※結果的にグダグダになったのでメモとして記録。
受け売りの言葉だが、なるほどと思った言葉がある。
それは、
「道具には二つの側面があり、一つは人間が使用して道具に目的を与える面と、もう一つは道具の形状や性質などにより人間が目的を見出す、ということだ」
前者の場合、小枝を切るために使い続ける刃物、サバイバル用も含めると、時として動物をさばくこともあるかもしれない。
そんな風に使うことによって道具に目的を与えている。
後者の場合、本来はまな板のように使っていたつもりが、ものを叩くための板になり、そのうちすりつぶすようになり、板では足りなくなったので、すり鉢のようにする、ということだ。
そこまで進化しなくとも、動物を殺し食料を確保するための弓矢が、人間同士の勢力間での食糧確保のための暴力的手段になる、ということだったりもする。
asahi.comに
映画館向けのフィルム映写機で国内最大手だった日本電子光学工業(東京都豊島区)が、東京地裁から破産開始決定を受けたことが26日わかった。
とあった。
つまり、デジタル映写機に押されて、フィルムの時代はひとつの区切りを迎えたということだ。
昔からの映画愛好家からすれば、何か心の中のノスタルジーを失うというか、それこそ「ニュー・シネマ・パラダイス」のように、少年時代の心の中のフィルムのシーンが遠いものになってしまった切なさはあふれてくるだろう。
その上で新しい時代に飲まれていく。
技術は進歩する。
一見関係のないような文学の世界でも、従来の視点からはシフトしなければいけない時期に入った。
少しずつではあるが新しい試みはなされてきているし、「フィルム映写機愛好家」のような人間がいる限りは、進歩はどうしても遅くなる。
さまざまな試みがなされるであろうが、私はひとつ流行る手法としてバルザックの「人間喜劇」のような人物(もしくは世界観・テーマ)を関連付けていき、ひとつの「シリーズ」として郡を作る手法は鉄板としてやられるようになると考えている。
「人物再登場法」のより進化した形というわけですね。
今までなされてきていなかったわけではないが、もっとわかりやすいような関連性を組んでくると思っている。
そして、シリーズ化されたものは、コンテンツ同士の垣根を越える。
今DeNAが運営している無料携帯小説サイトE★エブリスタでは、人気のある携帯小説をピックアップし、出版化、映像化も含めて展開している。
そしてクリエーター応援ご祝儀システムのようなものも取り入れてきている。
人気のある作家さんを応援して後に換金できるポイント付与プラストップページ作品露出という具合に「より埋もれているクリエーターが頑張ろうかなという気持ちを起こすシステム」を作ろうとしている。
続くかどうかはわからないけれど、うまいシステムだと思う。
こんな例からも「システムが作家を変え、変わった作家が新時代の作品を作る」という具合になってくる。
ユーザー側から見たデジタル時代のコンテンツに対するひとつの性質とは「好きなものだけ見る」ということだ。
もっと酷く言えば「全部見なくとも好きな部分だけ切り取って見て楽しめる」という、個人の事情がより優先される。
この流れは技術的に仕方がない。
文学だってたらたらと時間をとって、楽しくないんだか楽しいんだかわからないという不透明な作品は絶対買われないし、興味すらもたれないということになる。
だから紙の本でも「ニーチェ」の、やたら簡略化してすっぱ抜いたような本が受けたりするのだと思う。
現在の中年の世代でさえこの通りなのだから、若い人ならよりダイレクトに目的に到達したいだろう。
技術が進歩し、徐々に変化を加えていく。
技術は道具として目的を示唆しているから人間がその利用方法を選んで作り出している。
デジタルの時代が人間にもたらす錯覚は、「思い出も編集できるのではないか」ということだ。
常に便利になっていく。
そして自分の好きなコンテンツに触れられて、いくらでも好きなパートだけを楽しめる。
デジタルネイティブの世代は「個人が記憶と情報の編集者」の時代になる。
そしてそこへと人々の思考や技術や展開が多く費やされるようになると、また新しい世代が生まれてくる。
そうしてよりお金を払ってくれる人の元でコンテンツは常に成長する。
この「芸術や技術」と「お金」の関係は、天地でもひっくり返らない限り、変化しない。
これを覆せたら本当の人類上の天才になれる。
さてしかしだ、よく「芸」という言葉を考える。
「そこに芸はあるか」
逆に言えば「芸のないことをするのは芸に携わっても何も生まない。焼き直ししかできない」ということでもある。
人に受けるものだけを作っていたら、やがて強気の手を打てなくなる。
ジリ貧になるからだ。
多様性を摘んでいく、選択肢を狭めていくのだから、ジリ貧になるのは言わずともわかること。
思考だって硬直化して、いざという時のシフトが頭の中でまったく組み立てられなくなる。
でも資金を確保するための「鉄板芸」は必要になる。
どこに中心があるかといったら「鉄板芸」であって、新しい試みは、必然的にその周囲になるか、もしくは博打上等で突拍子もないことをするかになる。
今の携帯小説を楽しんでいる子たちだって、より難しい作品に挑戦したがるのかな?と多少疑問を持ったりするけれど、段階的な道筋は作っておいたほうがいい。
技術や道具はその道筋に変化を与えるだけで、人間の根本的な部分は変えない。
道からそれれば迷子になるが、道を作ることは忘れてはいけない。
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