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あさかぜさんは見た

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2012

狂気と狂喜と凶器と

「きょうき」という日本語は色々な漢字に変換できる。
文章活動をしているけれど、よく「きょうき」という言葉を考える。
これを言葉の上で意識しだしたのは何でも鑑定団で伊藤若沖の紹介VTRを見たときからだった。
自分の中でしっくりとくるものがあった。
若沖は一年間庭の鶏をじっと見続けたという。
そして「きょうき」を見た。
宇宙を見た。
己れが鶏に宿って絵となった。


http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic43.htm


そもそも、芸の世界などまともではない。
まともではない世界からまともな世界へアプローチするようなものだと思っている。

伊藤若沖は鶏の中に「きょうき」を見た。
そして、現代に金魚の中に「きょうき」を見ている芸術家がいる。

"Goldfish Salvation" Riusuke Fukahori from ICN gallery on Vimeo.



深堀隆介。
http://goldfishing.info/about/kingyo.html

かつて私が山形を旅行したとき、確か酒田駅だったと思うが、庄内金魚がいた。



美しい尾びれが風に旗のようになびいて天女の羽衣になっていた。
凄い金魚があるものだと数分じっと見入ってしまった。
金魚など小さなころにお祭りで救ってきたものしか飼ったことがなかったので、別に興味があったわけでも詳しいわけでもない。
少し調べてみると金魚は人工的に生み出されたもので、自然の中にはないという。
つまり人間が交配させて生み出したひとつの芸術品だと言える。

水槽の中をひらひらと泳ぐ金魚を眺める日本人。
その中に何を見たのであろうか。
なぜ金魚ひとつにここまでこだわるのか。
美意識とはどこからくるものなのか。
最初に見つけた中国人はどうして金魚を作り出したのか。

芸術家にとって人生とは何を見て何を宿すか、なのかもしれない。
しかもその見るべきものは日常性の中に潜んでいる。
身近な自然の中にあるのだ。
結局は自然的なものを宿していき、それを突き詰めていくのだから、究極的なものは「宇宙観」になる。
自分を越えて周囲になり、周囲はやがて拡大し、そして見えないものへと近づいていく。
想像よりもずっと超え、妄想をぶち破り、そして現実と相対し苦悩し、さらに現実を越えると、「ゆめうつつ(夢現)」となる。
つまり究極的なリアリズムである「夢幻(無限)の世界」になっていく。
なぜリアリズムを究極的に突き詰めると夢幻になるかというと、時間の流れと人間の一生を比べればすぐわかることだ。
生は儚い。「人」に「夢」と書いて、「儚い」のだ。
芸術とは限られた生の中で宇宙を目指そうとする作業だ。
完全には成し得ないからこそ、成し得ようとする、神に近づきバベルの塔を建てるようなことをしていく。
それが本物の芸術家なのだと思う。
そこには「きょうき」が宿っている。

さて、私は文章に携わっている。
文章をまとめると最後には「本」になる。

ヨコハマ創造センター「天野太郎」氏の講演を聞きに
深堀隆介のブログ 金色ノ鮒 より

アートで生計を立てることは、批評と市場という枠組みが不可欠だといっていた。

批評とは、「この作品はこんな作品ですよ」と世に伝達すること、野菜の産地表示や、WEBで買い物する時のクチコミ欄みたいなものも批評だということ。

それを市場(ギャラリーや、美術館、コレクター)が紹介したり、売買したりする。それで、また作家が新しい作品を作る・・・・。

この仕組みは絶対に変わらない。というお話しは興味深かった。


この仕組みを考えれば、アートはビジネスだと理解できるだろう。


以上の文はこちらの世界にも言えることである。
まがりなりしも文筆活動を続けていこうと考えているのだから、どうしてもお金を取るということは考える。
あらゆる場所で従来の売り方が崩壊している中、デジタルの時代と向き合おうとしている。
今はその過渡期だ。

「本の性質」を考える。
視覚にダイレクトに訴える絵などに比べて本はといえば「閉じられて」いる。
「閉じられている」から、「開いた者」に「編集権」みたいなものが与えられる。
この「編集作業」も「伝達」の一種だ。
「伝達」が機能しなくなると開かれることもない。
それは本ができる前から始まっていて、本ができてからも続けられなければいけない。
それが「閉じられた世界」における「伝達」だ。
「開かれ」なければ「閉じられる」。
放っておいても「閉じられて」いく。
本は常に閉鎖的な作用をもたらしていく。
電子書籍の世界になればなおさら埋もれるので閉じられる性質は強くなる。

私たちはよく開かれるべきアプローチをしていくべきであり、その伝達の手段を日々考えている。
もしかしたら鶏や金魚もまた閉じられていくものなのかもしれない。
それを開き、表現し、伝達している。
書店がなくなる、新刊がどんどん出る、ネットにどんどん依存していっている。
私たちが身近に触れるべき「開かれたもの」が狭まっていく。

そこで「狂喜」を考える。
創造するとはある種の「狂気」と「狂喜」の伝達だ。
本はあらゆる段階で編集されるという。
本が出来上がった後でも書店の棚でも。
そして買われてから個々人の生活の中でも。

「伝達」には「きょうき」が宿らなければならないと考えている。
それはもうひとつの意味、「生物学で、神経繊維の興奮がシナプスを介してニューロンまたは筋・分泌腺などに伝えられること。興奮伝達。」を示すように、ある程度の刺激以上の信号でなければ伝わらないように。
ある意味、燃え上がっていなければ熱など伝わらないし、伝達など不可能だ。

私たちは「喜びのマッチング」を試みている。
自分が幸福だと思ったものを表現して何かを救いたいと思っている。
「伝える」ということの根底には、そんな衝動が隠れているのだと思っている。
「救われたい」と思ったらダメだ。
「救いたい」と思わなければ。
それじゃあ、「何を救いたいのか」が「伝達」する上で「伝えていく」上で大事なのだと感じている。

そこに「きょうき」は宿っているか。
芸術家が背負う命題だろう。
刃物は人を傷つけるためだけに存在しているのではないのだから。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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