水面へ息を吸いに来る時、自分の姿が酷く歪んでしまうことに落ち込んでいるようでした。
 わずかな波もない時は、とても嬉しそうなのに。
 老人は言葉をかけようとはしませんでした。
 言葉よりも、流れる息遣いの中に少年の心を見ようとしたのです。
 見守るように少女が少年に寄り添っていました。
 少年は少女のことなど心にもとめず、水面を覗き込んでいます。
 鯉のいたずらで、小さな黄色の葉がくるりと回ると、夜空の星のひとつもくるりと回りました。
 水面や少年ばかり見ていてはわからなかったことですけれど、老人は遠くの空も近くの池も全部目に入るように見ていたのです。
 くるりと回った波紋が周囲の葉を躍らせると、今度は星々が踊りだします。
 たまりかねたのか、いつの間にか水面の上で映りこんだ星や回る紅葉に合わせて少年も小さなステップを踊っていました。
 悲しいことは楽しいことで忘れるのが一番です。
 少女も少年に合わせて楽しく踊りだします。踊りだした少女にようやく少年は気がつきます。
 楽しいことを分かち合うと、お互いの存在がとても強い絆で結ばれているように感じるからです。
 少年は水の下で見上げている鯉のこともちゃんと思いやって、小さな手で掬い上げ空へ手を広げながら投げ入れました。
 すると鯉は地上と夜空を行き来する、光の筋を作りながら悠々と泳ぎだします。
 鯉は水面に浮かんでいる木々の葉のことを思いやり、勢いよく池に飛び込んでは水を空に散らし、葉を夜空へ近づけようとします。
 ふわりと浮いた赤や黄色の葉は星の色と重なりキラリ、キラリと深い色を重ね合わせていきます。
 一瞬、風が強く吹き荒れ、草木を怒ったように鳴り響かせます。
 少年は両拳に力を入れ目を険しく尖らさせ立ち尽くし、少女は脅えてうずくまって震えだします。
「怖くない。何も怖くない。大丈夫だ」
 老人は初めて声をあげました。とても力強い声で少年少女に伝えたのです。
 恐怖や緊張で誰かが体をこわばらせている時にこそ、心を救う声をあげるべきだと老人は思っていたからです。
 少年と少女は初めて聞こえた声にとても警戒しました。
 鯉は落とされた石のように素早く水の中にドボンと音を立てて潜ってしまいました。
「お前たちのことは見ておったよ。怖いことがあったら声をあげるんだよ。きちんと声を出すんだよ」
「はい」
 二人とも返事をしましたが、その返事は見知らぬ老人への怖さであることを老人は知っていました。
「お前には食べ物があるよ。これだ」
 鯉を見ながら老人がポケットから出したものは銀色の飴玉でした。
 飴玉が池に投げ込まれると池はうっすらと光りだします。
 鯉は飴玉をすぐには食べようとしませんでしたが、溶けて入ってくる飴玉の美味しさが隅々まで広がるようで、小さくなりかけた飴玉を飲み込みました。
 すると鯉は水面と同じように光りだし、黄金がよりハッキリとしてきました。
 老人は二人と鯉の姿を見ながら幸せそうに笑っています。
「大丈夫。大丈夫」
 老人の優しい声は冷たく固まっていきそうな空間を溶かし始めます。
 少年と少女は声をあげた老人を初めて意識し、鯉は初めて警戒心を解きました。
 老人は落ちてきそうな薄紅の葉を手の平に乗せ、大切そうに撫でました。
 すると葉は光りだし、夜空を目指し元気よく飛びだしたのです。
 老人の姿を見て少年は葉の近くに寄り添うようにし、少女は一つ一つを大事に抱きしめていきました。
 すると老人が撫でたのと同じく光り出して空を目指したのです。
 鯉は池に飛び込んでは尾びれを器用に使って水を銀色の滝にして星空に浮かぶ月へと落としていきます。
 天空の裂け目があるかのように、まっしぐらに銀の流れは目指していくのです。
 銀色の滝から逃れた葉たちは星々になろうと散っていきます。
 光を煌々と出し続け、まるで自分がここにいるよと声を上げているようでもありました。
 少年は夜空を見上げて満足そうに拳を突き上げています。
 少女は夜空を見上げて抱いていくかのように両手を広げています。
 鯉は星空と薄暗かった池を結び付け悠々と泳いでいます。
 いずれ嵐の夜が来ようとも、分厚い雲が光をいつまでも遮ったとしても、老人の声と行動は若い命を泳げるようにし、泳いだ若い命も老人を真似たことが、老人一人ではできなかった光の束を作り出しました。
 今夜空に浮かぶものは、遠くまでいってくるりと回る、あの小さかった紅葉たちです。
 鯉は池に戻り映りこんだ月の輪郭をなぞるように泳ぐと、涙が流れたように月は光の尾を引きました。
 水面をなぞった数々の姿を満足そうに眺めていた老人は「ありがとう」と感謝しました。
 皆が言葉を聞いて「ありがとう」の使い方がわかったようで、真似をして「ありがとう」と言いあいました。
 伝えていくこと、伝えること。
 ちょっとしたことから光りが繋がっていく事、繋げていくこと。
 呼びかけ、応え、呼び合って、確かめ合うこと。
「怖くない。何も怖くない。大丈夫だよ」
 勇気ある少年と少女に、光る空の下でもう一度声をかけました。
 すると二人とも優しい声で「はい」と老人に微笑み返しました。
 ずっと潜んでいたのか、いつの間にか周囲には次々と少年たち、少女たちが池の上に立っています。きっと、怖くて出てこれなかったのでしょう。
 先頭に立って何かをし始めることは、いつだって怖いもので、勇気あるものが道を切り開いていくものなのです。
 そして勇気は後に続くものに希望を与えます。
 老人は沢山増えた少年少女たちを眺めながら何度も頷き微笑みました。
 また色づいた葉が池に落ちて波紋を広げ波立たせました。
 現れた子たちの中には波で歪む自分の顔に戸惑うことなく、池の光の届きそうもないところを覗き込んで「怖くないよ。大丈夫だよ」と声をかけています。
 老人は鯉にお願いをしました。
「どうかあの子たちの気高い心のお手伝いをして欲しい。そして潜んでいる子がいたら、その子のことを教えて欲しい」と。
 鯉は喜んで池の底の深い闇の奥へと消えていきました。
 池の光りは徐々に失われていき、小さな子たちは星を目指して空へと向かい始めます。自分で見つけた数々の道しるべとなる星の姿を見つめながら。
 星を目指さず池の傍で待っている子たちも少しだけいました。
 遅れて出てくる子たちを心配して待っているのです。
 この世界に、たった一人ぼっちでいると思わないで欲しいと思ってのことでした。
 老人は池を離れる準備をします。
 近い日、とある夜に、いい子にしている子どもを探し、希望を贈り物とするために仕事が山積みになっているからでした。
 老人は池と空を見渡しながら言いました。
「贈り物をありがとう」
 命が生まれるという希望と、勇気を持って生きるという希望は老人にとって最高の贈り物になるからです。
 老人の言葉は小さな光りとなって池の奥へと落ちていき、池の紅葉をくるりとまわし、星を輝かせました。
 もう少しで訪れる、雪降る夜へ、時は進んでいくようです。

