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あさかぜさんは見た

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03/27

Tue

2012

技術は常に示唆を与える

※結果的にグダグダになったのでメモとして記録。

受け売りの言葉だが、なるほどと思った言葉がある。
それは、
「道具には二つの側面があり、一つは人間が使用して道具に目的を与える面と、もう一つは道具の形状や性質などにより人間が目的を見出す、ということだ」

前者の場合、小枝を切るために使い続ける刃物、サバイバル用も含めると、時として動物をさばくこともあるかもしれない。
そんな風に使うことによって道具に目的を与えている。

後者の場合、本来はまな板のように使っていたつもりが、ものを叩くための板になり、そのうちすりつぶすようになり、板では足りなくなったので、すり鉢のようにする、ということだ。
そこまで進化しなくとも、動物を殺し食料を確保するための弓矢が、人間同士の勢力間での食糧確保のための暴力的手段になる、ということだったりもする。

asahi.comに

映画館向けのフィルム映写機で国内最大手だった日本電子光学工業(東京都豊島区)が、東京地裁から破産開始決定を受けたことが26日わかった。


とあった。

つまり、デジタル映写機に押されて、フィルムの時代はひとつの区切りを迎えたということだ。
昔からの映画愛好家からすれば、何か心の中のノスタルジーを失うというか、それこそ「ニュー・シネマ・パラダイス」のように、少年時代の心の中のフィルムのシーンが遠いものになってしまった切なさはあふれてくるだろう。
その上で新しい時代に飲まれていく。

技術は進歩する。
一見関係のないような文学の世界でも、従来の視点からはシフトしなければいけない時期に入った。
少しずつではあるが新しい試みはなされてきているし、「フィルム映写機愛好家」のような人間がいる限りは、進歩はどうしても遅くなる。
さまざまな試みがなされるであろうが、私はひとつ流行る手法としてバルザックの「人間喜劇」のような人物(もしくは世界観・テーマ)を関連付けていき、ひとつの「シリーズ」として郡を作る手法は鉄板としてやられるようになると考えている。
「人物再登場法」のより進化した形というわけですね。
今までなされてきていなかったわけではないが、もっとわかりやすいような関連性を組んでくると思っている。
そして、シリーズ化されたものは、コンテンツ同士の垣根を越える。
今DeNAが運営している無料携帯小説サイトE★エブリスタでは、人気のある携帯小説をピックアップし、出版化、映像化も含めて展開している。
そしてクリエーター応援ご祝儀システムのようなものも取り入れてきている。
人気のある作家さんを応援して後に換金できるポイント付与プラストップページ作品露出という具合に「より埋もれているクリエーターが頑張ろうかなという気持ちを起こすシステム」を作ろうとしている。
続くかどうかはわからないけれど、うまいシステムだと思う。
こんな例からも「システムが作家を変え、変わった作家が新時代の作品を作る」という具合になってくる。

ユーザー側から見たデジタル時代のコンテンツに対するひとつの性質とは「好きなものだけ見る」ということだ。
もっと酷く言えば「全部見なくとも好きな部分だけ切り取って見て楽しめる」という、個人の事情がより優先される。
この流れは技術的に仕方がない。
文学だってたらたらと時間をとって、楽しくないんだか楽しいんだかわからないという不透明な作品は絶対買われないし、興味すらもたれないということになる。
だから紙の本でも「ニーチェ」の、やたら簡略化してすっぱ抜いたような本が受けたりするのだと思う。
現在の中年の世代でさえこの通りなのだから、若い人ならよりダイレクトに目的に到達したいだろう。

技術が進歩し、徐々に変化を加えていく。
技術は道具として目的を示唆しているから人間がその利用方法を選んで作り出している。
デジタルの時代が人間にもたらす錯覚は、「思い出も編集できるのではないか」ということだ。
常に便利になっていく。
そして自分の好きなコンテンツに触れられて、いくらでも好きなパートだけを楽しめる。
デジタルネイティブの世代は「個人が記憶と情報の編集者」の時代になる。
そしてそこへと人々の思考や技術や展開が多く費やされるようになると、また新しい世代が生まれてくる。

そうしてよりお金を払ってくれる人の元でコンテンツは常に成長する。
この「芸術や技術」と「お金」の関係は、天地でもひっくり返らない限り、変化しない。
これを覆せたら本当の人類上の天才になれる。

