他人の写真を見てふと思うことがあった。
なんでもない日常を並べることによって絵になる。
自分の写真は綺麗なものを探そうとして撮るものを見失っている。
つまり自分の望むものを思い描くあまり日常に落ちているちゃんとした絵になる数々のものを自ら見落としているということになる。
これは致命的なことだし、作家の視点としてバカらしい。
書けなくなるのも当然だろう、と思ったりする。
先日バーでたまにカウンターで相席するおじさまにおごってもらった。
女の子がいるお店だったが酔っ払って抱きついて呂律が回らなくなったりして大変だった。
普通のお店でも見知らぬ女の子を口説こうとするので店側としてはいい迷惑だろう。
でも何かとてつもなく親近感を感じる。
伊集院静の「大人の流儀」だったと思うが、「きちんと大人になっているものは10人中1,2人ほど」という記述があった。
そんなものなのだろうか、といまだに「大人」というものが何かわからず、一応は「大人は常に洗練させていくもの。さもなければガキ」というイメージで捉えている。
当たり前だが物を書く時は1人じゃないとできない。
それも何ヶ月も1人でもくもくとやる。
誰のためでもないかもしれないが、一応は自分なりに誰かのためを意識しては書いているが結局は「自分のため」なのだろう。
だから孤独は当然抱える。
本音はあっても話が通じないから話さない。
愚痴っても自分で解決するしかないから言うだけ虚しくなる。
という具合で色々1人で抱える。
自分は会社勤めをして誰かの指示通り動くことができず、自分で納得できなかったり消化できなかったり考える時間がなかったりすると止まる。
すぐいっぱいいっぱいになる。
人見知りもするので体が固まったりする。
人前では結構頑張って、終わった後脱力する。
そんな感じで、こんな物書きなんてことにしがみついているのだけれど、40,50代の抱える「オヤジの孤独」というのが嫌に理解できて困る。
酔っ払って女に抱きつく家庭持ちの男となると、家では上手く言ってないのか、友達がいなくて色々溜め込んでいるのか、だから変な形で歪んで出てきてしまうのか。
酔っ払っているからと言って、そのことを全員が免罪符として見てくれるのかと言ったら、ほとんどがNOだ。
かく言う自分も酒でだいぶやらかして、知り合い友達から遠ざけられているのでよくわかる。
例えば見た目は酷くとも心の奥に酷い孤独ややりきれなさを抱えている人を見ると、酷く親近感を覚えてたまらなくなってくる。
自分を見ているような気分になるのだ。
俺はわかるよ。その孤独が、と。
しかし他の人にとっては酔っ払って絶対一緒にいたくない人だろう。
人は、自分の見たいものを見ている。
自然と選び取って目の前の景色や情報を受け取って心に残している。
写真を撮っているとよくわかるのだが、他人は自分の感じない景色を平気で撮っている。
自分が見た時にはそうでもないのに、他人のフレームに納められた景色には何故か特徴がある。
それは雑草の生い茂った原っぱでも、何気ない住宅地の景色でも、切り取られた景色から何を思ったのか伝わってくるような気がする。
いいな、とも思うし、うらやましい、とも思う。
自分も日常の何気ない景色を大事にして、そこから絵になるものを切り取りたいと思うが、なかなか見えない。
「見えない」ということは「心の中に何かがない」ということだ。
きっとわかったら見れるようになるのだろうが、わからないから見れない。
都会は「日常」というものを「作れる」。
当たり前のさりげない日常をお金を使って変えることができる。
よく考えたら、不自然さが当たり前になっている。
お金を払えば日常をある程度まで変えれるということに何の疑問も考えも持たない。
当たり前だと思っている。
写真を撮る時、自分の望んだ景色を作り上げるには莫大な金がかかる。
ほとんど個人の力では不可能になるため、出かけて待ったりする。
自然なものと寄り添いながら自然のほうが来てくれるのを待ったり、ばったり出会った偶然を迎え入れたりする。
しかし人が作り上げて出来上がったものには偶然はない。
作ったものを取り囲む人が偶然を作ることはあっても物は偶然を作らない。
だからいくらお姉ちゃんのお店で金使ってよい常連になろうと、好きなことしようと、金が切れればそれまでになる。
寂しいものだ。
酔っ払って現実を忘れようと、明日にはまた日常が待っている。
その日常とは一体なんだろう。
今まで考えもしなかったし、ほとんどの人は生きていくために普通に日常を生きている。
お金を稼いで食べていくという行為の中で人と関わっていく。
今の自分には日常が欠けている。
日常がなんだかわからない。
そしてその先の「自然」ということも一体なんだかわからない。
漠然ともやもやとした霧のようなものが広がっている気分にもなってくる。
よい写真が撮りたい。
よい文章が書きたい。
しかし「いいもの」って一体なんだろう。
またくだらぬことを考えて立ち止まる。
そして動けなくなる。
こういうことをやりだすから、社会人というものからドロップアウトしてしまい、唯一人生の中で諦めずに続いている物書きという行為にしがみ付いている。
きちんと目の前の景色を見るために、心を作らなければいけないのも、仕事のうちかもしれない。
自分に負けずに。
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