年をとってきて、よく思うようになったが、ある程度相手の出方というのが見えてくると、話し合いの場においての「余計な情報」というのは話をこじらせる最も大きな原因となる。
現在話している論点から類推せず、拡大解釈したものを持ち出さず、比喩も勘違いさせずに的確で、しかも伝えるべき結論や趣旨から一切それないということが伝えることの大前提になる。
一言で言うなら「余計なこと」が、すべてを台無しにする火種になるということだ。
最近知り合いの女の子が空き巣に入られた。
その子は以前からストーカー被害にあっており、バイクのナンバープレートを曲げられるなど、小さな被害にあっていた。
そして家を留守にしている間に、犯人はわかっていないが何者かに荒らされていた。
金目のものはほとんどとられておらず、家具や電化製品が壊されているという、少し物取りにしては疑問点が残る部屋の惨状だった。
このような状況から警察も、そのストーカーへと事情聴取をするようだ。
ストーカー被害に合う人の気持ちなど、察するに余りある。
私だって、このような話を聞くと腹立たしくなる。
何人かに聞いてみたが、小さなことでも「執拗に付きまとわれる」というのは、女性にとっては大抵「怖い」と思うことが当たり前で、夜も眠れないほど震えるという。
そんな気持ちがわからず、自分の気持ちだけを優先し、願望を叶えようとする気持ちは、ちょっと言ってもわからない人のことが多い。
私も中学生の頃は好きな子ができたら家のまで行ったりもしたから、相手に気がついてほしい、自分の気持ちが伝わればいい、と妄想や願望だけを膨らませていく気持ちがわからないまでもないが、今はいい大人なので、そんなことはしない。
さて、話を戻すが、実際に現実で被害に合っている、苦しんでいる人たちの気持ちを知り、そこへの何らかの感情をさしはさむと、どうしても作品作りのときに描写したくなる。
極端に言うのなら、ストーカーが主人公の作品を書いているとして、そこへ批判的な描写を入れてしまう。
ストーカーの不幸を願いながら描いてしまう、という状態になる。
読みなれている人間にとっては「作者の介入」は非常に不自然に感じる。
そして前後の文章とは明らかに違ってくるので浮いているように感じるし、作品の完成度そのものへも影を落とすことになる。
これはベテランの作者でも例外なくよくやることで、ベテランの場合つじつまを合わせるために、相当うまくコーティングしてくるのだが、やはりうっすらわかる。
何故このような状態が起こるのか。
元々文学というのは人を描くものだ。
例えば物を擬人化して書くというのもあるが、それだって共感を得ねば作品として成り立たない。
それは結局人が触れているものに対して思いを巡らせることだから、人の介在できないところに作品は存在できないと私は考えている。
それでは、もっと根本に戻って「人」とはなんだろう。
私はずっとこのことを考えている。
自分が何かの価値観を持って、その人に接してしまったら、自分の価値観という金型で、ただ思い通りの形を縁取っているにすぎないのではないか、と反省している。
それはその人そのものがもっている形ではなく、所詮自分の願望の現われにしか過ぎない。
小説家は私小説でもない限り、これをやってはいけないのではないかと考えるところがある。
基本的なノウハウとしては比喩を多用すると陳腐になるとか、あるキャラに同情する余り本筋からそれて描写が飛んでしまうとか、細かく書いてしまうあまり作品のリズムやキレが瓦解しているとか、色々あるだろう。
これらはすべて「余計な情報」だ。
最初お菓子の話をしていたのに、いつの間にか政治の話題を絡めてくるぐらい読者にとっては不自然に感じる。
だが作者は描いている時、不思議とこのことに気がつかない。
だからよく「寝かせなければいけない」という。
自分の作品を客観的に見られるようになるまで置いておくということだ。
世の中には自分の気に入らないこと、自分が最も好んで重視したいことがあるだろう。
普通に生きていれば、このことを優先し、差別的に区別的に見ることに、なんら疑問をさしはさまなくていい。
しかし人をあくまで中立的に見ていかなければいけない小説家にとって、この偏見は作品への致命的な傷となることがある。
そして余計な描写へと繋がってしまう。
もし自分の価値観や偏見が拭い去れない時、対極にある価値観を知ろうとすること。
これは作品や人間への公平性を自分の中で保とうとする時、とても大事なことだ。
偏見まみれの作品は、誰も読みたがらない。
偏見に共感を得たいのなら、信者家させるしかない。
だが、たいていそのような作品は残らないし、時間とともに消える。
思い当たる節があったら、ぜひ自分の嫌悪感と戦い打ち克って欲しい。
得るものもたくさんあると思う。
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