一縷の銀星が夜空を飾っていた真下では、小さな池に黄色や赤のカエデの葉が散りゆき、藻のついた池底の石をひらりかわしながら薄黄金の鯉が泳いでいます。
池を色づける紅葉は星々のように輝いて、淡い空よりもハッキリと、足跡をつけ、誰かの残した吐息の跡や、想いの痕を身に宿しながら水面へ、ポツリ、ポツリ。
葉が落ちるとともに波紋は咲いて、隣に近づいてきた赤い葉を波で遠ざけたり、遠くに行った黄色の葉を近づけたりしています。
やがて風が吹いてくるくると葉を回転させます。想い出を巡らせるように。
鯉は泳いでいます。泳いで、泳いで、ざわめきつつある水面の間近で、夜空のはるか下で息を潜ませることなく、伸びやかに踊っていきます。
月の雫が落ちた時、水面には少年がいました。
水面に映った月を本物と見間違えて、時折歪む自らの顔から目を背けたりしながら、いつまでも水面を覗き込んでいました。
まるで初めて自分の顔を見たかのように、いつまでも確かめているのです。
少年の姿は池の傍らにいた老人の目に、しっかりと映っていました。とても美しく、水の上に膝を付いて、沈むことなく、不思議そうに、映った世界を見つめているのです。
少年は風や落ちてくる葉の刺激や、鯉が時折水面へ息を吸いに来る時、自分の姿が酷く歪んでしまうことに落ち込んでいるようでした。
わずかな波もない時は、とても嬉しそうなのに。
老人は言葉をかけようとはしませんでした。
言葉よりも、流れる息遣いの中に少年の心を見ようとしたのです。
見守るように少女が少年に寄り添っていました。
少年は少女のことなど心にもとめず、水面を覗き込んでいます。
鯉のいたずらで、小さな黄色の葉がくるりと回ると、夜空の星のひとつもくるりと回りました。
水面や少年ばかり見ていてはわからなかったことですけれど、老人は遠くの空も近くの池も全部目に入るように見ていたのです。
くるりと回った波紋が周囲の葉を躍らせると、今度は星々が踊りだします。
たまりかねたのか、いつの間にか水面の上で映りこんだ星や回る紅葉に合わせて少年も小さなステップを踊っていました。
悲しいことは楽しいことで忘れるのが一番です。
少女も少年に合わせて楽しく踊りだします。踊りだした少女にようやく少年は気がつきます。
楽しいことを分かち合うと、お互いの存在がとても強い絆で結ばれているように感じるからです。
少年は水の下で見上げている鯉のこともちゃんと思いやって、小さな手で掬い上げ空へ手を広げながら投げ入れました。
すると鯉は地上と夜空を行き来する、光の筋を作りながら悠々と泳ぎだします。
鯉は水面に浮かんでいる木々の葉のことを思いやり、勢いよく池に飛び込んでは水を空に散らし、葉を夜空へ近づけようとします。
ふわりと浮いた赤や黄色の葉は星の色と重なりキラリ、キラリと深い色を重ね合わせていきます。
一瞬、風が強く吹き荒れ、草木を怒ったように鳴り響かせます。
少年は両拳に力を入れ目を険しく尖らさせ立ち尽くし、少女は脅えてうずくまって震えだします。
「怖くない。何も怖くない。大丈夫だ」
老人は初めて声をあげました。とても力強い声で少年少女に伝えたのです。
恐怖や緊張で誰かが体をこわばらせている時にこそ、心を救う声をあげるべきだと老人は思っていたからです。
少年と少女は初めて聞こえた声にとても警戒しました。
鯉は落とされた石のように素早く水の中にドボンと音を立てて潜ってしまいました。
「お前たちのことは見ておったよ。怖いことがあったら声をあげるんだよ。きちんと声を出すんだよ」
「はい」
二人とも返事をしましたが、その返事は見知らぬ老人への怖さであることを老人は知っていました。
「お前には食べ物があるよ。これだ」
鯉を見ながら老人がポケットから出したものは銀色の飴玉でした。
飴玉が池に投げ込まれると池はうっすらと光りだします。
鯉は飴玉をすぐには食べようとしませんでしたが、溶けて入ってくる飴玉の美味しさが隅々まで広がるようで、小さくなりかけた飴玉を飲み込みました。
すると鯉は水面と同じように光りだし、黄金がよりハッキリとしてきました。