さてしかしだ、よく「芸」という言葉を考える。
「そこに芸はあるか」
逆に言えば「芸のないことをするのは芸に携わっても何も生まない。焼き直ししかできない」ということでもある。
人に受けるものだけを作っていたら、やがて強気の手を打てなくなる。
ジリ貧になるからだ。
多様性を摘んでいく、選択肢を狭めていくのだから、ジリ貧になるのは言わずともわかること。
思考だって硬直化して、いざという時のシフトが頭の中でまったく組み立てられなくなる。
でも資金を確保するための「鉄板芸」は必要になる。

どこに中心があるかといったら「鉄板芸」であって、新しい試みは、必然的にその周囲になるか、もしくは博打上等で突拍子もないことをするかになる。
今の携帯小説を楽しんでいる子たちだって、より難しい作品に挑戦したがるのかな?と多少疑問を持ったりするけれど、段階的な道筋は作っておいたほうがいい。
技術や道具はその道筋に変化を与えるだけで、人間の根本的な部分は変えない。
道からそれれば迷子になるが、道を作ることは忘れてはいけない。

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03/04

Sun

2012

狂気と狂喜と凶器と

「きょうき」という日本語は色々な漢字に変換できる。
文章活動をしているけれど、よく「きょうき」という言葉を考える。
これを言葉の上で意識しだしたのは何でも鑑定団で伊藤若沖の紹介VTRを見たときからだった。
自分の中でしっくりとくるものがあった。
若沖は一年間庭の鶏をじっと見続けたという。
そして「きょうき」を見た。
宇宙を見た。
己れが鶏に宿って絵となった。


http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic43.htm


そもそも、芸の世界などまともではない。
まともではない世界からまともな世界へアプローチするようなものだと思っている。

伊藤若沖は鶏の中に「きょうき」を見た。
そして、現代に金魚の中に「きょうき」を見ている芸術家がいる。

"Goldfish Salvation" Riusuke Fukahori from ICN gallery on Vimeo.



深堀隆介。
http://goldfishing.info/about/kingyo.html

かつて私が山形を旅行したとき、確か酒田駅だったと思うが、庄内金魚がいた。



美しい尾びれが風に旗のようになびいて天女の羽衣になっていた。
凄い金魚があるものだと数分じっと見入ってしまった。
金魚など小さなころにお祭りで救ってきたものしか飼ったことがなかったので、別に興味があったわけでも詳しいわけでもない。
少し調べてみると金魚は人工的に生み出されたもので、自然の中にはないという。
つまり人間が交配させて生み出したひとつの芸術品だと言える。

水槽の中をひらひらと泳ぐ金魚を眺める日本人。
その中に何を見たのであろうか。
なぜ金魚ひとつにここまでこだわるのか。
美意識とはどこからくるものなのか。
最初に見つけた中国人はどうして金魚を作り出したのか。

芸術家にとって人生とは何を見て何を宿すか、なのかもしれない。
しかもその見るべきものは日常性の中に潜んでいる。
身近な自然の中にあるのだ。
結局は自然的なものを宿していき、それを突き詰めていくのだから、究極的なものは「宇宙観」になる。
自分を越えて周囲になり、周囲はやがて拡大し、そして見えないものへと近づいていく。
想像よりもずっと超え、妄想をぶち破り、そして現実と相対し苦悩し、さらに現実を越えると、「ゆめうつつ(夢現)」となる。
つまり究極的なリアリズムである「夢幻(無限)の世界」になっていく。
なぜリアリズムを究極的に突き詰めると夢幻になるかというと、時間の流れと人間の一生を比べればすぐわかることだ。
生は儚い。「人」に「夢」と書いて、「儚い」のだ。
芸術とは限られた生の中で宇宙を目指そうとする作業だ。
完全には成し得ないからこそ、成し得ようとする、神に近づきバベルの塔を建てるようなことをしていく。
それが本物の芸術家なのだと思う。
そこには「きょうき」が宿っている。

