昔の書生で本を売って安酒を飲む、というエピソードはどこかで聞いたことがあるでしょうが、基本的に作家などという偏屈な「職業」は貧乏で当たり前なのではないか、という気が「ゲゲゲの女房」見ていて思いました。
なんで今更「ゲゲゲの女房」かというと、後半から見ていて、前半は見ていなかったのです。
それで朝BSでやっているので、わりと最初の方から見ているのですが、水道ガス電気料金を3ヵ月滞納し、しょっちゅう取り立てにくるという様子や、背広さえも質屋に出し、鍋も味噌もないボロ屋で、しかも窓を開けたら墓が見えるという、とんでもない生活を見ていると、どうも親近感がわくというか、そもそも作家は「金のため」などという邪な目的で少しでも動いたら、とてもじゃないがやっていけず、精も根も尽き果て、やがて投げ出すに決まっているのだという実感がじわじわとわいてきているのです。
「どうして続けるのか」
この問いには作家各々の考えが必ず出てくるでしょう。
理屈で並べ立てられないものもあるでしょうし、常日頃から「チクショウ」と思いながら考えに考えまくっている人もいる。
しかし最初から見返りの十分ある人は珍しいし、あったとしても途中で落ちていく人がほとんどです。
どのような手順で作家になったとしても「作家」という「状態」を維持させるには、やはり基礎的なもの、取材力や観察力や知識力は絶対必須で、これらがなければ鍛え直すしかなく、これらの実力通りに自分の評価が落ち着く、ということは実体験からよくわかりました。
どうにも現代の作家のトップは普通に働いたのでは手も足も出ないほど稼ぎまくっていますが、一体その下にどれだけの人数がいるのかということは、だいたい目指す人は考えません。というか、おそらく考えたくもないのでしょう。
だいたい「俺の方ができる」という自尊心、自惚れ、勘違いはどこから来るかというと「未経験の妄想」ゆえの浮いた考えで、別にこのことではなくとも、人間は実践していない事柄については、手応えを一度も経験していないので、テレビを前に煎餅をかじりながら寝転がり「ダイエットなんて簡単にできるわ」と、いつまでもやらない人と、ほとんど大差ないくらい適当です。
以前にも書きましたが、本当に作家で食っていける、今有名な人間よりも上に必ずいける、という自信がなければ、「専業」ということは考えず、手に仕事をつけて片手間でやった方がよいです。
さもなければ人生を破滅させますし、犠牲にするものばかり大きくなります。
家族や親友や人生などを犠牲に捧げながら、始めて夢を追うことができるのだと私は考えています。
そして行動したからといって必ずしも叶うわけではなく、ただ「夢の残骸」のみが残ることも覚悟してやっていただきたいと思うわけです。
専業のリスクというやつですね。
夢を追うことを教えても、夢を追うことはいかなることか、そのリスクはどうなのか、ということは全然教えません。
結局夢を売り物にして稼ぐのが一番儲かるんじゃないか、欲望をくすぐるのが一番受けるんじゃないのか、そんな気さえしてきますが、続けていく上で大事なことは「好きかどうか」の一点につきます。
自分がその作業を捨て去ったら未練はないのか、後悔しないのか。
どっちつかずで揺れる人は一度捨ててみればよいのです。
それで何らかの理由がついたとしても振り向かなかったら続けるだけの才能はなかったとキッパリ判断できます。
意外に「一度捨ててみる」という手段は使えます。
迷っている場合、一度離れてみる。
それでもやりたくてしょうがない。どうやら好きらしい。
そんな気持ちが自然と湧き上がってきて居ても立ってもいられなくなったら、才能があるのでしょう。
「好きになる」ことが根底にないと、いくらでも崩れ去ります。
好きであれば貧乏でも何でも、なんとか続けていけるものなのです。
それで死んだとしても、本望だと思いますよ。
人生河原の石よりももっと重いものをゴトゴトと積み上げ、時に何かに誰かに崩されながら、それでも積み上げていく作業に似ているところがあります。
失望にまみれたとき、一握りの勇気を与えてくれるのは、「やっぱりこれが好きだったんだ」という感情です。
飛ぶ鳥に憧れるでしょうが、大抵は地を這ってでも進むものなので、あまり小奇麗な夢は持たない方が安定して進めますよ。
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