人には色々な才能がある。
はたから見ると、何かに優れている人は、他のことにも優れているのではないか、と思いがちだし、実際私もそう見ていた時期がある。
しかしよくよく人を見ていると、まったくそうではなく、ある能力が突出しているからといって、別に他の能力があるというわけではない。
これは逆でも言える。
なので、人は本当にじっくりと見ていかないと、判断を誤るし、やたら他人の才能のみを潰す俗物に成り下がる。
例えば、話をよく聞ける人、よく覚えられる人、人の話を他人にもよく伝えられる人。
こういうタイプがいたとしても、聞いた話を実行できるかどうかというのは別能力になる。
実行力というか、実効性におけるプロセスを組み立てられない人がいたとしたら、たいてい「あの人、人の話はよく聞けるのに、なんでできないんだろうねえ」となりがちである。
通常この手の錯覚は、ただ眺めている人には気がつかないし、そつなくこなす人にも理解されない。
精神論というのもあるが、あの人が怠惰なのは気持ちがだらけているから。
お前らがきちっとしないのは甘え。
そう言うのはかまわないし、考えるのも自由だろう。
だが、その人たちが気がつかないのは、「何故世界を統一する宗教や思想が存在しないのか」という単純明快な疑問である。
つまり言葉一つで、他人に現象や事実を伝えたからといって、何故人は変われないのか。
明快な答えがあるのなら、何故人はそれに従えないのか。
多くの人が気がつかないのは、自分で発した投げかけに対して、既に通じない部分があるのなら「失敗」しているのに、いつまでもそれに気がつかないのは、異種のものに対して物を見る能力がなく、内省的に自己の思い込みを哲学する能力がないからだ。
この手の人は自分のことがよくできたり、強いコンプレックスを別の能力で補っていたりする。
または社会的に虐げられていて、酷く精神が卑しい状態になっている場合もある。
歌がよく歌える。
優雅に暮らしている。
お金もたくさん持っている。
だからといって、人間的に優れているとは限らない。
話が得意ではない。
いつも黙っているし、コミュニケーションもうまく取れない。
集団に参加しても一人ぼっち。
あいつはどうしてここにいるんだ、使えないやつだと思われていたとしても、手先が器用かもしれない。
実は記憶能力が優れているかもしれない。
人の能力を見つけるには、かなり時間がかかる。
しかもそれは自分で見つけなければいけないし、社会の評価と一致しないかもしれない。
一致しない場合は「趣味」という部類に入るし、その「趣味」が社会の評価と一致するのならば「仕事」にできる。
他人がどう言ったからといって、個人の能力や未来に開花する才能まで限定されはしないが、普通は落ち込むし、自分はダメだ、能力なんかない、社会では評価されない、と投げやりになってしまう人もたくさんいるだろう。
だいたい他人なんて、どんなに親しかろうと、結構ぱっと言ってしまいがちなところがある。
自分を大事にできるのは最後は自分だし、延ばせる可能性、好きになれる素質を見つけたのなら、ひたすらそれを探求し、自分で辛さを受け入れながら能力を伸ばしていくしかない。
もし、できる人になったからといって、今度は自分が他人の能力を卑下するような人間になったのだとしたら、ただの下賎の輩であろう。
才能は容易には伸ばすことはできない。
だからこそ否定こそ慎重に、注意深くしなければ、小さく芽吹いた若葉を大きな足で気がつかずに踏み潰し、それを繰り返した挙句、何の才能も開花しなくなるという状態にまで追い込むこともありうる。
失敗は糧。
うまくいくことこそ少ないのであるから、人間はその身にたくさんの傷を負いながら、成長していくものであると考えております。
他人の才能や能力を大事にできる人間が増えれば、人も国も本当に豊かになるに違いない。
その理想郷を願いまして、本日の考えはこれにておしまい。
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