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09/27

Tue

2016

「空気」の中へ

「まいったな」と松谷はぼやいた。
 指先が溶けているなと手を光りにかざしていたら、どうやら先に溶けていたのは心の方だった。
 チョコレートが溶けたように指先が垂れ、それは途中で水蒸気のように消えていくのだが、問題は体の肝臓の辺りから心臓にかけてまでヘドロのような色で煙を放っていることだった。
「いつからだ。これ」
 気がついた時には、相当抉られていた。それも仕事を辞め、ようやく自分のことを落ち着いて考えられるようになってからだった。
 背中まで貫通してないが、前半分くらいは腐り落ちたかのように、ない。
 絶望や衝撃を受けるよりも、「どうなっちまうんだ。俺死ぬのか。まだこんなになっても生きられるのか」と望み薄く自らの状態を捉えていた。
 痛みがない。だが、死んでいっているのが、よくわかる。
 酒の飲みすぎだろうか。それとも日頃のストレスや睡眠不足や疲れのせいなのか。
 仕事のしすぎが原因だろうとは思った。
「こんな死に方もあんのか」
 何せ、当たり前だが一度も死んだことがない。
 友達が交通事故で死んだことはあったし、祖父母の葬式も二回出たが、どうにも自分が死ぬとなると「死の感覚」というやつが、さっぱりわからない。
 大げさに考えているだけかもしれないし、むしろ楽観的過ぎるのかもしれないが、その基準さえわからない。
 医者に見せたらハッキリと診断され、余命とか、あと何年後に生き残るとか治るなどの確立やらを言ってくれて、それで自分の中で命の長さを測れるのかもしれないが、そもそも若くして同級生の葬式にさえ出たのだから、命を測る定規などすべてまやかしであるのを理解していた。
 人は寿命通りにはいかないのだ。
 むしろ「寿命」という考え方でさえ怪しいものだ。死んだ時が「寿命」なはずなのに。
「せめて苦しまずに死ねればいいのだが」
 思い通りにはいかないことがわかっていながら、眠るように死ぬことを皆夢見ていることは、年老いた人たちの話を聞いてわかっていたし、今松谷もその気持ちがようやく深く理解できた。
 何も考えずに、ゆっくりと死を迎えるためにはどうすればいいのか。
 今まで言われたまま、奴隷のように仕事をしてきたが、いざ解放され、体が完全ではないことがわかると、前のように一日中仕事をしていたい気分になってくる。
 自分のことを深く考えなくてもいいように。
――ヒラ、ヒラ、ヒラ、ヒラ……
 何かが松谷の目の前を舞い落ちた。
 落ちた場所を見ると何もない。
 だが地面を探していると、落ちていくものが途中で溶けて消えているのがわかった。
 その落ちてくるものが何なのかは理解できなかったが、手をかざすと指先から溶けていっているものとも似ている気がした。つまりは、自分以外の誰かの溶けた何かなのかもしれないと松谷は感じた。
 膝を突いたまま上を見上げる。
 枯れ落ちたものが美しい秋色を放って松谷の元へと全て落ちていっているかのような感覚に陥った。
――俺もまた、いつかは自然へと返って行くのだ。
 松谷の心の中に浮かび流れた言葉だった。
 だが、無意識から戻ってくると、もう一つの考えが浮かんだ。
――俺はこのまま死ぬことを望んでいるのだろうか。
 馬鹿な考えだと思った。
 楽に死ねられればいいと思う反面、苦しむくらいなら少し足掻いた方がいいかもしれないとも思った。
 それもこれも、欠けてしまった体をどうやって修復していいのか、まったくわからないからに他ならなかった。
――俺以外にも、体の治し方を知らないやつがいるのかもしれないな。
 もう一度指先を見てみた。
 小指の第二関節と薬指の第一関節くらいまでは左右ともハッキリ欠けている。
 その右手で胸の辺りをさすると、ぬるっとした感触がしているが、手を見るとすぐに黒い染みは蒸発している。
 本当にここだけなのだろうか。下っ腹の辺りも少しぬめっている。
 ここも?
 もしや!
 一度疑念が浮かぶと、もう心が崩れていく。
――俺の顔はどうなっているのか。
 触った感じは崩れていない。だが、鏡がない。自分が見えない。確認できるものが何もないと、全てが疑心暗鬼になる。積乱雲のように暗い感情が盛り上がってくる。
――どうしたらいい。どうしたらいい。どうなっていくんだ。どうすればいい。
 生きたいとも死にたいともわからない、どちらつかずの混乱した思考に陥る。
 先ほどまで落ち着いていたはずの松谷が、顔の崩れ具合を考えただけで一気におかしくなっていく。
 命に比べれば顔のことなどどうでもいいではないかとすら他者は考えるかもしれないが、松谷にとって今の状況は「自分が何者であるかの証拠がこの世から消える」ことへの絶望感だった。
――足がなくなろうと、手がなくなろうと、まだ自分でいられる。だが、顔がなくなったら自らと外を結びつけるものが何一つなくなるではないか!
 狂ったように松谷は叫んだ。
「俺の顔はどうなってる! ちゃんとしているのか! 誰か! 俺の声が聞こえるなら答えてくれ! 誰かいないのか! 俺の顔は! 俺の顔はちゃんと人の形をしているのか!」
 もはや胸の欠損など松谷にとってはどうでもよかった。
 叫びのかいがあってか、舞い落ち消えていくものの中から声がした。
 それこそ、消えるように聞こえてくる声だった。
「心配いらないよ。みんなと一緒だよ」
――みんなと一緒。
――みんなと一緒。
 松谷は安堵と共に深い息を吐いた。
「大丈夫。俺は大丈夫なんだ。はっ、ハハハハハハハ……」
 胸の奥から笑った松谷は、安堵したのか涙すら流していた。
 自分が始めに何を考えていたのかすら思い出せないほどに笑っていた。他者への思いやりすらも、安堵で消え去ったほどだ。その声が誰のものなのか考える心は既に抉り取られていた。
 依然、黒い煙を放って胸は欠けていっているが、松谷は自分の意志で何かを考えようとして何もわからないまま人生を生きるよりも、何かに従った方が生や死を理解できると考え、媚びてでも、もう一度奴隷のような人生に戻ることを選択したのだった。治す術も見つけられずに。
 自由の選択肢は松谷にとって失うことと同意義だったのだ。

