「才能」というものをきちんと述べられるほど多くのものを見ているわけではないので、きっと「才能とは何か」という文章を書けるまで、あと10年20年かかっていくのだろうなと思っている。
今日は記録のための愚痴ブログになることをあらかじめ記しておきます(笑)。
なので極めて個人的な心情を展開するので何の役立つ情報がないことをあらかじめ書いておきます。
たいてい書いている人って、それなりの情熱を持って、楽しみを持って、思い入れを持って書いているので、きっと自分の作品は他の誰よりもおもしろいに違いないと少なくとも信じている部分がある。
こういう気持ちがなければ怖くって書けないのも確かだし、長文を書いていくにはこの手の高揚感が必要になる。
たとえそれが錯覚であったとしても、完成したときの達成感がないと、とてもじゃないけれどやっていけるものではない。
今日「カーネーション」というNHKの連続ドラマ小説で、よい台詞があった。
あのドラマは成功のためのヒントが数多く含まれている。
ビジネスの教材にできるぐらい凄いドラマだとも思っている。
もったいぶらずに、その台詞書けよと言われそうだから書く。
一字一句はあってないが下記のニュアンスで言っていた。
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
と、将来の世界的デザイナーがお母ちゃんに説教されるシーンがあった。
店の構えもアバンギャルドすぎてデパートの支配人から「品のある店構えを」と散々きつく言われる。
そりゃあ今だからこそ世界のジュンココシノだとわかっているから安心して見ていられるが、当時の感覚としてはどうだったろうか。
もうあまりにも前衛的過ぎてついていけないものがあったのではないだろうか。
HPを見ても現在でも非常に前衛的であることがわかるし、デザインと人がきちんとマッチングするための洗練された感覚が一目で分かる。
ちなみにHPはこちら。
ヒロココシノ、
ジュンココシノ、
ミチココシノ。
今となってはセンスの凄みが世界中に知れ渡っている。
でもね、誰が将来世界的に有名になれるなんて保証できますか。
誰もできない。
もしかしたら失敗したかもしれない可能性がたくさんあった。
その「失敗した可能性をどう改善したか」があのドラマには本当にたくさん込められている。
ということで長くなりましたが、
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
という台詞まで戻ります。
この台詞は文章にも言えることではないかなと強く感じたのです。
いえ、芸術全般に言えることなんじゃないだろうか。
文章に限って言えば「読んでいる人がアクションを起こしたり、心の中でなんらかの強烈な印象を抱くことでようやく完成する」とも。
当然終わりのない、半永久的に続いていくことではありますが、やはり作品と受け手の因果は「受け手を見抜く発信者の心意気」にあるような気がいたします。
そして最後に完成されるのは「読み手の心の中」であります。
いや、今日は愚痴を書こうと思ったのですが、いわゆる私なんぞは「落ちこぼれ街道まっしぐら」のペースで歩んでいます。
それで周囲の人が自分よりも活躍するとイライラするわけですね。
差し置かれていっているような気がして。
でも本当は自分に才能がないだけかもしれない。
それよりも活躍している人は才能の片鱗を誰かに認められているわけで、そういうものを無意味にいちいち比較して現在の自分に当てはめて落ち込むわけです。
落ちこぼれは非常に強いコンプレックスがあり、その卑屈な感情を刺激されると包まれてあった柔らか膜が破けて一気に汚物が中から出てきて汚さをまき散らします。
長年積み重なった卑屈さがありますから、「そんな気にしなくても君は君だ」と言われてなんとかなるほど軽いものではないのですね。
それで大抵コンプレックスを持っている人が小説やお話を書くなんていう根暗なことをやり始める。
自分の心への一種の救済行為として始めるのですね。
だからまず人に認めてほしいという感情が全面に出てくる作品が出来上がります。
自分の実現したいことや鬱憤などが当然出てくるので、どうにも読んでいられないものが出来上がる。
それでも自分としては懸命に、それこそ生涯で使ったことがないのではないか、というくらいに情熱を注いで作り上げますから余計に否定されると全人格否定を受けたような衝撃を受けるわけです。
笑い事ではなく、本当に。
素人がやっているわけですから、プロの世界などしるよしもなし、こんな文章などでは通じないしもっと洗練させてたくさん文章を読んで他人の技術とか発想とかを盗んで身につけないと到底生涯やっていけるはずはないのに、なぜか自分を「天才」のように錯覚してしまうのもこの頃です。
だいたいコンプレックスを持っている人間は通ってくる道だと私は勝手に思っているわけですが、素人の皆さんは思い当たることありませんか?
