社会派ミステリーとして、何度もリメイクされ映像化されている松本清張の代表作である。
初版が1960年だから、私の親が生まれた年と言ってもいいくらいの開きがあるだけに古さが浮かぶだろうが、そうでもない。
すらすらと読みやすい文章から、携帯電話もインターネットもなかった時代の忍耐力がうかがえる。
自分としては今西刑事が俳句を読むのだけれど、下手でもつづっていく俳句の登場がもう少しあると当時の風景がありありと浮かんだのではないかと思う。
これを読んでいくつか思ったことがある。
当時としては当たり前の風景が今となっては貴重な資料となりえる、ということである。
だからこそ、方言や今となっては見られなくなった病気のことなど、しっかりと記述しておくことで、その当時の風土や風景がいかなるものだったのかが伺えるのだ。
このことは年代が経ってみないとわからないことではある。
いくつか、ちょっと強引なところもあるが当時のトリックとしては斬新極まりない。
とある機械についても、ヨーロッパでフーリガン対策か何かで用いていたが結構大型、車の上につけていて50mくらい先の人にあてていたから大きいのだろうが、やはり結構な威力を出すには大きな装置が必要になっていた。
昔はどうだったのだろうね。
ただ、松本清張の短編などを読むにあたり、主人公の推理や勘が超人的に冴えている、もしくは執拗に考え抜くところは、作者本人の勘の鋭さ、疑問の持ち方がありありと反映されている。
後半になって、神が降りてきたように事件を述べていく。
ここら辺の文学性の欠如は解説でもちゃんと書いてある。
社会派ミステリーと呼ばれるようになったのも、いわゆる差別となった病気のことや、今の日本でもそうだけれど出世に傷がつくことを恐れる日本人の出世意識が強く出てきているからだ。
経歴に傷がつくのを日本人は恐れているし、経歴に傷がついている権力者を日本人はあまり認めたがらない風潮は強くある。
だいたい大人になると他人の優しさを多少冷めて受け止めてしまう感覚になっていくところ、とても寂しいことではある。
特に過去に対して深い傷があったりすると、人間を根本的に信用していないし、信じられないし、だいたい信用したら裏切られるという、なんとも蟻地獄のような目にあうのは、別に小説だけの話ではないのだ。
ところで方言が最初のトリックになっているところ、方言について考えさせられる。
これから方言ってどうなっていくのだろう、と。
多少は残っているが、この小説が書かれた状況からはだいぶ薄まってきていて、聞き取れないような方言を話す人は若い人ではいなくなってきている。
「私でもおじいちゃんおばあちゃん何言っているかわからない」というのだから、方言もまた資料上の記録にしか残っていかないのではないか、という時代の流れを感じながら小説を読んでいた。
前半戦汗水垂らして地道に動いていく今西刑事や周辺人物の人間味が、後半になって薄まっていき、前半の生き生きとした人間模様のあり方が多少薄味になっているところ、書き方の難しさを教訓として突きつけられる作品でもある。
また長編になればなるほど作者本人が仕掛けたトリックに振り回され、大きな欠陥を生むことになることなど、まるで犯罪者が整合性を取ろうとして逆に不自然になってしまうという創作ならではの難しさもこの本には存在している。
芸術家や批評家が出てくるけれど、これらの存在は内省することで客観性を保っていないと本当に独善的な世界を積み上げて、そこに固執し続けなければならないという事態を招く。
男の人は、本当に力の上下関係に弱い悲しい生き物なのかもしれない。
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