さて、私は文章に携わっている。
文章をまとめると最後には「本」になる。

ヨコハマ創造センター「天野太郎」氏の講演を聞きに
深堀隆介のブログ 金色ノ鮒 より

アートで生計を立てることは、批評と市場という枠組みが不可欠だといっていた。

批評とは、「この作品はこんな作品ですよ」と世に伝達すること、野菜の産地表示や、WEBで買い物する時のクチコミ欄みたいなものも批評だということ。

それを市場(ギャラリーや、美術館、コレクター)が紹介したり、売買したりする。それで、また作家が新しい作品を作る・・・・。

この仕組みは絶対に変わらない。というお話しは興味深かった。


この仕組みを考えれば、アートはビジネスだと理解できるだろう。


以上の文はこちらの世界にも言えることである。
まがりなりしも文筆活動を続けていこうと考えているのだから、どうしてもお金を取るということは考える。
あらゆる場所で従来の売り方が崩壊している中、デジタルの時代と向き合おうとしている。
今はその過渡期だ。

「本の性質」を考える。
視覚にダイレクトに訴える絵などに比べて本はといえば「閉じられて」いる。
「閉じられている」から、「開いた者」に「編集権」みたいなものが与えられる。
この「編集作業」も「伝達」の一種だ。
「伝達」が機能しなくなると開かれることもない。
それは本ができる前から始まっていて、本ができてからも続けられなければいけない。
それが「閉じられた世界」における「伝達」だ。
「開かれ」なければ「閉じられる」。
放っておいても「閉じられて」いく。
本は常に閉鎖的な作用をもたらしていく。
電子書籍の世界になればなおさら埋もれるので閉じられる性質は強くなる。

私たちはよく開かれるべきアプローチをしていくべきであり、その伝達の手段を日々考えている。
もしかしたら鶏や金魚もまた閉じられていくものなのかもしれない。
それを開き、表現し、伝達している。
書店がなくなる、新刊がどんどん出る、ネットにどんどん依存していっている。
私たちが身近に触れるべき「開かれたもの」が狭まっていく。

そこで「狂喜」を考える。
創造するとはある種の「狂気」と「狂喜」の伝達だ。
本はあらゆる段階で編集されるという。
本が出来上がった後でも書店の棚でも。
そして買われてから個々人の生活の中でも。

「伝達」には「きょうき」が宿らなければならないと考えている。
それはもうひとつの意味、「生物学で、神経繊維の興奮がシナプスを介してニューロンまたは筋・分泌腺などに伝えられること。興奮伝達。」を示すように、ある程度の刺激以上の信号でなければ伝わらないように。
ある意味、燃え上がっていなければ熱など伝わらないし、伝達など不可能だ。

私たちは「喜びのマッチング」を試みている。
自分が幸福だと思ったものを表現して何かを救いたいと思っている。
「伝える」ということの根底には、そんな衝動が隠れているのだと思っている。
「救われたい」と思ったらダメだ。
「救いたい」と思わなければ。
それじゃあ、「何を救いたいのか」が「伝達」する上で「伝えていく」上で大事なのだと感じている。

そこに「きょうき」は宿っているか。
芸術家が背負う命題だろう。
刃物は人を傷つけるためだけに存在しているのではないのだから。

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02/16

Thu

2012

才能ってなんだろうね 素人作家の愚痴

「才能」というものをきちんと述べられるほど多くのものを見ているわけではないので、きっと「才能とは何か」という文章を書けるまで、あと10年20年かかっていくのだろうなと思っている。

今日は記録のための愚痴ブログになることをあらかじめ記しておきます(笑)。
なので極めて個人的な心情を展開するので何の役立つ情報がないことをあらかじめ書いておきます。

たいてい書いている人って、それなりの情熱を持って、楽しみを持って、思い入れを持って書いているので、きっと自分の作品は他の誰よりもおもしろいに違いないと少なくとも信じている部分がある。
こういう気持ちがなければ怖くって書けないのも確かだし、長文を書いていくにはこの手の高揚感が必要になる。
たとえそれが錯覚であったとしても、完成したときの達成感がないと、とてもじゃないけれどやっていけるものではない。

今日「カーネーション」というNHKの連続ドラマ小説で、よい台詞があった。
あのドラマは成功のためのヒントが数多く含まれている。
ビジネスの教材にできるぐらい凄いドラマだとも思っている。
もったいぶらずに、その台詞書けよと言われそうだから書く。
一字一句はあってないが下記のニュアンスで言っていた。
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
と、将来の世界的デザイナーがお母ちゃんに説教されるシーンがあった。
店の構えもアバンギャルドすぎてデパートの支配人から「品のある店構えを」と散々きつく言われる。
そりゃあ今だからこそ世界のジュンココシノだとわかっているから安心して見ていられるが、当時の感覚としてはどうだったろうか。
もうあまりにも前衛的過ぎてついていけないものがあったのではないだろうか。