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03/12

Sat

2016

人は汚泥の中でもがくのだろうか、と神村は思っていた。
 今時珍しくペンと原稿用紙で小説を書き、昔なら三文銭と言えるようなわずかな収入を得ながら生き延びていた。もはや風貌は浮浪者とさして変わりはない。
 神村清語というペンネームだが、これは本名の村上清志をもじったもので、清き言葉が神より降りる場所、という意味も込めていた。
 たいそうな名前だが作品は売れず、売れないからと言って面白くないわけではないが、特に読者を選び、人生経験を重ねた年配にようやく理解できるようなことを書いているため、とっつきにくいという欠点があった。
 元々彼は祖父に懐き、そのことが原因で両親から妬みを受け、さらに祖父に懐いていくという悪循環を繰り返していた思春期を過ごしたものだから、祖父の話から多くのことを得た。
 どこか四十手前にしても頭は硬く、古い時代の思想を、そのまま人生訓として映し出していた。
 会社経営をしていた祖父の取り巻きは良くも悪くも人間の業をよく示していた。金目当てに来る者がほとんどで、祖父の真の友達はというと、貧乏時代に一緒に過ごした不遇の芸術家ただ一人だった。
 その芸術家は絵を描いていたが、ほとんど誰にも見せず、祖父にさえ見せたことは記憶のあるうちでは二度しかなく、その時買い取った二枚だけが家に飾ってあった。
 芸術家は祖父よりも早く死に、数多くの遺作があったが、祖父が死に気がついた時には住んでいる場所は片付けられていて身寄りのなかった芸術家のすべてのものはゴミとして処理され、祖父が悔し涙を流していたのを我が事のように神村は覚えていた。
 あの芸術家は、実力があったのだろうか。
 家出する時に持ち出した一枚の絵を今でも時折押入れの中から出しては眺める。
 湖畔に浮かぶ月の絵だが、何処か歪んでいる。その歪み具合が水面に映し出された月に吸い込まれるように描かれているのだと、泥酔した時にようやく気がついたが、このことに気がつくのに絵を最初に見た時から数えて実に二十年近くもかかった。ただの絵が動いて見えるのだった。
 気がついてからというもの、才能の深さに畏怖したが、芸術家の死から十年近くも経っていたから存命中は不遇とは言うが、食うのにも困るほどの有様だったのだった。
 そして神村も今、同じような貧乏生活をしている。
 何故、作家を目指したのか。
 理由はただ一つだった。
 何をしても役に立たないから。
 出来ないことはなかった。ただ習得に時間がかかり、自分のペースを守っているため、周囲の速さについていけないのだ。
 そのような人間は利益活動をする会社という組織においてはお荷物になる。
 だから、会社では生きられない。会社で生きられなければ社会で生きられない。綺麗ごとを言っても図式はこうなっているのだから、神村自身の力ではどうにも抗いようがなかったのだ。
 弾き出され弾き出されて辿り着いたところが、ここだけだった、という話だった。
 ただ、一つだけ恵まれていたのは祖父の影響もあって芸術方面への興味はあった、ということだった。レコードはクラシックのみであったし、絵画にいたっては日本画も西洋画も両方古今東西、写真集も当時は揃っていたし、今は有名となっている写真家の写真もあったり、勲章までもらっている陶芸家の作品もあったりで、恵まれすぎているほどの環境はあった。
 しかし神村には才能がなかった。
 つまりは自分の知識や経験にこだわるあまり、今起こっていることや、見えていることを真正面から捉えず、過去と対比するばかりで進歩がない。
 当然回顧主義と思われるような作品が多く、かつその多くに「喪失」的な観念が強く出ていたため、作風はじめじめと女々しいような印象を受けた。
 それでも神がこの男を見捨てなかったのは、時折「才気」と思われるような作品を発表した。
 社会経験も乏しく落ちこぼれの神村が感情のありのままに叩き出した作品数品。百を超える作品を書いてはいるが、打率としては一割以下だろう。だが、凄みがあった。等身大の人間の偽らぬ生々しさがあり、かつ文章も簡潔であった。
 その時の環境は決まっていた。ほろ酔いで、部屋は薄暗く、手元のスタンドランプのみで、六時間以上外には出ておらず、誰ともパソコンや携帯電話を通じて会話をしていない時だった。その数品の作品のみ原稿用紙の升目から文字が大胆にはみ出ているというのも特徴だった。
 酔いすぎてもいけない。そこで何か食べたくなるが何も食べない方がよく、明るいばかりに様々な物が目に入ってくるのもいけない。外の影響を受けない集中できる環境であることも重要である、ということだ。条件が揃った時のみ結晶のような作品ができた。
