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あさかぜさんは見た

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05/13

Sun

2012

文学におけるモダニズム

世の中が劇場化され、さらに記号化され、そしてその記号が形骸化する現象が進んで既に半世紀以上も経っている。
しかしまだ日本の文学は記号とその役割における文学を示したものが、ほとんど出現せず、ようやく扉が開きかけているところまできている。

どうやら、日本の文学史はモダニズムを体験していないらしい。
さて、モダニズムとは何か。
世の喧騒から浮かび上がる消費される記号、言葉たち。
それらがふわふわと軽い意味で使われ、飾りだけ派手になって、そして忘れ去られる。
消費の速度がめまぐるしいので、中身までつめなくていい。
外見だけ飾り、やがて本来中にあった機能は失われ、そして外枠だけ残る。
技術も精神性も失われ、そしてかつて何々が存在した、という記録だけが残る。

それが現代人の消費なのなら、それが現代人の言語感覚なら、それを表現したものをとことん作ってやろうじゃないか。
そして彼らが意識せずに行っている、文化への血抜き行為を、そのまま表現してやろうじゃないか。

そして日本の文学史はモダニズムを経験する。
記号と感覚が羅列されたように見えながら、計算して配置されるそれらの消費物というなの言語。
それが日本文学におけるモダニズム。
私が示せる仕事かもしれない。

しかしこんなものは、早くて5年。
遅くても10年で卒業しなければいけない。
だからといって経験しないのも了見が狭すぎて目も当てられない。

いつまでも墓を拝むのはいいが、未来へ進まなければ、我々は進歩しない。

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04/28

Sat

2012

作家は貧乏で当たり前

昔の書生で本を売って安酒を飲む、というエピソードはどこかで聞いたことがあるでしょうが、基本的に作家などという偏屈な「職業」は貧乏で当たり前なのではないか、という気が「ゲゲゲの女房」見ていて思いました。

なんで今更「ゲゲゲの女房」かというと、後半から見ていて、前半は見ていなかったのです。
それで朝BSでやっているので、わりと最初の方から見ているのですが、水道ガス電気料金を3ヵ月滞納し、しょっちゅう取り立てにくるという様子や、背広さえも質屋に出し、鍋も味噌もないボロ屋で、しかも窓を開けたら墓が見えるという、とんでもない生活を見ていると、どうも親近感がわくというか、そもそも作家は「金のため」などという邪な目的で少しでも動いたら、とてもじゃないがやっていけず、精も根も尽き果て、やがて投げ出すに決まっているのだという実感がじわじわとわいてきているのです。

「どうして続けるのか」
この問いには作家各々の考えが必ず出てくるでしょう。
理屈で並べ立てられないものもあるでしょうし、常日頃から「チクショウ」と思いながら考えに考えまくっている人もいる。
しかし最初から見返りの十分ある人は珍しいし、あったとしても途中で落ちていく人がほとんどです。
どのような手順で作家になったとしても「作家」という「状態」を維持させるには、やはり基礎的なもの、取材力や観察力や知識力は絶対必須で、これらがなければ鍛え直すしかなく、これらの実力通りに自分の評価が落ち着く、ということは実体験からよくわかりました。

どうにも現代の作家のトップは普通に働いたのでは手も足も出ないほど稼ぎまくっていますが、一体その下にどれだけの人数がいるのかということは、だいたい目指す人は考えません。というか、おそらく考えたくもないのでしょう。
だいたい「俺の方ができる」という自尊心、自惚れ、勘違いはどこから来るかというと「未経験の妄想」ゆえの浮いた考えで、別にこのことではなくとも、人間は実践していない事柄については、手応えを一度も経験していないので、テレビを前に煎餅をかじりながら寝転がり「ダイエットなんて簡単にできるわ」と、いつまでもやらない人と、ほとんど大差ないくらい適当です。

以前にも書きましたが、本当に作家で食っていける、今有名な人間よりも上に必ずいける、という自信がなければ、「専業」ということは考えず、手に仕事をつけて片手間でやった方がよいです。
さもなければ人生を破滅させますし、犠牲にするものばかり大きくなります。
家族や親友や人生などを犠牲に捧げながら、始めて夢を追うことができるのだと私は考えています。
そして行動したからといって必ずしも叶うわけではなく、ただ「夢の残骸」のみが残ることも覚悟してやっていただきたいと思うわけです。
専業のリスクというやつですね。