HPを見ても現在でも非常に前衛的であることがわかるし、デザインと人がきちんとマッチングするための洗練された感覚が一目で分かる。
ちなみにHPはこちら。

ヒロココシノジュンココシノミチココシノ

今となってはセンスの凄みが世界中に知れ渡っている。

でもね、誰が将来世界的に有名になれるなんて保証できますか。
誰もできない。
もしかしたら失敗したかもしれない可能性がたくさんあった。
その「失敗した可能性をどう改善したか」があのドラマには本当にたくさん込められている。

ということで長くなりましたが、
「服ってもんはな、デザインで完成されるものちゃうんや。着ている人が気持ちよう着れて、ようやく完成するんや。ほら、やり直し」
という台詞まで戻ります。
この台詞は文章にも言えることではないかなと強く感じたのです。
いえ、芸術全般に言えることなんじゃないだろうか。
文章に限って言えば「読んでいる人がアクションを起こしたり、心の中でなんらかの強烈な印象を抱くことでようやく完成する」とも。
当然終わりのない、半永久的に続いていくことではありますが、やはり作品と受け手の因果は「受け手を見抜く発信者の心意気」にあるような気がいたします。
そして最後に完成されるのは「読み手の心の中」であります。

いや、今日は愚痴を書こうと思ったのですが、いわゆる私なんぞは「落ちこぼれ街道まっしぐら」のペースで歩んでいます。
それで周囲の人が自分よりも活躍するとイライラするわけですね。
差し置かれていっているような気がして。
でも本当は自分に才能がないだけかもしれない。
それよりも活躍している人は才能の片鱗を誰かに認められているわけで、そういうものを無意味にいちいち比較して現在の自分に当てはめて落ち込むわけです。
落ちこぼれは非常に強いコンプレックスがあり、その卑屈な感情を刺激されると包まれてあった柔らか膜が破けて一気に汚物が中から出てきて汚さをまき散らします。
長年積み重なった卑屈さがありますから、「そんな気にしなくても君は君だ」と言われてなんとかなるほど軽いものではないのですね。

それで大抵コンプレックスを持っている人が小説やお話を書くなんていう根暗なことをやり始める。
自分の心への一種の救済行為として始めるのですね。
だからまず人に認めてほしいという感情が全面に出てくる作品が出来上がります。
自分の実現したいことや鬱憤などが当然出てくるので、どうにも読んでいられないものが出来上がる。
それでも自分としては懸命に、それこそ生涯で使ったことがないのではないか、というくらいに情熱を注いで作り上げますから余計に否定されると全人格否定を受けたような衝撃を受けるわけです。
笑い事ではなく、本当に。
素人がやっているわけですから、プロの世界などしるよしもなし、こんな文章などでは通じないしもっと洗練させてたくさん文章を読んで他人の技術とか発想とかを盗んで身につけないと到底生涯やっていけるはずはないのに、なぜか自分を「天才」のように錯覚してしまうのもこの頃です。
だいたいコンプレックスを持っている人間は通ってくる道だと私は勝手に思っているわけですが、素人の皆さんは思い当たることありませんか?

ということで今現在私は自分自身にとても無力感を感じていながらも、「まだ達成できていない数々のこと」に思いを巡らせながら「俺の実力はこんなもんじゃねえ状態」で頑張っているわけです。
「才能って何だろうね」ということは何度も考えたし、自分の才能のなさに本当に大泣きしたこともあります。
正直に告白すると去年応募した坊ちゃんの文学賞はやたら自信があっただけに最終選考に引っかかりもしない惨めさに号泣しました。
これホント。
それぐらい情けなくて申し訳ない気持ちでいっぱいで生きているのも肩身が狭いというのに、ああ、どうして自分はここに意固地になってしがみついているのだろうと考えたりするわけです。
結局、これを奪われたら本当に自分の軸のようなものがすべて引っこ抜かれるような感覚になってしまうからなのだろうなと思うところがあります。
こういうので食っていける、成功する、芸術分野において、そんな次元にまで行くには人生一つ賭けていかないとダメなものなのではないかと思うところがあります。
食えなくて連絡とれなくなって飢え死にしているんじゃないかと思われるような末路も見ているので自分も覚悟しなければいけない部分が大きいのですが、思い返してみれば長年思い描いてきて「創作のための環境」が少しずつですが整いつつあります。
それは自分の努力の部分による所は少なく、ただの幸運ではないかと思ったりもしますが、これも「誕生」のためには必要なことであって、「誕生」のための条件も整いつつある。
去年の終わり頃から「そろそろこの埋もれた状態に終止符を打ってもよいのではないか」「こちらで味わうことは一通り味わった。屈辱も苛立ちも」と思い始めているのですが、まだ何かが足りないのかもしれません。
それがわかったらすんなりいくのかもしれませんが、ああ、ひとつだけわかっているのは「技術」と「面白み」ですね。
これがまだきちんとわかってないんじゃないかと思うわけです。

