音楽が売れない、という声はもう10年ほど前から出始めている。
相変わらず10年経った今も業界関係者は嘆いている。
私は最近「コンテンツを磨く」ということをずっと考えている。
磨くということは、ある意味挑戦的でなければいけないし、ある意味骨太のところを作りこむということでもあるし、場を作るということでもある。
ある掲示板に、音楽に対するひとつの意見が書いてあり、はっとさせられた。
「昔はラジオとかを録音して、たくさんお気に入りの曲を繰り返し聴いた。大人になってお金が入るようになってから大人買いしたもんだ」
最近ブックオフに持っていたCDをほとんど売ってしまった。
大事に取っておいたが今はネットで無料で聞けるというのもあるし、音に対する趣味が変わったというのもある。
本当に今も聞くだろうCDだけ残したら300枚くらいあったのが100枚を切った。
本では二束三文にしかならないがCDだとプレミアがつく場合もあった。
おかげで必要なものが買えた。
大事にしていたつもりが売ってしまうと別にたいしたことなかったようにも思えてくる。
聞きすぎて飽きたというのもある。
さて、音楽についてだが、買いたいと思う前に、まず歌にはほとんど興味を失ってしまった。
今流行の曲は、どれもこれもダンスやパフォーマンスとセットで歌そのものに魅力がないし、詩も凄いなと思うものが減ってしまった。
メロディも外さないように必ず王道、つまり売れ筋に乗っけて作ってくるので、広がりがない。
本当にコアなファンは自分で見つけて、テレビにはまず出てこないような、かつ音楽業界では実力派の人たちを見つけてくるのがうまいが、素人はそうもいかない。
今はYoutubeで偶然見つけて初めてお気に入りにする、といった感じだ。
こんな風に私の場合「検索で見つけた偶然」でなければ、優れたものに出会うことがない、というのがひとつあげられる。
今のコンテンツ作りを見ると、ほとんどが短命であることがあげられる。
例えば個性があるなと思った人たちでも10年20年やっている人たちはいない。
音楽の消費も早いし、まるで旬が過ぎたら「もう古い」といわんとばかりに人の流動性が高い。
各メーカーも、金銭的な焦りから、まるで売れ筋をコピーしたようなものを使いまわす。
ここらへんはテレビに出てくるような人たちを言っているのだが、歌に興味を失ってから、あまり出てくる人たちがわからなくなってきた。
ジャニーズやAKBや韓国の人たちばかりで、なんだか同じものが今日も同じように演出されているといった感覚すらする。
なぜ、こんな事態になったのか。
ふと、先ほどの言葉を思い出す。
本当の「ファン」とは、何年もファンで居続けるが、短命であるばかりにきちんとファンを大事にできていないのではないだろうか、育てていないのではないだろうか。
ファンが育ってこないと、当然場も作られない。
作られた場がいとも簡単に放棄される。
私はアニメもたまに見るのだが、数年前「キャシャーン」が新たにリメイクされた。
それは元々やっていた「元祖キャシャーン」とは、まったく趣が違って、抑えた表現で滅びの世界を題材にした一種の童話のようにもなっていて面白かった。
しかしネットで見ている昔の人たちは主題歌が気に入らなくて昔のキャシャーンのOP曲を入れて喜んでいた。
趣が違うし、きちんと中身を見たら昔のOP曲が合わないことぐらいわかるのだろうが、中身を見る前に外見からもう先入観で判断している。
昔からの根強いファンは、今でも昔愛したものを大事にしていることがよくわかる。
よく「ファンを大事にしろ」とは言われるが、一体何のことだろう。
我々表現者は「ファンを大事にする=人を大事にする」ということでは、少し意味も伝わり方も違うし、この言葉では何か違和感がある。
何故なら「表現物」があって初めて表現者にファンなるものがつくからだ。
私はここは「愛される場を作りこむ」という表現が一番しっくりくる。
「場」にはコンテンツも作者もファンも練りこんで成り立つ空間だ。
今読み物の空間においても携帯小説やライトノベルが若年層に支持されている。
私はちょっとした危機感を感じていて、「思春期に印象深かったものは、大人になっても愛し続ける」と考えている。
なのでもし文学よりもこちらの方が数多く読まれているのなら将来的には文学は売れないものとして規模が半分以下に縮小されるのではないか、超ニッチな読み物になるのではないか、という懸念をしているのだ。
いや、それよりも「文学」はすっかり様変わりするだろう、とすら思う。
今「ライトノベル」と呼ばれているものが「文学」に入れ替わってしまうかもしれない。
今の中年層には本当にピンとこないだろうし、何を言ってるんだと思うだろうが、じゃあ逆にお伺いしたいのは「今あなたが愛している音楽や本は思春期や青年期など印象深かった時期に愛したものとどれだけ違ってきていますか。10年前とはジャンルも領域も違うものを愛していますか」ということだ。
人間、よほどの心境環境の変化がない限り、以前たしなんでいたものから逸脱することはない。
口癖も考え方も行動様式も変化しているようで元の自分をベースにして動いている。
人はそう簡単に自分を変えられないのだ。
さて、話を戻すが「コンテンツを磨く」ということは場を作りこむための仕掛けそのものであると考えている。
そこに「愛されるべき空間」を作るための仕掛け作りだ。
これは「自分が好きなものを投入する」こととはまったく違う。
「自分が好きなものは愛されるべきだろう」という考えとはまったく違う。
私はヘレン・ケラーが映画出演していたことを知らなかった。
彼女はより広く障害者の立場を理解してもらうために様々な場に積極的に出た。
その中で映画にも出演していたのだという。
このことは「文学だからこうしなければいけない」とか「音楽だからこうしなければいけない」という考えは、ただ意固地なだけで手段としての広がりを欠くことのようにも見えてくる。
もちろん、芸は職人の道なので腰を落ち着けなければできないことがあるので、そちらができてから、という話なのだが、裾野を広げられなければ尻すぼみになることは目に見えている。
だからこそ挑戦なき者は常に淘汰されたか、狭い環境の中に押し込められた。
スピルバーグ監督はゲーム業界に興味を持っていることをNHKでやっていた。
「イマジネーションが刺激される」というようなことを言っていた記憶がある。
コンテンツの世界は「イマジネーションへの挑戦」でしか切り開けない。
イマジネーションという魔法で愛される場を作りこむしかない。
そうして5年10年と経って、ようやく場として機能しだすのかもしれないと思っている。
元々芸術とは金銭的な見返りではないところに価値を見出す行為だ。
そこに、値段をつけていくという難しさに常に悩まされることになる。
そしてもし芸の世界に興味を持っているのならば、色々と覚悟したほうがよい。
心血注ぐことに面白さを感じなければやっていけるものではない。
コンテンツを磨くということは「業界を作りこむ」ということでもある。
自分ひとりだけの問題ではなくなってくるのだから、自分の携わっているものだけに目を向けることがないようにもしないといけない。
こういう広い視点は「愛すればこそ」なのかもしれない。
その「愛情」が「偏見」にまみれていてはいけないということだ。
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