朝から前衛的過ぎたジョン・ケージ。
初めて知ったけれど、はてさて酷いと取るか、素晴らしいとするか。
NHKBS朝6時からのクラシック倶楽部でたまにモダンクラシックをやっているけれど、いつも刺激になる。
というより、街の中の滅茶苦茶な状態の音に囲まれている自分は、時折優雅なクラシックよりもずっとしっくりくることがある。
さて、そのBSではやらなかったけれど、ジョン・ケージの代表的作品「4:33」をご覧いただきたい。
むしろ馬鹿にしているのかという具合の沈黙。
何もせずに終わる。
オーケストラでこれをやってのけるのは、ある意味凄い。
私は途中で不安になった。
自分を炙り出された感じ。
一分少々でもう耐えられなくなるのだから、これが自分の集中力の限界なのだと気がつく。
この「4:33」は「音楽」ではないかもしれないけれど、ひとつ気がついたことは、目の前に楽器がある、オーケストラも指揮者も演奏者もいる。
だったら絶対音楽を奏でるだろうという前提で私たちは座る。
そして「聞こうとして待つ」わけだ。
つまり私たちは「意味を前提にして動いている」ということがわかる。
その「頭の中で思い描いた通りの意味」が目の前で起こるであろうことを前提として物事を受け入れようとするわけだ。
これがジャングルだったらどうだろう。
「目的」を前提として動くのではないだろうか。
野生では生き残ることが最優先される。
食料を探す、新しい水場を探す、地形を知る。
「生きる」という「目的」のために行動する。
今度は現代都市の中では仕事がありお金が定期的に入る環境下ならば「生きる」ことは既に担保されている。
その「生きる」という空間も様々なシステムや人間の思考によってカスタマイズされている。
つまり「意味」が最優先され、その「意味」を「飲み込むか」「飲み込まないか」という前提で物事が成り立ちだす。
「意味」があって、初めて「目的」が出てくるのです。
だから当然その人間の思考で理解できる最小単位の中に「行動」が納まっていく。
「意味を共有する現代空間」に対して「4:33」は「意味」も「目的」も打ち砕く。
何のためにオーケストラを前にして4分33秒も黙って座っていなければいけないのか。
しかも目の前には「ルール」だけが存在している。
つまり「演奏中は静かに聴く」という「音楽を聴くときのルール」だけがある。
「目的」も「意味」もないルールって一体何なのか。
ルールを強いるならば、目的か意味か、どちらかが与えられるべきだろうという気持ちになる。
とにかく人間は「感じるものに何らかの意味や目的を与えたがる」という心理を炙り出すわけですね。
無音であろうとも何も感じずにいようとも、究極的には「無我の境地」があるわけですが、そんなもの常人が辿りつけるような境地ではないので、生活空間内での自分のリズムや考え方や行動の癖が、ひとつの「ルール」を前にして炙り出るというのは面白い反応でした。
これはピアノでよくやられるようですが、むしろオーケストラの方が威力があるし、楽章の休みまでの微妙な感覚が嫌な居心地の悪さを覚えさせます。
この「居心地の悪さ」が、自分の中に勝手に渦巻いている「モダンの意味とリズム」であるとするならば、我々は本当に「現代の意味のリズム」に巻き込まれ、そして心をそこへ投げやったまま、取り戻せずにいるのではないだろうか、というのが私の今回の感想です。
ここから日本の小説ははたして「モダニズム」を本当に経験したのだろうか、という疑問と、当然「モダニズム」を経験しつくしていないのだから「ポストモダン」などあろうはずがない、というのがひとつ見えてくることであります。
そういう意味では日本の小説は一世紀ほど遅れているのかもしれませんね。
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