「さあ、お休みの時間ですよ」
「早く寝なさい。寝ないと大きくなれませんよ」
「お化けの出る時間になるから、子供は早く寝ないといけないんですよ」
今日の新しい眠りに入るために、母親は、父親は、どのように子供に声をかけるのでしょう。
子供を寝かしつけたあと、少しだけ二人の時間を楽しんで、そして眠りについていくのでしょう。
新しい眠りに入った子供たちは、一体どんな夢を見るのでしょう。
冬至を迎えて少しずつ夜の時間が薄らいでいく日の重なりの三日後、世ではサンタクロースが来ると言われています。
夢を砕かれ現実を知らされた子達。夢を育まれいつまでも想像の翼を広げられる子達。
同じ地球の上に生きて、星空の下でそれぞれの想いを抱き、それぞれの夢を見て、飛び立ったり、もしかしたら地を這うような子もいるのかもしれません。
小さな夢は大人の指先の力だけで潰れてしまうもの。
大きな夢は沢山の人たちの希望の結晶でもあるのです。
遠い地に蝶が羽を羽ばたかせ、世界の反対側で嵐が起こる。
こんな話を一部の大人たちは信じています。
この世界はわからないことばかり。
星の輝き一つにしても、大人たちが一生をかけて悩みつくし、そして答えの出ないまま死んでいったりするのです。
星一つに人生ひとつ。それでもわからないまま、一生を、生涯をかけた熱心さに釣りあうかどうかもわからずに瞳を閉じて遠い世界へ行くことも珍しいことではないのです。
さあ、地球の反対側は朝です。
光溢れる世界で世にも美しい蝶が朝露をまとった緑の葉の隣で羽を広げています。
その羽ばたきの一振りは、きっとこの世界へと静かに声を届けていることでしょう。
光を受けて羽から落ちる鱗粉が天使の微笑から弾けたきらめきのようにも見えます。
夜は始まったばかりのこの場所で、子供たちは次々と目を閉じていきます。
地球の反対側の美しい蝶の羽ばたきは今この夜空の中に一筋の流星を呼び寄せようとしています。
小さな部屋で眠る小さな女の子マリは次の日にプレゼントが枕元に置かれていることを夢見ていますけれど、マリ自身はこれから眠りの中の願いが流れ星になることは知らないのです。
「さあ、マリちゃん。そろそろ眠る時間ですよ。ちゃんと眠れますね」
マリは無垢で素直な返事を母親へと届け、ゆっくりと眠りにつきました。
眠りについたマリのはるか上空。地球よりも、もっともっと遠い、光の速さで何年もかかるところに、あの夜空の星々の光はあります。
美しく見える輝きにも、既に生と死が入り混じっています。もうその光が見えている頃には、星そのものは滅んでいるかもしれないのです。まるで、大人たちの必死の夢への努力のように。
マリの夢を覗いて見ましょう。
夜十時に眠るといっても、マリにとっては少しだけ遅い時間。
明日はサンタクロースが来るのだと期待して興奮しない方がおかしいでしょう?
ですから少しだけ眠る時間が遅くなってしまったのです。
かわいらしいと思いますか? それともいつか覚めてしまう夢だと思いますか?