夢を追うことを教えても、夢を追うことはいかなることか、そのリスクはどうなのか、ということは全然教えません。
結局夢を売り物にして稼ぐのが一番儲かるんじゃないか、欲望をくすぐるのが一番受けるんじゃないのか、そんな気さえしてきますが、続けていく上で大事なことは「好きかどうか」の一点につきます。
自分がその作業を捨て去ったら未練はないのか、後悔しないのか。
どっちつかずで揺れる人は一度捨ててみればよいのです。
それで何らかの理由がついたとしても振り向かなかったら続けるだけの才能はなかったとキッパリ判断できます。

意外に「一度捨ててみる」という手段は使えます。
迷っている場合、一度離れてみる。
それでもやりたくてしょうがない。どうやら好きらしい。
そんな気持ちが自然と湧き上がってきて居ても立ってもいられなくなったら、才能があるのでしょう。
「好きになる」ことが根底にないと、いくらでも崩れ去ります。
好きであれば貧乏でも何でも、なんとか続けていけるものなのです。
それで死んだとしても、本望だと思いますよ。

人生河原の石よりももっと重いものをゴトゴトと積み上げ、時に何かに誰かに崩されながら、それでも積み上げていく作業に似ているところがあります。
失望にまみれたとき、一握りの勇気を与えてくれるのは、「やっぱりこれが好きだったんだ」という感情です。
飛ぶ鳥に憧れるでしょうが、大抵は地を這ってでも進むものなので、あまり小奇麗な夢は持たない方が安定して進めますよ。

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04/19

Thu

2012

コンテンツを磨くということ

音楽が売れない、という声はもう10年ほど前から出始めている。
相変わらず10年経った今も業界関係者は嘆いている。

私は最近「コンテンツを磨く」ということをずっと考えている。
磨くということは、ある意味挑戦的でなければいけないし、ある意味骨太のところを作りこむということでもあるし、場を作るということでもある。

ある掲示板に、音楽に対するひとつの意見が書いてあり、はっとさせられた。

「昔はラジオとかを録音して、たくさんお気に入りの曲を繰り返し聴いた。大人になってお金が入るようになってから大人買いしたもんだ」

最近ブックオフに持っていたCDをほとんど売ってしまった。
大事に取っておいたが今はネットで無料で聞けるというのもあるし、音に対する趣味が変わったというのもある。
本当に今も聞くだろうCDだけ残したら300枚くらいあったのが100枚を切った。
本では二束三文にしかならないがCDだとプレミアがつく場合もあった。
おかげで必要なものが買えた。
大事にしていたつもりが売ってしまうと別にたいしたことなかったようにも思えてくる。
聞きすぎて飽きたというのもある。

さて、音楽についてだが、買いたいと思う前に、まず歌にはほとんど興味を失ってしまった。
今流行の曲は、どれもこれもダンスやパフォーマンスとセットで歌そのものに魅力がないし、詩も凄いなと思うものが減ってしまった。
メロディも外さないように必ず王道、つまり売れ筋に乗っけて作ってくるので、広がりがない。
本当にコアなファンは自分で見つけて、テレビにはまず出てこないような、かつ音楽業界では実力派の人たちを見つけてくるのがうまいが、素人はそうもいかない。
今はYoutubeで偶然見つけて初めてお気に入りにする、といった感じだ。
こんな風に私の場合「検索で見つけた偶然」でなければ、優れたものに出会うことがない、というのがひとつあげられる。

今のコンテンツ作りを見ると、ほとんどが短命であることがあげられる。
例えば個性があるなと思った人たちでも10年20年やっている人たちはいない。
音楽の消費も早いし、まるで旬が過ぎたら「もう古い」といわんとばかりに人の流動性が高い。
各メーカーも、金銭的な焦りから、まるで売れ筋をコピーしたようなものを使いまわす。
ここらへんはテレビに出てくるような人たちを言っているのだが、歌に興味を失ってから、あまり出てくる人たちがわからなくなってきた。
ジャニーズやAKBや韓国の人たちばかりで、なんだか同じものが今日も同じように演出されているといった感覚すらする。

なぜ、こんな事態になったのか。
ふと、先ほどの言葉を思い出す。
本当の「ファン」とは、何年もファンで居続けるが、短命であるばかりにきちんとファンを大事にできていないのではないだろうか、育てていないのではないだろうか。
ファンが育ってこないと、当然場も作られない。
作られた場がいとも簡単に放棄される。