老人は二人と鯉の姿を見ながら幸せそうに笑っています。
「大丈夫。大丈夫」
老人の優しい声は冷たく固まっていきそうな空間を溶かし始めます。
少年と少女は声をあげた老人を初めて意識し、鯉は初めて警戒心を解きました。
老人は落ちてきそうな薄紅の葉を手の平に乗せ、大切そうに撫でました。
すると葉は光りだし、夜空を目指し元気よく飛びだしたのです。
老人の姿を見て少年は葉の近くに寄り添うようにし、少女は一つ一つを大事に抱きしめていきました。
すると老人が撫でたのと同じく光り出して空を目指したのです。
鯉は池に飛び込んでは尾びれを器用に使って水を銀色の滝にして星空に浮かぶ月へと落としていきます。
天空の裂け目があるかのように、まっしぐらに銀の流れは目指していくのです。
銀色の滝から逃れた葉たちは星々になろうと散っていきます。
光を煌々と出し続け、まるで自分がここにいるよと声を上げているようでもありました。
少年は夜空を見上げて満足そうに拳を突き上げています。
少女は夜空を見上げて抱いていくかのように両手を広げています。
鯉は星空と薄暗かった池を結び付け悠々と泳いでいます。
いずれ嵐の夜が来ようとも、分厚い雲が光をいつまでも遮ったとしても、老人の声と行動は若い命を泳げるようにし、泳いだ若い命も老人を真似たことが、老人一人ではできなかった光の束を作り出しました。
今夜空に浮かぶものは、遠くまでいってくるりと回る、あの小さかった紅葉たちです。
鯉は池に戻り映りこんだ月の輪郭をなぞるように泳ぐと、涙が流れたように月は光の尾を引きました。
水面をなぞった数々の姿を満足そうに眺めていた老人は「ありがとう」と感謝しました。
皆が言葉を聞いて「ありがとう」の使い方がわかったようで、真似をして「ありがとう」と言いあいました。
伝えていくこと、伝えること。
ちょっとしたことから光りが繋がっていく事、繋げていくこと。
呼びかけ、応え、呼び合って、確かめ合うこと。
「怖くない。何も怖くない。大丈夫だよ」
勇気ある少年と少女に、光る空の下でもう一度声をかけました。
すると二人とも優しい声で「はい」と老人に微笑み返しました。
ずっと潜んでいたのか、いつの間にか周囲には次々と少年たち、少女たちが池の上に立っています。きっと、怖くて出てこれなかったのでしょう。
先頭に立って何かをし始めることは、いつだって怖いもので、勇気あるものが道を切り開いていくものなのです。
そして勇気は後に続くものに希望を与えます。
老人は沢山増えた少年少女たちを眺めながら何度も頷き微笑みました。
また色づいた葉が池に落ちて波紋を広げ波立たせました。
現れた子たちの中には波で歪む自分の顔に戸惑うことなく、池の光の届きそうもないところを覗き込んで「怖くないよ。大丈夫だよ」と声をかけています。
老人は鯉にお願いをしました。
「どうかあの子たちの気高い心のお手伝いをして欲しい。そして潜んでいる子がいたら、その子のことを教えて欲しい」と。
鯉は喜んで池の底の深い闇の奥へと消えていきました。
池の光りは徐々に失われていき、小さな子たちは星を目指して空へと向かい始めます。自分で見つけた数々の道しるべとなる星の姿を見つめながら。
星を目指さず池の傍で待っている子たちも少しだけいました。
遅れて出てくる子たちを心配して待っているのです。
この世界に、たった一人ぼっちでいると思わないで欲しいと思ってのことでした。
老人は池を離れる準備をします。
近い日、とある夜に、いい子にしている子どもを探し、希望を贈り物とするために仕事が山積みになっているからでした。
老人は池と空を見渡しながら言いました。
「贈り物をありがとう」
命が生まれるという希望と、勇気を持って生きるという希望は老人にとって最高の贈り物になるからです。
老人の言葉は小さな光りとなって池の奥へと落ちていき、池の紅葉をくるりとまわし、星を輝かせました。
もう少しで訪れる、雪降る夜へ、時は進んでいくようです。
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