さて、その問いは置いておいて、十二時前のマリの夢はどうやら、かの有名なガラスの靴のお話が混じっているようです。
でも少しだけ違うのは、王子様に会うよりも前に、ガラスの靴を履きながら、まるで水溜りを長靴で踏むかのように星を踏んではしぶきを散らし、星と星の間をうさぎのようにぴょんっと飛んでいるのです。
本当に楽しそうに、前に踏みしめた星のきらめきの色は何色だったかと、後ろを何度も何度も振り向きながら、次々と訪れる光の美しさに見惚れて、マリも自分がお姫様になったかのような気持ちになっているのです。
もしかしたら、星のすべてがマリにとっての王子様なのかもしれませんね。
まるで星屑のトランポリン。跳ねては飛んで、星は飛び散り漂い集ってくる。身にまとう光はドレスとなって、憧れの人の下へ。そんな風に、好きな人のことを思い浮かべていました。
ぱっと目覚めてマリは夜のまどろみの中で、目覚めてしまった現実を知りゆくよりも、今は夢の中にいたのだからと、ふたたび先ほどの星の景色を思い浮かべながら目を閉じます。その時には好きな人より楽しいこと。マリの一番の楽しみは空を旅することになっていました。
月の光が雫となって地球に落ちて水の波紋のように広がります。目覚めてしまいそうな刺激の霧を小さな手で一生懸命掻き分けて、非力なマリは知らない世界の奥へ奥へと行くのです。もっともっと楽しい場所へと。
ゆっくりと時をかけて回る地球の上で、少女は誰も知らない美しい夢を抱いているのです。
ドレスはほころんでいないかな。ガラスの靴は欠けていないかな。ちゃんと夢の主人公でいられているのかな。身だしなみの確認は怠りません。
雲が月や星の光を一瞬遮った時、あたりは真っ暗になってしまいました。
道すらも見えなくなり、不安を覚えて、この闇は二度と晴れないのではないかとすら思うほどでした。
道が見えなくなることは、一瞬であろうと、それだけ長く感じるものです。
その時マリは一人で歩いていることに気がつきました。
雲間からようやく光が差し込んできても、一度寂しさを抱いてしまうと、誰かのぬくもりが隣にないことが不自然なことのように思えてしまうのです。
誰しも昔は抱かれて育ってきたのですから。
マリは急に地に足をつけたくなりました。
高い高い大空から妖精のようにおりていったマリの目の前には大海原。
月が心なしか青く見え、青が白い砂浜を染めて、波は静かに深いエメラルド。
波打ち際で沢山の人が祈っていることに気がついたマリは人々の祈りの先に瞳をやると、小さな蛍のような光が無数に集まってオーロラを作っていました。
輝く星を下から包むかのような、赤子を優しく抱きかかえる慈愛溢れる母の手のような、懐かしくも美しく、胸に響くたおやかな色をなびかせながら、空のレースは海にうっすらと色を映して残して。
「さようなら」
男の子の声に胸をぎゅっと掴まれて振り向きます。
「どうしてさようならなの?」
マリは目の前の男の子の名前を思い出せません。大事だったような、ずっと傍にいたような、それなのに名前を思い出せなくて悲しい気持ちになります。
「さようならは、始まりの合図だよ」
「わかんないよ。お別れは悲しいよ」
「でも、昨日には戻れないからね。だからさよならも戻れない」
そう言い残すと男の子は小さな光に変わって海の上を静かに飛んでいきます。
彼の光が先頭になり、沢山の祈っていた人たちも小さな光になり、海の上に一筋の道を作って行きます。
マリは、とても大切にしていたものを失った気分になってうずくまって泣いていました。
「どうしたの? 星のドレスをまとったお嬢さん」
肩を叩かれ声のする方へと顔を向けると、そこには青年がいました。先ほどの男の子に似ているようですが、とても大人びて見えました。でもマリの父親には及びません。
「歩き出そう。もう道は出来ている」
「どこにもないよ。道なんて」
マリには光が道には見えませんでした。うっすらとぼんやり浮かぶ無数の光の存在は道にすら見えなかったのです。
「歩いてご覧よ。海の上を歩くんだ」
「歩けないよ。どこに行くかもわからないし迷っちゃうから嫌」
「何処へでも行けるんだよ。君がちゃんと目を凝らしていれば、見え続けるんだ。それに、歩かないとドレスが消えて裸になってしまうよ」
「それだけは嫌!」
おやおや、涙もすっきりと拭い取り、すくっと立ち上がったマリは砂埃が舞いそうなほどの力強さで歩き出します。裸になるのがとても嫌だったのでしょう。
「誰だか知らないけど、あなたも来なさい!」
マリは脅しつけるような声で言い放ちます。
一緒じゃないと意味がない。一緒じゃないと楽しくない。道を歩くのはみんなとがいい。それでも、誰かの後を付いて行くのではなく、自分の道をしっかりと。
海に足をつけると冬の塩水が凍りつかせるくらいの冷たさで染み込んできます。
(裸になるくらいなら死んだ方がマシ!)