ということで今現在私は自分自身にとても無力感を感じていながらも、「まだ達成できていない数々のこと」に思いを巡らせながら「俺の実力はこんなもんじゃねえ状態」で頑張っているわけです。
「才能って何だろうね」ということは何度も考えたし、自分の才能のなさに本当に大泣きしたこともあります。
正直に告白すると去年応募した坊ちゃんの文学賞はやたら自信があっただけに最終選考に引っかかりもしない惨めさに号泣しました。
これホント。
それぐらい情けなくて申し訳ない気持ちでいっぱいで生きているのも肩身が狭いというのに、ああ、どうして自分はここに意固地になってしがみついているのだろうと考えたりするわけです。
結局、これを奪われたら本当に自分の軸のようなものがすべて引っこ抜かれるような感覚になってしまうからなのだろうなと思うところがあります。
こういうので食っていける、成功する、芸術分野において、そんな次元にまで行くには人生一つ賭けていかないとダメなものなのではないかと思うところがあります。
食えなくて連絡とれなくなって飢え死にしているんじゃないかと思われるような末路も見ているので自分も覚悟しなければいけない部分が大きいのですが、思い返してみれば長年思い描いてきて「創作のための環境」が少しずつですが整いつつあります。
それは自分の努力の部分による所は少なく、ただの幸運ではないかと思ったりもしますが、これも「誕生」のためには必要なことであって、「誕生」のための条件も整いつつある。
去年の終わり頃から「そろそろこの埋もれた状態に終止符を打ってもよいのではないか」「こちらで味わうことは一通り味わった。屈辱も苛立ちも」と思い始めているのですが、まだ何かが足りないのかもしれません。
それがわかったらすんなりいくのかもしれませんが、ああ、ひとつだけわかっているのは「技術」と「面白み」ですね。
これがまだきちんとわかってないんじゃないかと思うわけです。
そろそろ、素人の域は出たのではないかと勝手に思っているわけです。
それと常々思っているのですが「素人だからと言って何も擁護されない。素人でもプロ根性でやらなければ、いざプロになったときに使い物にならない」という気持ちを持ってやっております。
いくら言い訳しようとプロになったら結果がすべて。
結果を出せないものは忘れ去られ時代にも人の心にも残らない。
芸術家の厳しい運命がここにあります。
どうしてしがみついているのか。
もうひとつ理由があります。
前にも何度か言っている理由の他に不思議な縁についての理由がもうひとつあります。
それは必ず一人二人直接「書いてください」とお金を払ってくれる人がいる。
一人二人とか思うかもしれませんが、少なくとも一人でも二人でもいるって凄いことじゃないですか。
しかもネットでショッピングするって結構な手間がかかるのですよ。
店頭で財布から出すのと違ってカバンの鍵を開けて、巾着の紐を解いて、中のお金を取り出して、というぐらいの手間がちょっとかかるのですが、それでも買ってくれるってことはやっぱり相当なんだろうなと思うわけです。
アホらしいと思われるかもしれませんが、こういうところにもしがみついているわけですね。
いきなり大きなところから考えていたらどうしようもないわけですよ。
いきなり不特定多数の人のことを考えていても道を踏み外すような気もするのですよ。
自分は着実に進んでいる。
そして遅いペースではありますが、応援してくれる人もいる。
この先もしかして儲かってしまったら忘れるかもしれないこの気持ちを、きちんと覚えておいたいのと、やっぱり今の状態にもの凄く苛立ってどうしようもなく周囲をけなしたいと思いつつ、一番寂しい思いをするのは自分だとわかりきった私がここにいることを、ちょっと記録したくて今日は長々とつまらぬ日記を書いた次第でございます。
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