「人の気持ちを考えろ」とは、よく出てくる言葉だが、基本的にロジックとしても矛盾がある。
つまり、
「人の気持ちを考えろとおっしゃいますが、あなたは私の気持ちについて考えたことはありますか?」
と尋ねると誰もが口をつむぐだろう。
最初からそのような反論を相手に出させないために、たいてい相手にとって不利な条件や状況や証拠をつきたてて相手の考えを出させないようにするのが常套手段だ。
この手のことをする時、目的は相手を尊重するよりも叩き伏せたい気持ちの方が強い。
結局他人の気持ちをきちんと知るなんてテレパシーでも身につけない限り不可能に近い。
みんな「なんとなく」の範囲で気持ちをわかったつもりになっている。
ちょっと色々と経験し、礼儀もきちんとわきまえた人から見れば「宇宙人」のような人間だってたくさんいるのだ。
もし「人の気持ちを考えろ」と誰かに言ってしまいそうになる時、自分の素行を見直す大きな機会が訪れたと思った方が健全だろう。
ちゃんと相手の気持ちを知ろうとしているのかどうか。
「人の気持ちも考えて」と他人に言う時、自分を基準にして不特定多数の人を巻き込む場合がある。
みんなこうして辛い思いをしている、と誰だか分からないたくさんの人が苦しんでいるように見せかけるか、もしくは仲間を見つけて団結し数の圧力をかけるか、非常に個人的な心理的苦痛のカモフラージュのために訴えることがほとんどだ。
そうでなければ、常に「私は〜こう思っているから」と自分の気持ちを伝える。
人間は伝えなければ伝わらない生き物で、経験のしていない感情や想像のできない感情は理解するには程遠いところにある。
言葉も心も皆感覚が違うから理不尽さを生むものなのだ。
よく「人の気持ちを理解できるのは当たり前」という考えを持ちがちだが、その「当たり前」ができる人は、かなり立派だと思うし、それが本当にできている人は残念ながらほとんどいない。
というのは何かしら言葉で傷つけられるし、価値観が合わず態度で傷つけられるし、対応に困る情熱や親切などで迷惑を被ることだってある。よかれと思われていることだって心を害することになってしまうこともある。
そういう時、大抵の人は我慢している。
これは怒るほどのことではないはずだ、と自分を納得させている。悪意でなされたことではない、と。
人の親切でさえ自分に対して、よくない気持ちを呼び起こすことだってあるのだ。
だからこそ「人の気持ちを考えられる」というのは積み上げられた我慢と忍耐と努力と経験の上に成り立った結構すごい行為なのだと考えを改めてなくちゃいけない。
となると、私たちは「人の気持ちを考えて」と言いそうになってしまった時、言いそうになった理由を極めて個人的な理由に絞る必要がある。
何が気に入らないのか。何が不愉快なのか。何が憤るのか。自分の感情を探る必要がある。
さもなければ、相手のこともよく知らぬまま訴えかけて、とにかく話がこじれるし、言い合いのまま平行線を辿ることだって多くなる。
人と向き合うというのは、基本は「1対1」である。
この「向き合う姿勢」が原則であって、誰かの代理でやっていたとしても、その誰かの気持ちを一方的に立てて相手の言い分を聞かぬ仕舞いでは、自分のことしか考えていない。
実際真剣に対話する時、体を真正面に向けられず、あちらこちらと目や体の角度をそらされると不快に感じるだろう。
それと同じような行為になりがちな「人の気持ち〜」なんて持ち出すくらいなら最初から「自分の気持ち」に問題を絞ればいい。
とにかく対話もしていない人の気持ちなど考え出すと、様々な推測や憶測や想像が際限なく広がってくる。
これが物事を複雑にし、互いの関係を粗悪にする不純物だ。
相手がわかっていないのなら伝える必要がある。聞く必要がある。
特に気持ちとなればなおさらだ。
伝えるのすら嫌になることもある。苦痛でこいつとはもう嫌だと投げ出したくもなる気持ちを受けることもあるだろう。
その我慢の限界は人それぞれだが、伝えて、聞く努力だけはやるだけやったほうがいい。
伝えるときのポイントは「余計な話をしない」ということだ。
自分のことを伝えようとしているのに「たとえ話」から始まり間接的に伝えようとしたり、自分ではない誰かの例から遠回しに自分のことを気づかせようとしたり、世間の常識や慣習を持ち出したり、「周囲は〜」と漠然した集団意識を持ち出したり、とにかく直接的ではない伝えかたは誤解を招く。
基本は「私はこれに関してこう思った。あなたがこうしたことに、私はこう感じたけど、どう考えているのか」が守られているのが望ましい。
ここで自分の考えや思いを「後出し」にしないことが、対等な対話だ。
だいたい批判をしようとする心構えの時など、自分の思いを相手の出方を見て結構変えたりする。
自分をよく観察すればわかるだろう。
最初に言おうと思っていたことが、相手の言葉によって次々と歪められ、最後には何を言おうとしていたのかわからなくなり、伝えようとしていたことすら少しも伝わっていない、という状況に見舞われたことはよくあると思う。
その原因は「後出し」にすることにより、相手の屁理屈・理屈・強い感情に自らの感情が巻き込まれ、相手のペースに飲まれてしまうためだ。もしくはただ、相手の間違いを認めさせたいだけの目的が重視されるためだ。
そんな時でも「今の言葉で私はこう感じた」と手短に「私は〜です」の直接的手法を守ると混乱しない。
で、どうしても通じないという人がいる。
どれだけ話し合っても価値観の合わない人もいる。
そんな人に対しては伝えるべきことをきちんと伝える。
そこが限界になる。
他人は思い通りにできないので、どうしてもタイミングや考え方の違いでおかしなことになることもある。
しょうがない。
最後には自分が言い残したことはないだろうか、と内面を探り、なかったら終わりにしたほうがいい。
そこで捨て台詞を吐くと、精神的暴力の連鎖になりかねないので、やっぱり我慢するか切り替えて健康的な方法で発散していくしかなくなる。
人間は人の気持ちなどわかりっこないことがよくわかる。
だからこじれるのだ。だから人類は争いが絶えないのだ。
人と人とは常に脆い関係にあるし、ちょっとしたことでこじれる。
もし「人の気持ちを考えろ」と言いそうになったら、自分の気持ちを素直に捉えるということを見直したほうが有益だと考える。
人間他人に苦労は強いても自分の苦労は軽減したく、他人の苦労は過小評価しても自分の苦労は過大評価するものなのだから。
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