私はアニメもたまに見るのだが、数年前「キャシャーン」が新たにリメイクされた。
それは元々やっていた「元祖キャシャーン」とは、まったく趣が違って、抑えた表現で滅びの世界を題材にした一種の童話のようにもなっていて面白かった。
しかしネットで見ている昔の人たちは主題歌が気に入らなくて昔のキャシャーンのOP曲を入れて喜んでいた。
趣が違うし、きちんと中身を見たら昔のOP曲が合わないことぐらいわかるのだろうが、中身を見る前に外見からもう先入観で判断している。
昔からの根強いファンは、今でも昔愛したものを大事にしていることがよくわかる。

よく「ファンを大事にしろ」とは言われるが、一体何のことだろう。
我々表現者は「ファンを大事にする=人を大事にする」ということでは、少し意味も伝わり方も違うし、この言葉では何か違和感がある。
何故なら「表現物」があって初めて表現者にファンなるものがつくからだ。
私はここは「愛される場を作りこむ」という表現が一番しっくりくる。
「場」にはコンテンツも作者もファンも練りこんで成り立つ空間だ。

今読み物の空間においても携帯小説やライトノベルが若年層に支持されている。
私はちょっとした危機感を感じていて、「思春期に印象深かったものは、大人になっても愛し続ける」と考えている。
なのでもし文学よりもこちらの方が数多く読まれているのなら将来的には文学は売れないものとして規模が半分以下に縮小されるのではないか、超ニッチな読み物になるのではないか、という懸念をしているのだ。
いや、それよりも「文学」はすっかり様変わりするだろう、とすら思う。
今「ライトノベル」と呼ばれているものが「文学」に入れ替わってしまうかもしれない。
今の中年層には本当にピンとこないだろうし、何を言ってるんだと思うだろうが、じゃあ逆にお伺いしたいのは「今あなたが愛している音楽や本は思春期や青年期など印象深かった時期に愛したものとどれだけ違ってきていますか。10年前とはジャンルも領域も違うものを愛していますか」ということだ。
人間、よほどの心境環境の変化がない限り、以前たしなんでいたものから逸脱することはない。
口癖も考え方も行動様式も変化しているようで元の自分をベースにして動いている。
人はそう簡単に自分を変えられないのだ。

さて、話を戻すが「コンテンツを磨く」ということは場を作りこむための仕掛けそのものであると考えている。
そこに「愛されるべき空間」を作るための仕掛け作りだ。
これは「自分が好きなものを投入する」こととはまったく違う。
「自分が好きなものは愛されるべきだろう」という考えとはまったく違う。

私はヘレン・ケラーが映画出演していたことを知らなかった。
彼女はより広く障害者の立場を理解してもらうために様々な場に積極的に出た。
その中で映画にも出演していたのだという。

このことは「文学だからこうしなければいけない」とか「音楽だからこうしなければいけない」という考えは、ただ意固地なだけで手段としての広がりを欠くことのようにも見えてくる。
もちろん、芸は職人の道なので腰を落ち着けなければできないことがあるので、そちらができてから、という話なのだが、裾野を広げられなければ尻すぼみになることは目に見えている。
だからこそ挑戦なき者は常に淘汰されたか、狭い環境の中に押し込められた。

スピルバーグ監督はゲーム業界に興味を持っていることをNHKでやっていた。
「イマジネーションが刺激される」というようなことを言っていた記憶がある。
コンテンツの世界は「イマジネーションへの挑戦」でしか切り開けない。
イマジネーションという魔法で愛される場を作りこむしかない。
そうして5年10年と経って、ようやく場として機能しだすのかもしれないと思っている。
元々芸術とは金銭的な見返りではないところに価値を見出す行為だ。
そこに、値段をつけていくという難しさに常に悩まされることになる。

そしてもし芸の世界に興味を持っているのならば、色々と覚悟したほうがよい。
心血注ぐことに面白さを感じなければやっていけるものではない。
コンテンツを磨くということは「業界を作りこむ」ということでもある。
自分ひとりだけの問題ではなくなってくるのだから、自分の携わっているものだけに目を向けることがないようにもしないといけない。
こういう広い視点は「愛すればこそ」なのかもしれない。
その「愛情」が「偏見」にまみれていてはいけないということだ。

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04/18

Wed

2012

「自分ひとりで作っている」という錯覚が起こしがちなこと

「海は海だけで成り立っているわけではない」
この言葉はコンブ・ワカメなどが不漁になったとき、ある漁師が「山の栄養分が海に流れ込んで初めて昆布は育つ」ということに気がつき、植林などに力を入れたエピソードからの言葉だ。

