面白い表現だなと思ったことがあった。
「普通の高校生」「当たり前の~」という表現。
時間がたってみるとこれほど不思議な表現はない。
普通、人によって価値観が分かれる表現は添削の対象となり、細かな描写をしっかりするようにと念を押されるのだが、よく考えてみれば「普通」とか、その手の言葉を使って名詞にくっつけてくるのは、だいたい書き手の年齢としてその周辺だったりするのかなと考える。
若い頃は、特に十代の頃は自分の周辺の景色や感覚が「当たり前」「これが世界」だと思い込んでいるふしがある。
今考えるととても不思議だし、今の中学生や高校生に「普通の中学生」とか書かれても、正直おじさんはわからないわけですよ。
だって中学3年でさえ私とは17歳も離れているわけですよ。
親と子ぐらいの年齢差なんですね。
昔は卒業間近に1年生を眺めていると感覚がちょっと違うなと思っていたぐらいだから、それ以上なら何倍十数倍も違うのではないかと思うほどです。
それで今気がついたのだけど年をとってくると今中3とは17違うと書いたけれど、だんだん年数もあまり細かくこだわらなくなる。
中学生の1年間と年をとっていってからの1年間は「質量」が違う。
子供は「うわっ、学校生活長い。でも夏休み短い」という感覚ですが、大人は「仕事してても夏休みみたいに早く人生過ぎていくし学校の方が遥かに楽チンだったと思えるほど苦しい」という具合なのです。
大人になると「あっという間」という表現が「好きな子とのデートの時間」ではなく「ここ十年ぐらいの人生」になるわけなのです。
それだけ感覚が違ってくるのですね。
それで書いているともうひとつ気がついたことがある。
それは大人の「当たり前」が当然子供の「当たり前」ではないということ。
あー、そうか。
だから子供と大人は「当たり前」を押し付けあってずれているのかもしれない。
大人は大人の世界で固まって子供にはわからないことをしているわけですが、子供にとってブラックボックスはファンタジーな部分があります。
悪いことしているんじゃないだろうかとか、夢があるんじゃないだろうかとかですね。
こういう年代差が出てくると、ギャップを埋めたがったり、むしろこちら側に近づいてこいよみたいな感覚が生まれてきて、理解しあえないのはどちらか一方が悪い、はたまた両者が悪いとなりがちですが、私は差があってなんぼ、もっと差を楽しめないだろうかという考えを持っています。
日本でできたためしがほとんどないのですが。
描写においても「差があって当たり前」という考えで書かないと、うっかり「誰もがうらやむ美人」と書いてしまったりするわけです。
美人イケメンだって個人によって差があるわけだし、ジャニーズ系が好きという人もいれば室伏みたいなムキムキのスポーツマンが好きな人もいれば女性の好みだってぽっちゃり系の愛嬌のある人からモデルのような人など体系だけでも分かれていくものです。
個人の感覚って「差があって何ぼ」なんですね。
当然そうなると書き手の趣味と読者の趣味ってまったく違う。
そこをどう意識して埋め込んでいくかが、読み手を意識した文章になってくるのだろうな、と思ったわけです。
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