そろそろ、素人の域は出たのではないかと勝手に思っているわけです。
それと常々思っているのですが「素人だからと言って何も擁護されない。素人でもプロ根性でやらなければ、いざプロになったときに使い物にならない」という気持ちを持ってやっております。
いくら言い訳しようとプロになったら結果がすべて。
結果を出せないものは忘れ去られ時代にも人の心にも残らない。
芸術家の厳しい運命がここにあります。

どうしてしがみついているのか。
もうひとつ理由があります。
前にも何度か言っている理由の他に不思議な縁についての理由がもうひとつあります。
それは必ず一人二人直接「書いてください」とお金を払ってくれる人がいる。
一人二人とか思うかもしれませんが、少なくとも一人でも二人でもいるって凄いことじゃないですか。
しかもネットでショッピングするって結構な手間がかかるのですよ。
店頭で財布から出すのと違ってカバンの鍵を開けて、巾着の紐を解いて、中のお金を取り出して、というぐらいの手間がちょっとかかるのですが、それでも買ってくれるってことはやっぱり相当なんだろうなと思うわけです。
アホらしいと思われるかもしれませんが、こういうところにもしがみついているわけですね。
いきなり大きなところから考えていたらどうしようもないわけですよ。
いきなり不特定多数の人のことを考えていても道を踏み外すような気もするのですよ。
自分は着実に進んでいる。
そして遅いペースではありますが、応援してくれる人もいる。
この先もしかして儲かってしまったら忘れるかもしれないこの気持ちを、きちんと覚えておいたいのと、やっぱり今の状態にもの凄く苛立ってどうしようもなく周囲をけなしたいと思いつつ、一番寂しい思いをするのは自分だとわかりきった私がここにいることを、ちょっと記録したくて今日は長々とつまらぬ日記を書いた次第でございます。

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12/22

Thu

2011

海賊版に激怒し中国市場撤退を決めた東野圭吾と東野を嘲る中国ミステリ業界(阿井)

以前から激怒しておられたのは知っていたが撤退するほど怒っているのならもう違法コピーをする人間たちを完全に林真理子氏ばりに見下しているのだろう。
もうやつらは犯罪者で、どうしてそんな犯罪者の巣窟に作品を出さなければいけないのか、という心境にまで至っているかもしれない。
ともかく、文学賞の審査員をしていると勘違いしていたが、今の役職は「日本推理作家協会理事長」である。
そのうち、直木賞の審査員になっていく可能性は非常に大であるこの方が「読者」たちの「実寸大の人間性」や時代が持っている「新しい道」を直視できず、怒りのあまりの行動に出るのなら、今後東野氏の口から「文学」という言葉が出たら怪しんだ方がいいかもしれない。

前回の記事でも書いた自炊業提訴
だが、直木賞審査員が2人もいる。
現在の他の審査員のコメントを見ても、やたら「文学」だとかを掲げて、読者に見えづらい格式の高さを醸し出しているが、いずれは彼らの考え方が徐々に過去の遺物になってくることは見えてきている。
文学の世界といえど人々の生活にそったものになるのであれば、電子化の流れは止めることができない。
そしてやがて電子書籍はSFの映画で見たような世界になっていくだろう。
下敷きのようなプラスチック板に画面が表示され、映像画像音声が一体となって文字を演出していく。
近未来のSF映画などでは必ず出てくるあれだ。
ゴーグル型のもあったりする。もしかしたら脳に直接伝える脳伝導「官能小説」なんて出てくるかもしれない。
映画のような感覚で様々な物が遅かれ早かれなる。
それも空想などではなく、すぐそこにある現実だ。
膨大に広がっていく電子の世界で読者と作家をつなげる接点は今とはまったく違った物になるだろう。
そして今の審査員たちには私のような若輩がここで物申すのも僭越だが、今から見ればSFに見えてしまうような世界すら文学だと私は考える。
なぜなら人が接し、扱い、生活の中に当たり前のように道具が入っていくのだから、当然文学になる。
もう彼らの言う「文学」という「漠然とした懐古主義」から生まれる、わけのわからない世界はやがて形を変えて終わる。
極端に言えば人類の未来を想像できない「作家」はその時点で死ぬべき運命に入り込み、常に何らかの影響下でコントロールされる。
これは創造性や想像性を持ち、与えなければならない作家自身が「自由」を失うことを意味している。