元々事業主と雇用者どちらが優先的な権限を持っているかと言うと、もちろん事業主だ。
だからこそ使われている立場では、よほどの組織の有利になることではない限り利益を阻害する活動は許されない。
つまり「文句を言うなら代案を出せ」というのもここにあるし、稼ぎもしないのに権利を主張するのはお門違いであって、会社にも資金という体力があるので、これらの範疇を超えてくるものは用済みとせざるを得ない。
誰かの世話になっているうちは、その世話している人間の口出しをたくさん受けるし、その人物の意見が理不尽であろうとも優先されがちなのは言うまでもない。
簡単に言うなら「文句言うくらいなら自分でやれば?」という話になってしまう。

ところで、製作者はとても孤独だ。
例えば私の場合文学活動をしていて、1ヶ月、長いときは3ヶ月だって平気でこもってひとつの作品を書き続ける。
その間はほとんどずっと一人でこもりっきりでやるわけだから、当然ある種の独自性を持ってくるし、悪い言い方をすれば独善的になるのはしょうがない。
そして錯覚しがちなのは「自分こそが一番働いたので自分こそが優遇されるべきだ」という意識だ。
この意識は自然と芽生えてくるし避けられない感情だろうと思う。
大物であろうと素人であろうと、よほど自制的であり自省的な人間でない限り、どんどん育ってくる感情でもある。

出版、特に出版ではなくとも組織を絡めて世に何かを発表する場合、自分が思っている以上に多くの人間が関わっている。
それこそ水道ガス電気と同じようなもので、そのライフラインを保つのにどれだけの人間が関わっているか想像できないのと同じだ。
なので例えば私が著作物を出したとき「私こそが利益を被るべきだ」と考えがちだし、編集者は編集者で「私が編集しなければ作品は磨かれなかったので利益を……」、会社は会社で「こちらが金を出して、すべてをまかなっているので、出資者が一番利益を……」となりがちである。
そうしてこの経済社会は、お金に関わる人間たちは、自分たちの利益が少しでも増えればよいと欲を主張する。
欲を主張しなければ他者に侵害されてくるのだから、防衛策としても権利と主張は繰り返す。
ここで共通する意識とは「自分が欠けたら成り立たないだろ」という自負心と自尊心だ。

元々芸術とパトロンの関係は古今東西根深く、パトロン、つまり出資者のオーダーや力に従って世の傑作は作り出されてきた側面は強い。
生活に安心できなければ芸術活動は続けられないので、自分の描きたい絵も我慢して大衆向けの絵を描きまくっていた、という絵師だって珍しいことではない。
そのような経済的な事情から解放されて自由に芸術に専念している人間は、よほど芸術の神であるミューズの加護を受けているのだろう。

昔は人と会わなければ物事が進まなかったが今は分業化が進んで各々の仕事をこなして、あとは投げっぱなしにすれば、組織化ができているところなら物事は進む。
なので余計に独善的になりがちな環境が揃っている。
権利と利益を主張する時「我こそが利益を……」と考えるようになるのは当然だと思う。
特に将来に対して不安を抱いている人間ほど主張するだろうし、不安感からもまくし立てたくなるほど主張したい気持ちも湧き起こってくるだろう。
そんな中、自分のキャパシティー以上の権利を持ちたがったり、主張をして、結果として果実を得ても、自分で消化しきれないばかりに、そのほとんどを腐らせるということをやりがちなのも、強欲が招く悲しい結末だったりもする。
大体自分で全部やっていないのだから、自分がさばくことのできないことまで抱え込み、結局は両手で抱えきれない状態、「手が足りない状態」になっていることにも気がつかず、零れ落ちたものを自分の足で踏みつけてはいやしないだろうかと権利と主張を繰り返す人間は少し考えて欲しいと、ここで勝手に思うわけです。

権利のことで言うならば著作権は時代とともに変化してくるし、うまく回らなくなるシステムは変化させていく必要がある。
「我こそが」と主張すること事態は悪いことではないが、これからの時代ネット化が進み電子化が進むのだから、よほどの自信があり組織化の能力があるのなら「我こそは」と主張すればよいと思うし権利も持てばいいと思う。
結局は自分でこなせない限りは宝の持ち腐れだし、いずれにせよ「儲けたい」のならば1000人規模以上の人間を巻き込まない限りは立ち行かないのだから「自分ひとりでやっている」という意識はこれから先内省的に見ないと、思わぬところで乗り換えられたりして泣きを見るだろう。

