久しぶりに歌を歌った。
思いのほか喉が多少よく、3曲くらい歌ってもぎりぎり喉が持った。
というより、ちょっとしたハプニングでバーで飲んでいたお客さんに「一緒に歌いませんか」と誘われて歌ったわけだが、歌には想い出がたくさん詰まっている。
その日ではなかったが、「この曲知らないだろうな」と70前後くらいの人たちの集まりで曲をかけられ「思い出の曲なんですか?」と聞くと「我々の青春時代の曲」と言われた。
音楽には時代を彩るものや、想い出を彩るものがある。
昨日のお客さんだって「この曲ね、死んだ友達が歌ってた曲なの」と目頭を熱くさせていた。
歌を一緒に歌って、時間を共有する。
言葉と音楽を共有する。
珍しいことではないかもしれないが、今の私にとってはとてもうらやましいことだと思った。
というのは、小説は一人で感性を巡らせて色々と妄想して読んでいく。
どうしても一人の作業になってしまう。
例えばこれが読書の感想を言い合うにしろ「私こう思った」と言い合うには多少のずれが出てくる。
本当はこういうずれを楽しむべきなのだろうが、日本人はそういうのがとても苦手。
「同じ空気」を作ろうとし「空気にあわせようとする」のがマナーだと思っている。
当然小説は感性の統一、見解の一致を目的とするのではなく、多様な解釈と多様な感性を育てることを目的としているので、音楽を聴きながら漠然と感じている雰囲気を共有する歌とはだいぶ違う。
じゃあ音楽みたいに共有できるものは何なのか。
ずっと作者が共有できるものを読者に対して問い続け、橋をかけていく作業を小説だと思っていたが、もう少し考え直してみる必要があるかもしれない。
小説を懸命に書いている人というのは、やはり読んでくれた人の心の中に一石を投じたいという願いを込めて書いているものだと思っている。
そしてその思いは誰かと共有できることがあるのだろうか。
たとえば誰かと誰かをつなぎ合わせることができるだろうか。
逆もきっとあるかもしれないが、ひとつ、ヒットソングのように誰かと共有できる作品ができたら、また一歩大きく前進できるだろうと感じた。
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