 神村自身はそのことには気がついておらず、バカらしくも生真面目に毎日文章を書いている。
 何がどう受けているのか、神村自身に見分ける才はなかった。
 作品のいくつかをネットで発表していた。誰もがやっているブログや自作小説発表サイトで出してはいたが、自分で印刷所に持っていって、紙の本にしたものを決まったお客に買ってもらうのが神村の収入源ではあったが、ある日ネットで作品発表ごとにコメントをくれる存在に気がついた。
 あまり機械関係の扱いは得意ではなかったが、コメントをしてくれる人の存在があることによって覚えることも多くなっていった。
 返信と、それへの返信。繰り返すうちに親しくなり、直接やり取りするようになるまで半年もかからなかった。
 神村の古臭い思想にも同調してくれ、神村自身の作品にも大変思い入れがあるようで、自身が忘れ去った作品にまで熱く語ってくれるため、嬉しさよりも逆に申し訳なさの方が大きくなるほどだった。
 これほどまでに傾倒してくれる人間が現れようとは思ってもいなかったため、神村の熱弁はより熱くなってくるが、相手はそれでも熱心に食いついてきた。
 人の心とは妙なもので、いつの間にか心の中に大いに受け入れた存在を好きになってしまうものなのだろう。
 両者が胸の高鳴りを告白したのは自然の成り行きだった。
 聞くと相手は人妻だと言う。
 特殊な思想を持ち、社会からはみ出した神村にとって、ほとんど親しく付き合う異性は、その人妻が始めてであった。
 会いたいという思いは積み重なっていったが、神村には金がない。
 近場ならよかったが、これもネットの特性。案の定遠方の人間だった。
 自分がいかなる人間か、人妻にはことあるごとに告白し、後で嫌われるくらいなら今すぐにでも正直に告白した方がいいだろう、という思いで包み隠さず言ったが、それでも好いてくれたことに驚きを隠せないでいた。
 ふと、芸術家のことが頭に浮かぶ。
 このまま親しくなったところでどうするというのだ。不遇のまま死んだ芸術家のことを考えると自分はもっと酷いではないか。それなのに何故、この人と男女の気持ちを覚え惹かれていくのだ。それよりも以前に、俺には何一つ責任を取ることができない。
 両親から未だに嫌われ、愛を知らなかっただけに人妻の想いには一つ一つ打たれ染みていくようだった。
 母性に飢えていたのかもしれない。
 結局人妻の支援を受けて会いに行くことになった。会いに来たとしても人妻の金を使うことにはなったが、神村にとっては初めての女となった。
 かといって女に溺れるようなことはなかったのだが、神村自身の持論をぶつける場が人妻になったので、増長するばかりとなっていき、長年抱いていた両親への鬱憤も人妻にぶつけることになっていった。
 生まれて初めて自分勝手にできるように感じた神村だったが、それでも真剣に人妻は話を聞いていた。
 当然持論を固めてしまえば未来を見ることはない。未来を見ている錯覚を抱いているのみで今を無視していく。
 その癖は人妻との関係にも影を落とした。
 関係がばれることがなかったのは、人妻の旦那との関係があまりよくなく、離婚も秒読みであったことだった。
 恐らく今から思えば彼女は自分との結婚を望んでいたのであろう、と神村はしみじみ思い出す。
 破綻の原因となったのは神村が説教がましく指示が強くなっていったことと、理想が大きくなれば現実での苦労を無視して正論じみたことだけ押し付ける。そしてもう一つは神村自身が増長の果てに自らの能力を高く見積もりすぎ、浮ついた人間の関係性や金銭関係を取り扱ったことによった。
 二年ほど関係は続いたが、崩れる間も半年と待たずおかしくなっていった。
 最後には恨み節を吐き掛け、互いにののしるまでにはいかないまでも、きつい言葉を投げかけあっていた。
 何がいけなかったのか。神村自身は未だに気がつくことがない。
 ただ、人妻も神村の「過去の一部」となったため、根強く心の中に息づいているということだけだった。書く理由が神村自身にたった一つ強く生まれたため、そのたった一つにしがみ続けている。生きる理由だと言わんとばかりに。
 神村の作品は売れない。その理由は彼が常に過去に生きているからに他ならなかった。
 その作品群が将来日の目を見るかは神村自身も知るよしもない。
 芸術家の絵を時折出すが、一分くらい見た後に目を閉じると瞳の奥底で渦を巻くようになった。
 芸術家の絵の真の姿が、目を瞑った時によく見えるのは皮肉なことだと思い、残り少ない大きなペットボトルに入った安酒に神村は手を伸ばした。
 コップ半分も体の中に入ったところで、神村はいつも通り泥に埋もれていく。

