世の中が劇場化され、さらに記号化され、そしてその記号が形骸化する現象が進んで既に半世紀以上も経っている。
しかしまだ日本の文学は記号とその役割における文学を示したものが、ほとんど出現せず、ようやく扉が開きかけているところまできている。
どうやら、日本の文学史はモダニズムを体験していないらしい。
さて、モダニズムとは何か。
世の喧騒から浮かび上がる消費される記号、言葉たち。
それらがふわふわと軽い意味で使われ、飾りだけ派手になって、そして忘れ去られる。
消費の速度がめまぐるしいので、中身までつめなくていい。
外見だけ飾り、やがて本来中にあった機能は失われ、そして外枠だけ残る。
技術も精神性も失われ、そしてかつて何々が存在した、という記録だけが残る。
それが現代人の消費なのなら、それが現代人の言語感覚なら、それを表現したものをとことん作ってやろうじゃないか。
そして彼らが意識せずに行っている、文化への血抜き行為を、そのまま表現してやろうじゃないか。
そして日本の文学史はモダニズムを経験する。
記号と感覚が羅列されたように見えながら、計算して配置されるそれらの消費物というなの言語。
それが日本文学におけるモダニズム。
私が示せる仕事かもしれない。
しかしこんなものは、早くて5年。
遅くても10年で卒業しなければいけない。
だからといって経験しないのも了見が狭すぎて目も当てられない。
いつまでも墓を拝むのはいいが、未来へ進まなければ、我々は進歩しない。
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