電子という脆い空間ではあるが、芸術家にとって昔の人間から見たら前代未聞の好条件が揃ってきている。
一度自殺した芸術家だって、また生き返りたくなるほどの。

後は道具の使い方とプロセスの問題だけになる。
本当に自分ひとりでできるのならやればよいだけの話。
その条件さえも揃っているのだから。
もしできないのなら自分にこそ優先的な権限があると考えるのではなく、あくまで協力的な気持ちでいないと、思い描いた錯覚のどつぼにはまって、やがてジリ貧になる。

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03/30

Fri

2012

ジョン・ケージ 前衛的過ぎて前のめりになる

朝から前衛的過ぎたジョン・ケージ。
初めて知ったけれど、はてさて酷いと取るか、素晴らしいとするか。

NHKBS朝6時からのクラシック倶楽部でたまにモダンクラシックをやっているけれど、いつも刺激になる。
というより、街の中の滅茶苦茶な状態の音に囲まれている自分は、時折優雅なクラシックよりもずっとしっくりくることがある。
さて、そのBSではやらなかったけれど、ジョン・ケージの代表的作品「4:33」をご覧いただきたい。











むしろ馬鹿にしているのかという具合の沈黙。
何もせずに終わる。
オーケストラでこれをやってのけるのは、ある意味凄い。

私は途中で不安になった。
自分を炙り出された感じ。
一分少々でもう耐えられなくなるのだから、これが自分の集中力の限界なのだと気がつく。

この「4:33」は「音楽」ではないかもしれないけれど、ひとつ気がついたことは、目の前に楽器がある、オーケストラも指揮者も演奏者もいる。
だったら絶対音楽を奏でるだろうという前提で私たちは座る。
そして「聞こうとして待つ」わけだ。
つまり私たちは「意味を前提にして動いている」ということがわかる。
その「頭の中で思い描いた通りの意味」が目の前で起こるであろうことを前提として物事を受け入れようとするわけだ。

これがジャングルだったらどうだろう。
「目的」を前提として動くのではないだろうか。
野生では生き残ることが最優先される。
食料を探す、新しい水場を探す、地形を知る。
「生きる」という「目的」のために行動する。

今度は現代都市の中では仕事がありお金が定期的に入る環境下ならば「生きる」ことは既に担保されている。
その「生きる」という空間も様々なシステムや人間の思考によってカスタマイズされている。
つまり「意味」が最優先され、その「意味」を「飲み込むか」「飲み込まないか」という前提で物事が成り立ちだす。
「意味」があって、初めて「目的」が出てくるのです。
だから当然その人間の思考で理解できる最小単位の中に「行動」が納まっていく。

「意味を共有する現代空間」に対して「4:33」は「意味」も「目的」も打ち砕く。
何のためにオーケストラを前にして4分33秒も黙って座っていなければいけないのか。
しかも目の前には「ルール」だけが存在している。
つまり「演奏中は静かに聴く」という「音楽を聴くときのルール」だけがある。
「目的」も「意味」もないルールって一体何なのか。

ルールを強いるならば、目的か意味か、どちらかが与えられるべきだろうという気持ちになる。
とにかく人間は「感じるものに何らかの意味や目的を与えたがる」という心理を炙り出すわけですね。
無音であろうとも何も感じずにいようとも、究極的には「無我の境地」があるわけですが、そんなもの常人が辿りつけるような境地ではないので、生活空間内での自分のリズムや考え方や行動の癖が、ひとつの「ルール」を前にして炙り出るというのは面白い反応でした。

これはピアノでよくやられるようですが、むしろオーケストラの方が威力があるし、楽章の休みまでの微妙な感覚が嫌な居心地の悪さを覚えさせます。
この「居心地の悪さ」が、自分の中に勝手に渦巻いている「モダンの意味とリズム」であるとするならば、我々は本当に「現代の意味のリズム」に巻き込まれ、そして心をそこへ投げやったまま、取り戻せずにいるのではないだろうか、というのが私の今回の感想です。

ここから日本の小説ははたして「モダニズム」を本当に経験したのだろうか、という疑問と、当然「モダニズム」を経験しつくしていないのだから「ポストモダン」などあろうはずがない、というのがひとつ見えてくることであります。
そういう意味では日本の小説は一世紀ほど遅れているのかもしれませんね。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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