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12/25

Fri

2015

「夢のまにまに、流星。」

「さあ、お休みの時間ですよ」
「早く寝なさい。寝ないと大きくなれませんよ」
「お化けの出る時間になるから、子供は早く寝ないといけないんですよ」
 今日の新しい眠りに入るために、母親は、父親は、どのように子供に声をかけるのでしょう。
 子供を寝かしつけたあと、少しだけ二人の時間を楽しんで、そして眠りについていくのでしょう。
 新しい眠りに入った子供たちは、一体どんな夢を見るのでしょう。

 冬至を迎えて少しずつ夜の時間が薄らいでいく日の重なりの三日後、世ではサンタクロースが来ると言われています。
 夢を砕かれ現実を知らされた子達。夢を育まれいつまでも想像の翼を広げられる子達。
 同じ地球の上に生きて、星空の下でそれぞれの想いを抱き、それぞれの夢を見て、飛び立ったり、もしかしたら地を這うような子もいるのかもしれません。
 小さな夢は大人の指先の力だけで潰れてしまうもの。
 大きな夢は沢山の人たちの希望の結晶でもあるのです。

 遠い地に蝶が羽を羽ばたかせ、世界の反対側で嵐が起こる。
 こんな話を一部の大人たちは信じています。
 この世界はわからないことばかり。
 星の輝き一つにしても、大人たちが一生をかけて悩みつくし、そして答えの出ないまま死んでいったりするのです。
 星一つに人生ひとつ。それでもわからないまま、一生を、生涯をかけた熱心さに釣りあうかどうかもわからずに瞳を閉じて遠い世界へ行くことも珍しいことではないのです。