今回の東野氏の対応、提訴した作家たちの言い分を読み、作者としての大きな分岐点を遠くから見ている不思議な気分に浸っている。
私にとって「文学」は身近なものではなかった。
遠く、手の届かないところにあったのだ。
だからようやく理解した。
「文学」は私には必要ない。

これからどうなっていくのか「現実」を見たい。
その上で表現したい。
ようやく憑き物のようにあった執着心が取れて目が覚めてきた。
さようなら「文学」。

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09/20

Tue

2011

文章で「普通の~」という表現

面白い表現だなと思ったことがあった。
「普通の高校生」「当たり前の~」という表現。
時間がたってみるとこれほど不思議な表現はない。

普通、人によって価値観が分かれる表現は添削の対象となり、細かな描写をしっかりするようにと念を押されるのだが、よく考えてみれば「普通」とか、その手の言葉を使って名詞にくっつけてくるのは、だいたい書き手の年齢としてその周辺だったりするのかなと考える。

若い頃は、特に十代の頃は自分の周辺の景色や感覚が「当たり前」「これが世界」だと思い込んでいるふしがある。
今考えるととても不思議だし、今の中学生や高校生に「普通の中学生」とか書かれても、正直おじさんはわからないわけですよ。
だって中学3年でさえ私とは17歳も離れているわけですよ。
親と子ぐらいの年齢差なんですね。
昔は卒業間近に1年生を眺めていると感覚がちょっと違うなと思っていたぐらいだから、それ以上なら何倍十数倍も違うのではないかと思うほどです。
それで今気がついたのだけど年をとってくると今中3とは17違うと書いたけれど、だんだん年数もあまり細かくこだわらなくなる。
中学生の1年間と年をとっていってからの1年間は「質量」が違う。
子供は「うわっ、学校生活長い。でも夏休み短い」という感覚ですが、大人は「仕事してても夏休みみたいに早く人生過ぎていくし学校の方が遥かに楽チンだったと思えるほど苦しい」という具合なのです。
大人になると「あっという間」という表現が「好きな子とのデートの時間」ではなく「ここ十年ぐらいの人生」になるわけなのです。
それだけ感覚が違ってくるのですね。

それで書いているともうひとつ気がついたことがある。
それは大人の「当たり前」が当然子供の「当たり前」ではないということ。
あー、そうか。
だから子供と大人は「当たり前」を押し付けあってずれているのかもしれない。
大人は大人の世界で固まって子供にはわからないことをしているわけですが、子供にとってブラックボックスはファンタジーな部分があります。
悪いことしているんじゃないだろうかとか、夢があるんじゃないだろうかとかですね。
こういう年代差が出てくると、ギャップを埋めたがったり、むしろこちら側に近づいてこいよみたいな感覚が生まれてきて、理解しあえないのはどちらか一方が悪い、はたまた両者が悪いとなりがちですが、私は差があってなんぼ、もっと差を楽しめないだろうかという考えを持っています。
日本でできたためしがほとんどないのですが。

描写においても「差があって当たり前」という考えで書かないと、うっかり「誰もがうらやむ美人」と書いてしまったりするわけです。
美人イケメンだって個人によって差があるわけだし、ジャニーズ系が好きという人もいれば室伏みたいなムキムキのスポーツマンが好きな人もいれば女性の好みだってぽっちゃり系の愛嬌のある人からモデルのような人など体系だけでも分かれていくものです。
個人の感覚って「差があって何ぼ」なんですね。
当然そうなると書き手の趣味と読者の趣味ってまったく違う。
そこをどう意識して埋め込んでいくかが、読み手を意識した文章になってくるのだろうな、と思ったわけです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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