「海は海だけで成り立っているわけではない」
この言葉はコンブ・ワカメなどが不漁になったとき、ある漁師が「山の栄養分が海に流れ込んで初めて昆布は育つ」ということに気がつき、植林などに力を入れたエピソードからの言葉だ。
元々事業主と雇用者どちらが優先的な権限を持っているかと言うと、もちろん事業主だ。
だからこそ使われている立場では、よほどの組織の有利になることではない限り利益を阻害する活動は許されない。
つまり「文句を言うなら代案を出せ」というのもここにあるし、稼ぎもしないのに権利を主張するのはお門違いであって、会社にも資金という体力があるので、これらの範疇を超えてくるものは用済みとせざるを得ない。
誰かの世話になっているうちは、その世話している人間の口出しをたくさん受けるし、その人物の意見が理不尽であろうとも優先されがちなのは言うまでもない。
簡単に言うなら「文句言うくらいなら自分でやれば?」という話になってしまう。
ところで、製作者はとても孤独だ。
例えば私の場合文学活動をしていて、1ヶ月、長いときは3ヶ月だって平気でこもってひとつの作品を書き続ける。
その間はほとんどずっと一人でこもりっきりでやるわけだから、当然ある種の独自性を持ってくるし、悪い言い方をすれば独善的になるのはしょうがない。
そして錯覚しがちなのは「自分こそが一番働いたので自分こそが優遇されるべきだ」という意識だ。
この意識は自然と芽生えてくるし避けられない感情だろうと思う。
大物であろうと素人であろうと、よほど自制的であり自省的な人間でない限り、どんどん育ってくる感情でもある。
出版、特に出版ではなくとも組織を絡めて世に何かを発表する場合、自分が思っている以上に多くの人間が関わっている。
それこそ水道ガス電気と同じようなもので、そのライフラインを保つのにどれだけの人間が関わっているか想像できないのと同じだ。
なので例えば私が著作物を出したとき「私こそが利益を被るべきだ」と考えがちだし、編集者は編集者で「私が編集しなければ作品は磨かれなかったので利益を……」、会社は会社で「こちらが金を出して、すべてをまかなっているので、出資者が一番利益を……」となりがちである。
そうしてこの経済社会は、お金に関わる人間たちは、自分たちの利益が少しでも増えればよいと欲を主張する。
欲を主張しなければ他者に侵害されてくるのだから、防衛策としても権利と主張は繰り返す。
ここで共通する意識とは「自分が欠けたら成り立たないだろ」という自負心と自尊心だ。
元々芸術とパトロンの関係は古今東西根深く、パトロン、つまり出資者のオーダーや力に従って世の傑作は作り出されてきた側面は強い。
生活に安心できなければ芸術活動は続けられないので、自分の描きたい絵も我慢して大衆向けの絵を描きまくっていた、という絵師だって珍しいことではない。
そのような経済的な事情から解放されて自由に芸術に専念している人間は、よほど芸術の神であるミューズの加護を受けているのだろう。
昔は人と会わなければ物事が進まなかったが今は分業化が進んで各々の仕事をこなして、あとは投げっぱなしにすれば、組織化ができているところなら物事は進む。
なので余計に独善的になりがちな環境が揃っている。
権利と利益を主張する時「我こそが利益を……」と考えるようになるのは当然だと思う。
特に将来に対して不安を抱いている人間ほど主張するだろうし、不安感からもまくし立てたくなるほど主張したい気持ちも湧き起こってくるだろう。
そんな中、自分のキャパシティー以上の権利を持ちたがったり、主張をして、結果として果実を得ても、自分で消化しきれないばかりに、そのほとんどを腐らせるということをやりがちなのも、強欲が招く悲しい結末だったりもする。
大体自分で全部やっていないのだから、自分がさばくことのできないことまで抱え込み、結局は両手で抱えきれない状態、「手が足りない状態」になっていることにも気がつかず、零れ落ちたものを自分の足で踏みつけてはいやしないだろうかと権利と主張を繰り返す人間は少し考えて欲しいと、ここで勝手に思うわけです。
権利のことで言うならば著作権は時代とともに変化してくるし、うまく回らなくなるシステムは変化させていく必要がある。
「我こそが」と主張すること事態は悪いことではないが、これからの時代ネット化が進み電子化が進むのだから、よほどの自信があり組織化の能力があるのなら「我こそは」と主張すればよいと思うし権利も持てばいいと思う。
結局は自分でこなせない限りは宝の持ち腐れだし、いずれにせよ「儲けたい」のならば1000人規模以上の人間を巻き込まない限りは立ち行かないのだから「自分ひとりでやっている」という意識はこれから先内省的に見ないと、思わぬところで乗り換えられたりして泣きを見るだろう。
電子という脆い空間ではあるが、芸術家にとって昔の人間から見たら前代未聞の好条件が揃ってきている。
一度自殺した芸術家だって、また生き返りたくなるほどの。
後は道具の使い方とプロセスの問題だけになる。
本当に自分ひとりでできるのならやればよいだけの話。
その条件さえも揃っているのだから。
もしできないのなら自分にこそ優先的な権限があると考えるのではなく、あくまで協力的な気持ちでいないと、思い描いた錯覚のどつぼにはまって、やがてジリ貧になる。
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