太股まで浸かり、意味もわからず歩いていき、冷たい水がお腹まで浸ってきて凍えて来た時、声をかけてくれた青年がちゃんと着いてきているか後ろを振り向こうかとも思いましたが、もう余裕がありませんでした。
凍えは酷く、ついに胸のあたりまで浸かるほど深い場所へと来たところで体がだんだん動かなくなってきたのです。
マリは騙されたとも思いませんでした。女の子には秘密にしておきたいことが沢山あるのですから。
ふっと意識が遠くなり、顔も海に沈んでしまった瞬間マリの体は急にあたたかくなりました。
見上げると同じ景色があります。ただ、前と違うのは海の上に浮いていることぐらいでしたが、もう冷たさも一切感じなくなっていました。
「おめでとう。生まれ変わったんだよ」
青年がちゃんと着いてきていたのです。
「生まれ変わり? 何も変わってないよ?」
「そんなものだよ」
青年はあっけらかんと言いました。
青年の意味のわからぬ言葉よりも、マリは目の前の海の水面を行き来している無数の光に気がつきました。
「あれは何?」
「産まれゆくもの、死にゆくもの、世界を変えたもの、魂の数々と祈り」
魂。その言葉だけはマリの胸の中に鐘を打つかのように響きました。そして目を凝らして、しばらく見つめていると輝くものと、そうではないものがあり、星のように輝くものは道を形作り続いているのがわかりました。
「あ、道が見える」
「見えたのかい? じゃあ歩けるね」
マリは恐る恐る足を踏み出してみました。すると楽しい気持ちで星と星の間を飛んでいた時のように足元が美しい光を放ってよりドレスを際立たせました。
「応援してくれてるみたいだね。さあ、どんどん歩こう」
青年の声に後押しされて、勇気を出して飛んでみます。ありがとう、と心の中で感謝の言葉を沢山つぶやきながら、うさぎのようにぴょんっぴょんっと。右足、左足、ぴょんっ、ぴょんっ。
光はマリの近くへどんどん寄ってきます。一つ一つを踏みしめ光をまとい、薄い氷の膜のようなオーロラを打ち破って星空へとマリは飛んで行き、月がとても大きく見えてきた頃、胸がいっぱいになって涙が止まらなくなりました。
ドレスは一粒一粒がキラキラしていました。優しい光ばかりで、皆がくれた希望の光のようで、悲しみを超えた強さばかりが集まって、マリの落ちた感動の涙は皆の魂を癒すことになりました。マリを取り囲んでいた光たちも喜んでいるようです。
この時が止まってしまえばいいとすら思いました。けれども、いつかはこの光も皆に返さなければいけないからとも覚悟していました。
星は小さな絹糸を紡ぎだし、無数の一本の絹糸は宇宙で羽衣を作り出しています。
月を越えて星を旅しているマリが、星々の紡ぎだす光の羽衣に見惚れていた頃、明日の光は準備を始めていました。
少しずつ朝が近づいてきていたのです。朝は夢路を払うもの。今宵のマリの旅の終わりを告げるもの。
何度も引き離されながらも、また夢を見ては引き離される。夢は時として残酷でもあるのです。
マリは飛び跳ねることを止めて、しっかりと立って振り向きました。
海で見たように、地球では沢山の光が浮かんでは消え、消えては現れています。
磁石同士が吸い寄せ合うようにくっついては新しい色の光になっています。何かを求めているかのようにさ迷ってはくっつき、色を変えて離れるものもあります。
マリには、まだその光が地球に生きとし生きるすべてのものの渇望や叫びや勇気だということを知りません。その闘いの中で悲劇や喜劇や幸せが生まれていくことも。
今マリは地球へとしっかり歩いていきます。その歩みが地球からは流星に見えていることをマリは知りません。
前を見つめながら、何一つ見逃さぬよう、一つ一つの、一粒一粒の魂の光を瞳の奥へ受け止めて、体の奥の宇宙に刻み付けるように、時を抱いて、止まらぬ時に願いを重ね合わせて、元いた場所へと戻るために、朝の訪れを告げる母の口付けに強い愛を感じ抱きしめ返すために、抱き上げてくれる強い父親に母と同じような頬への口付けをするために、マリは目覚めていき、少女からゆっくりと離れていくのです。
マリの枕元には赤いリボンで結ばれた大きな犬のぬいぐるみと、前から欲しがっていた薄桃色の服と赤いスカートが置いてあります。
目が覚めたら、きっと驚いて家中を走り回ってしまうことでしょう。
きっとマリが喜びに飛び跳ねている頃、地球の裏側では夜を迎えた少年クリスが目を閉じ、美しい無数の流星がオーロラの空を駆け抜ける夢を見ることでしょう。その夢の中でクリスは必死に願い事をし、父親のようになれますようにと帰りの遅い父親のことを思い巡らしながら、叶わぬ願いと叶って欲しい願いを祈り続けるのです。
その少年の父親は何をしていたかって? その日は観測中の天体の近くで無数の光を放つ小さな流れ星を見つけたのですが、その姿がスカートを履いた少女のように見えて目をこすり、もう一度じっくりと観測をしながらも新しい発見に胸躍らせていたようです。
クリスの父親の帰りは朝方になりますが、クリスには堂々とプレゼントを持っていくようですよ。
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