 さあ、地球の反対側は朝です。
 光溢れる世界で世にも美しい蝶が朝露をまとった緑の葉の隣で羽を広げています。
 その羽ばたきの一振りは、きっとこの世界へと静かに声を届けていることでしょう。
 光を受けて羽から落ちる鱗粉が天使の微笑から弾けたきらめきのようにも見えます。

 夜は始まったばかりのこの場所で、子供たちは次々と目を閉じていきます。
 地球の反対側の美しい蝶の羽ばたきは今この夜空の中に一筋の流星を呼び寄せようとしています。
 小さな部屋で眠る小さな女の子マリは次の日にプレゼントが枕元に置かれていることを夢見ていますけれど、マリ自身はこれから眠りの中の願いが流れ星になることは知らないのです。
「さあ、マリちゃん。そろそろ眠る時間ですよ。ちゃんと眠れますね」
 マリは無垢で素直な返事を母親へと届け、ゆっくりと眠りにつきました。
 眠りについたマリのはるか上空。地球よりも、もっともっと遠い、光の速さで何年もかかるところに、あの夜空の星々の光はあります。
 美しく見える輝きにも、既に生と死が入り混じっています。もうその光が見えている頃には、星そのものは滅んでいるかもしれないのです。まるで、大人たちの必死の夢への努力のように。

 マリの夢を覗いて見ましょう。
 夜十時に眠るといっても、マリにとっては少しだけ遅い時間。
 明日はサンタクロースが来るのだと期待して興奮しない方がおかしいでしょう?
 ですから少しだけ眠る時間が遅くなってしまったのです。
 かわいらしいと思いますか? それともいつか覚めてしまう夢だと思いますか?
 さて、その問いは置いておいて、十二時前のマリの夢はどうやら、かの有名なガラスの靴のお話が混じっているようです。
 でも少しだけ違うのは、王子様に会うよりも前に、ガラスの靴を履きながら、まるで水溜りを長靴で踏むかのように星を踏んではしぶきを散らし、星と星の間をうさぎのようにぴょんっと飛んでいるのです。
 本当に楽しそうに、前に踏みしめた星のきらめきの色は何色だったかと、後ろを何度も何度も振り向きながら、次々と訪れる光の美しさに見惚れて、マリも自分がお姫様になったかのような気持ちになっているのです。
 もしかしたら、星のすべてがマリにとっての王子様なのかもしれませんね。

