人には当然価値観があって、癖があって、そして傷がある。
思い込みがあって、曲げられないことがあって、こだわっていることがある。
人は通常、自分の価値観を中心にして物事を見ていて、特に集団でこれを共有する時、自らの承認欲求を満たし、時には共有している価値観が正しいことのように安心する。
そうしていつの間にか薄っぺらくなったものや、信じ込んでいたものが、実はもろく、とてつもなくあっけないものだと知った時、自分の信じきっていたものが揺らぐ。
信じていたものを変えられなくて、長年苦しむ人間もいれば、受け入れて新しい道を歩む人もいる。
ただ、普通は自分の信じているものが崩れてしまわないように、一生懸命努力し、努力するがゆえに崩壊を信じないし、対極にある価値観を否定するし、それが向かってきた時は何らかの防御反応を示す。
通常信じられないものが身近に来た場合、違和感や拒否反応を示す。
そのまま目をそらしたまま、これ以上近づいてこないよう様々な防衛手段をとる。
当然きちんと相手を見ていないので、嫌悪感が妄想を生み、その妄想がさらに嫌悪感を積み上げていく。
やがて大きくなった嫌悪感は憎悪に近い状態となり、話し合いすらも通じなくなる。
嫌悪を向けられた側は、賢明なれば引くが、大事にしていたものが揺らいでしまうと感じたとき、相手の攻撃性に対し過激に反応する。
人はわかりあえない。
わかりあえないのが当然で、わかりあえるとしたら最も幸福な機会を与えられたのだろうと感じるしかない。
しかし全員とわかりあえないわけではない。
中には気が合い、意気投合し、生涯の友と呼べる仲間もできることだろう。
しかし中には友と思っていても、相手と自分の仲を取り持っていたのは「利害」だったのだと気がつくことも時にはあるだろう。
自分の価値観も、また「利」なり。
その「利」を交換できる相手を、いつも望んでいるのが人間だ。
中には犬猿の間柄であったとしても、双方とも慎重で思慮深く、熱い魂を持っていながらも、やり過ぎないという礼儀は守る、という人間で、やがて分かり合えることもあるだろう。
お互い分かり合えなかったが経験をつんで、ようやく互いのことが見えてくることもあるだろう。
ただ、どんな状態であれ、目を背けられ、しっかりと見ようともしないのに、否定などされたら不愉快に感じるのは誰でも一緒だ。
人には価値観があって、癖があって、そして傷がある。
思い込みがあって、曲げられないことがあって、こだわっていることがある。
それが他人にとって、どんなにくだらなくとも、その人なりに大事にしていることがある。
そしてそれは時として愚かしく見え、くだらなく馬鹿らしいことのように見えたりもする。
だがそれでも、そう言われることがわかっていても、やっていることもある。
反社会的な行為で、明らかに直接的に何者かに被害を及ぼしているのなら、それは倫理的に反する行為なので、当たり前のごとく止めさせなければいけないが、そうではない場合は、他者が口出ししてもしょうがない部分がある。
もし、嫌悪感を抱くようなもの、受け入れられそうもないものに相対してしまった場合、普通は逃げる。
関わらないようにする。
それで無難にすごしていける。
酷い場合は目の前に一切現れないように執念を燃やして叩き続けることもある。
もしどうしようもなくなったら、見るしかない。
見て知るしかなくなる。
それもぱっと見ただけではなく、腰を落ち着け、しっかりと相手を見つめ、口をつむぎ、自分の考えをまず捨て去らなければいけない。
そして出てくる言葉に耳をしっかり傾けなければいけない。
そうしてようやく知ることができる。
じゃあ例えば、逆の場合は。
好きから入った場合は。
知りたいと思う。
その知りたいの中にも好きじゃないもの、受け入れがたいものがある。
妥協するか話し合うか、どちらにせよ知る必要がある。
きちんと真正面から目を向けて知ろうとする。
腰を落ち着けて逃げない。
そうしてようやくわかることもある。
拒否していたものがうっすら理解できることもある。
ひとつ世界が広がると、以前の自分とは違ったものの見方ができるようになる。
よく知るにはよく見ること。
そうして出てきた言葉に耳を傾けること。
大変な作業だが、そうしなければ永遠に理解とは程遠い。
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