海賊版に激怒し中国市場撤退を決めた東野圭吾と東野を嘲る中国ミステリ業界(阿井)以前から激怒しておられたのは知っていたが撤退するほど怒っているのならもう違法コピーをする人間たちを完全に林真理子氏ばりに見下しているのだろう。
もうやつらは犯罪者で、どうしてそんな犯罪者の巣窟に作品を出さなければいけないのか、という心境にまで至っているかもしれない。
ともかく、文学賞の審査員をしていると勘違いしていたが、今の役職は「日本推理作家協会理事長」である。
そのうち、直木賞の審査員になっていく可能性は非常に大であるこの方が「読者」たちの「実寸大の人間性」や時代が持っている「新しい道」を直視できず、怒りのあまりの行動に出るのなら、今後東野氏の口から「文学」という言葉が出たら怪しんだ方がいいかもしれない。
前回の記事でも書いた自炊業提訴だが、直木賞審査員が2人もいる。
現在の他の審査員のコメントを見ても、やたら「文学」だとかを掲げて、読者に見えづらい格式の高さを醸し出しているが、いずれは彼らの考え方が徐々に過去の遺物になってくることは見えてきている。
文学の世界といえど人々の生活にそったものになるのであれば、電子化の流れは止めることができない。
そしてやがて電子書籍はSFの映画で見たような世界になっていくだろう。
下敷きのようなプラスチック板に画面が表示され、映像画像音声が一体となって文字を演出していく。
近未来のSF映画などでは必ず出てくるあれだ。
ゴーグル型のもあったりする。もしかしたら脳に直接伝える脳伝導「官能小説」なんて出てくるかもしれない。
映画のような感覚で様々な物が遅かれ早かれなる。
それも空想などではなく、すぐそこにある現実だ。
膨大に広がっていく電子の世界で読者と作家をつなげる接点は今とはまったく違った物になるだろう。
そして今の審査員たちには私のような若輩がここで物申すのも僭越だが、今から見ればSFに見えてしまうような世界すら文学だと私は考える。
なぜなら人が接し、扱い、生活の中に当たり前のように道具が入っていくのだから、当然文学になる。
もう彼らの言う「文学」という「漠然とした懐古主義」から生まれる、わけのわからない世界はやがて形を変えて終わる。
極端に言えば人類の未来を想像できない「作家」はその時点で死ぬべき運命に入り込み、常に何らかの影響下でコントロールされる。
これは創造性や想像性を持ち、与えなければならない作家自身が「自由」を失うことを意味している。
今回の東野氏の対応、提訴した作家たちの言い分を読み、作者としての大きな分岐点を遠くから見ている不思議な気分に浸っている。
私にとって「文学」は身近なものではなかった。
遠く、手の届かないところにあったのだ。
だからようやく理解した。
「文学」は私には必要ない。
これからどうなっていくのか「現実」を見たい。
その上で表現したい。
ようやく憑き物のようにあった執着心が取れて目が覚めてきた。
さようなら「文学」。
[0回]
PR
http://asakaze.blog.shinobi.jp/%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%83%BB%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8/%E3%81%95%E3%82%88%E3%81%AA%E3%82%89%E3%80%8C%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%80%8Dさよなら「文学」