 まるで星屑のトランポリン。跳ねては飛んで、星は飛び散り漂い集ってくる。身にまとう光はドレスとなって、憧れの人の下へ。そんな風に、好きな人のことを思い浮かべていました。
 ぱっと目覚めてマリは夜のまどろみの中で、目覚めてしまった現実を知りゆくよりも、今は夢の中にいたのだからと、ふたたび先ほどの星の景色を思い浮かべながら目を閉じます。その時には好きな人より楽しいこと。マリの一番の楽しみは空を旅することになっていました。
 月の光が雫となって地球に落ちて水の波紋のように広がります。目覚めてしまいそうな刺激の霧を小さな手で一生懸命掻き分けて、非力なマリは知らない世界の奥へ奥へと行くのです。もっともっと楽しい場所へと。
 ゆっくりと時をかけて回る地球の上で、少女は誰も知らない美しい夢を抱いているのです。
 ドレスはほころんでいないかな。ガラスの靴は欠けていないかな。ちゃんと夢の主人公でいられているのかな。身だしなみの確認は怠りません。
 雲が月や星の光を一瞬遮った時、あたりは真っ暗になってしまいました。
 道すらも見えなくなり、不安を覚えて、この闇は二度と晴れないのではないかとすら思うほどでした。
 道が見えなくなることは、一瞬であろうと、それだけ長く感じるものです。
 その時マリは一人で歩いていることに気がつきました。
 雲間からようやく光が差し込んできても、一度寂しさを抱いてしまうと、誰かのぬくもりが隣にないことが不自然なことのように思えてしまうのです。
 誰しも昔は抱かれて育ってきたのですから。
 マリは急に地に足をつけたくなりました。
 高い高い大空から妖精のようにおりていったマリの目の前には大海原。
 月が心なしか青く見え、青が白い砂浜を染めて、波は静かに深いエメラルド。
 波打ち際で沢山の人が祈っていることに気がついたマリは人々の祈りの先に瞳をやると、小さな蛍のような光が無数に集まってオーロラを作っていました。
 輝く星を下から包むかのような、赤子を優しく抱きかかえる慈愛溢れる母の手のような、懐かしくも美しく、胸に響くたおやかな色をなびかせながら、空のレースは海にうっすらと色を映して残して。
「さようなら」
 男の子の声に胸をぎゅっと掴まれて振り向きます。
「どうしてさようならなの?」
 マリは目の前の男の子の名前を思い出せません。大事だったような、ずっと傍にいたような、それなのに名前を思い出せなくて悲しい気持ちになります。
「さようならは、始まりの合図だよ」
「わかんないよ。お別れは悲しいよ」
「でも、昨日には戻れないからね。だからさよならも戻れない」
 そう言い残すと男の子は小さな光に変わって海の上を静かに飛んでいきます。
 彼の光が先頭になり、沢山の祈っていた人たちも小さな光になり、海の上に一筋の道を作って行きます。
 マリは、とても大切にしていたものを失った気分になってうずくまって泣いていました。
「どうしたの? 星のドレスをまとったお嬢さん」
 肩を叩かれ声のする方へと顔を向けると、そこには青年がいました。先ほどの男の子に似ているようですが、とても大人びて見えました。でもマリの父親には及びません。
「歩き出そう。もう道は出来ている」
「どこにもないよ。道なんて」
 マリには光が道には見えませんでした。うっすらとぼんやり浮かぶ無数の光の存在は道にすら見えなかったのです。
「歩いてご覧よ。海の上を歩くんだ」
「歩けないよ。どこに行くかもわからないし迷っちゃうから嫌」
「何処へでも行けるんだよ。君がちゃんと目を凝らしていれば、見え続けるんだ。それに、歩かないとドレスが消えて裸になってしまうよ」
「それだけは嫌!」
 おやおや、涙もすっきりと拭い取り、すくっと立ち上がったマリは砂埃が舞いそうなほどの力強さで歩き出します。裸になるのがとても嫌だったのでしょう。
「誰だか知らないけど、あなたも来なさい!」
 マリは脅しつけるような声で言い放ちます。
 一緒じゃないと意味がない。一緒じゃないと楽しくない。道を歩くのはみんなとがいい。それでも、誰かの後を付いて行くのではなく、自分の道をしっかりと。
 海に足をつけると冬の塩水が凍りつかせるくらいの冷たさで染み込んできます。
(裸になるくらいなら死んだ方がマシ!)
 太股まで浸かり、意味もわからず歩いていき、冷たい水がお腹まで浸ってきて凍えて来た時、声をかけてくれた青年がちゃんと着いてきているか後ろを振り向こうかとも思いましたが、もう余裕がありませんでした。
 凍えは酷く、ついに胸のあたりまで浸かるほど深い場所へと来たところで体がだんだん動かなくなってきたのです。
 マリは騙されたとも思いませんでした。女の子には秘密にしておきたいことが沢山あるのですから。
 ふっと意識が遠くなり、顔も海に沈んでしまった瞬間マリの体は急にあたたかくなりました。
 見上げると同じ景色があります。ただ、前と違うのは海の上に浮いていることぐらいでしたが、もう冷たさも一切感じなくなっていました。
「おめでとう。生まれ変わったんだよ」
 青年がちゃんと着いてきていたのです。
「生まれ変わり? 何も変わってないよ?」
「そんなものだよ」
 青年はあっけらかんと言いました。
 青年の意味のわからぬ言葉よりも、マリは目の前の海の水面を行き来している無数の光に気がつきました。
「あれは何?」
「産まれゆくもの、死にゆくもの、世界を変えたもの、魂の数々と祈り」
 魂。その言葉だけはマリの胸の中に鐘を打つかのように響きました。そして目を凝らして、しばらく見つめていると輝くものと、そうではないものがあり、星のように輝くものは道を形作り続いているのがわかりました。
「あ、道が見える」
「見えたのかい? じゃあ歩けるね」
 マリは恐る恐る足を踏み出してみました。すると楽しい気持ちで星と星の間を飛んでいた時のように足元が美しい光を放ってよりドレスを際立たせました。
「応援してくれてるみたいだね。さあ、どんどん歩こう」
 青年の声に後押しされて、勇気を出して飛んでみます。ありがとう、と心の中で感謝の言葉を沢山つぶやきながら、うさぎのようにぴょんっぴょんっと。右足、左足、ぴょんっ、ぴょんっ。
 光はマリの近くへどんどん寄ってきます。一つ一つを踏みしめ光をまとい、薄い氷の膜のようなオーロラを打ち破って星空へとマリは飛んで行き、月がとても大きく見えてきた頃、胸がいっぱいになって涙が止まらなくなりました。
 ドレスは一粒一粒がキラキラしていました。優しい光ばかりで、皆がくれた希望の光のようで、悲しみを超えた強さばかりが集まって、マリの落ちた感動の涙は皆の魂を癒すことになりました。マリを取り囲んでいた光たちも喜んでいるようです。
 この時が止まってしまえばいいとすら思いました。けれども、いつかはこの光も皆に返さなければいけないからとも覚悟していました。
 星は小さな絹糸を紡ぎだし、無数の一本の絹糸は宇宙で羽衣を作り出しています。
 月を越えて星を旅しているマリが、星々の紡ぎだす光の羽衣に見惚れていた頃、明日の光は準備を始めていました。
 少しずつ朝が近づいてきていたのです。朝は夢路を払うもの。今宵のマリの旅の終わりを告げるもの。
 何度も引き離されながらも、また夢を見ては引き離される。夢は時として残酷でもあるのです。
 マリは飛び跳ねることを止めて、しっかりと立って振り向きました。
 海で見たように、地球では沢山の光が浮かんでは消え、消えては現れています。
 磁石同士が吸い寄せ合うようにくっついては新しい色の光になっています。何かを求めているかのようにさ迷ってはくっつき、色を変えて離れるものもあります。
 マリには、まだその光が地球に生きとし生きるすべてのものの渇望や叫びや勇気だということを知りません。その闘いの中で悲劇や喜劇や幸せが生まれていくことも。
 今マリは地球へとしっかり歩いていきます。その歩みが地球からは流星に見えていることをマリは知りません。
 前を見つめながら、何一つ見逃さぬよう、一つ一つの、一粒一粒の魂の光を瞳の奥へ受け止めて、体の奥の宇宙に刻み付けるように、時を抱いて、止まらぬ時に願いを重ね合わせて、元いた場所へと戻るために、朝の訪れを告げる母の口付けに強い愛を感じ抱きしめ返すために、抱き上げてくれる強い父親に母と同じような頬への口付けをするために、マリは目覚めていき、少女からゆっくりと離れていくのです。
 マリの枕元には赤いリボンで結ばれた大きな犬のぬいぐるみと、前から欲しがっていた薄桃色の服と赤いスカートが置いてあります。
 目が覚めたら、きっと驚いて家中を走り回ってしまうことでしょう。

