夏、最後の日だった。
この後の週間天気予報は今日より五度以上も最高気温が下がり続け、そこを抜けてももう秋の様相になるという。
私は「逃げ水」だった。
夏の最後の名残を受けてアスファルトの果てに浮かんでいる蜃気楼。
ある海岸の砂浜のキャンプであなたに初めて触れてからというもの、恋という名のプリズムに当てられ、その光に魅了されてばかりで、声をひとつも出せずにいた。
あなたの手が水着姿の私の肩に触れて、唇が近づきそうだった時、ひと時の満ち干きの中に身をうずもれさせてはいけないと唇をそらして微かな抵抗をした、あの瞬間から、近づこうにも近づけず、近寄ってきてもただ逃げるばかりで言葉を失っていた。
私はあなたを遠くから見続けることになった。
会える時も仲間内で集まる時ぐらいしかない。
二三ヶ月に一度ほど、花占いをするかのように待ち続ける日が続いた。
じりじりと焼き付けられた心には、いつもあなたのこと。
恋は遠く、声は遠く、光は遠く、オアシスは幻。
友達が撮ってくれた唯一の写真を毎日寝る前に携帯電話ごと握り締め夜を明かしていく。
そして、夏、最後の、日。
私は「逃げ水」だった。
恋の最後の照り返しを受けて熱に浮かされ体中を火照らせている情調。
夢の中でまで抱かれていたのに、あの夏の確かな手の感触がもしかして偽りだったかもと思うだけで怖くなった。
私は苦しみに耐えられるほど強くはなかった。
その日ちょうど話し相手になってくれた男友達に私は甘え、体を寄りかからせ、そのまま包まれて場所を変えて朝まで過ごした。
見えているものをまるで蜃気楼のように思ってしまい、逃げた先で流されたようなものだった。
彼は少しでも追ってきてくれたのだろうか。私がまるで「逃げ水」を見ていただけなのだろうか。
意図しない男の手に触れられ、それでも安心を得た私は結局彼のことが好きではなかったのだろうか。
夏の最後の……。
夏の……。
今でも波の音が聞こえる。
彼の回してくれた手を左肩にいつまでも感じる。
余韻を残しながら、熱を冷ましながら、秋は少しずつ進んでいくだろう。
そして秋の空に包まれながら木々の葉は頬を染め上げて色づき始めるだろう。
私はどこまで行くのだろう。
夏の名残は心に滲み、私は見えぬ季節の変化の先に、心のあり方を決めていくのだろう。
それでもあの一瞬の出来事を、夏の砂浜の刹那を、忘れずにいる。
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