 きっとマリが喜びに飛び跳ねている頃、地球の裏側では夜を迎えた少年クリスが目を閉じ、美しい無数の流星がオーロラの空を駆け抜ける夢を見ることでしょう。その夢の中でクリスは必死に願い事をし、父親のようになれますようにと帰りの遅い父親のことを思い巡らしながら、叶わぬ願いと叶って欲しい願いを祈り続けるのです。
 その少年の父親は何をしていたかって? その日は観測中の天体の近くで無数の光を放つ小さな流れ星を見つけたのですが、その姿がスカートを履いた少女のように見えて目をこすり、もう一度じっくりと観測をしながらも新しい発見に胸躍らせていたようです。
 クリスの父親の帰りは朝方になりますが、クリスには堂々とプレゼントを持っていくようですよ。

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09/09

Wed

2015

「夏の逃げ水」

夏、最後の日だった。
 この後の週間天気予報は今日より五度以上も最高気温が下がり続け、そこを抜けてももう秋の様相になるという。
 私は「逃げ水」だった。
 夏の最後の名残を受けてアスファルトの果てに浮かんでいる蜃気楼。
 ある海岸の砂浜のキャンプであなたに初めて触れてからというもの、恋という名のプリズムに当てられ、その光に魅了されてばかりで、声をひとつも出せずにいた。
 あなたの手が水着姿の私の肩に触れて、唇が近づきそうだった時、ひと時の満ち干きの中に身をうずもれさせてはいけないと唇をそらして微かな抵抗をした、あの瞬間から、近づこうにも近づけず、近寄ってきてもただ逃げるばかりで言葉を失っていた。
 私はあなたを遠くから見続けることになった。
 会える時も仲間内で集まる時ぐらいしかない。
 二三ヶ月に一度ほど、花占いをするかのように待ち続ける日が続いた。
 じりじりと焼き付けられた心には、いつもあなたのこと。
 恋は遠く、声は遠く、光は遠く、オアシスは幻。
 友達が撮ってくれた唯一の写真を毎日寝る前に携帯電話ごと握り締め夜を明かしていく。
 そして、夏、最後の、日。
 私は「逃げ水」だった。
 恋の最後の照り返しを受けて熱に浮かされ体中を火照らせている情調。
 夢の中でまで抱かれていたのに、あの夏の確かな手の感触がもしかして偽りだったかもと思うだけで怖くなった。
 私は苦しみに耐えられるほど強くはなかった。
 その日ちょうど話し相手になってくれた男友達に私は甘え、体を寄りかからせ、そのまま包まれて場所を変えて朝まで過ごした。
 見えているものをまるで蜃気楼のように思ってしまい、逃げた先で流されたようなものだった。
 彼は少しでも追ってきてくれたのだろうか。私がまるで「逃げ水」を見ていただけなのだろうか。
 意図しない男の手に触れられ、それでも安心を得た私は結局彼のことが好きではなかったのだろうか。
 夏の最後の……。
 夏の……。
 今でも波の音が聞こえる。
 彼の回してくれた手を左肩にいつまでも感じる。
 余韻を残しながら、熱を冷ましながら、秋は少しずつ進んでいくだろう。
 そして秋の空に包まれながら木々の葉は頬を染め上げて色づき始めるだろう。
 私はどこまで行くのだろう。
 夏の名残は心に滲み、私は見えぬ季節の変化の先に、心のあり方を決めていくのだろう。
 それでもあの一瞬の出来事を、夏の砂浜の刹那を、忘れずにいる。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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