新しいテクノロジーが生まれた時、人はその道具といかに対峙すればよいのか迫られることは今に始まったことではない。
大昔であれば突拍子もない発明は人々の生活から置き去りにされ、長い年月を経て「既に~を発明していた者がいた!」と教科書に載るだろうが、ウェブテクノロジーも次々と進化している中、一体「テクノロジーとは何か」を自分たちの生活から見つめて、いまいち理解し切れていないのが日本の「出版業界」のようだ。
そもそも彼らは電子書籍と騒ぎ立てるが一向に昔のしがらみから、垢抜けて出ることはできない。
というのもあらゆる記事を読むにあたり彼ら業界人は「本」というものにこだわりすぎていることが見て取れる。
そもそも日本語の「電子書籍」という名前も既に間違いだったのではないかという気がしてこないまでもない。
つまり発想の方法があくまで「紙の本」と「電子の本」という対比でしか見ておらず、「電子書籍」を「コンテンツ」とか「ツール」という認識に改めることがないのだ。
これは「著作物に対する権利関係」、もっと言えば法律の事まで言わなければいけないだろうが、今回はそろそろ「電子書籍」を「紙の本」と比較すること事態が根本的な過ちであるということをハッキリ言いたい訳である。
当然現在電子書籍に関わろうとしている人たちは「かつて紙の本で育った人たち」だ。
だから「携帯でストーリーを読む」ということもないし、「青春時代の友達・恋人のやり取りを手の平サイズの端末で済ませる経験」もなかった。
だからこそ「離れているノスタルジックな時間」や「忍耐力」や「孤独な時間を思索に当てる」という豊かな時間を持っていた世代と、これからの世代は感覚がかけ離れている。
そして「古きよき時代を思い浮かべる世代」からは「若者にとって読書とは何か」という視点で新しいツールが語られることはない。
ここに落とし穴があるということにすらも気がつかない。
例えばこの記事を例に挙げよう。
電子書籍が紙に負ける5つのポイント(WIRED.jp)
ここには5つの理由が挙げられている。
1)読了へのプレッシャーがない。
2)購入した本を1カ所にまとめられない。
3)思考を助ける「余白への書き込み」ができない。
4)位置づけとしては使い捨てなのに、価格がそうなっていない。
5)インテリア・デザインにならない。
ぱっと見ただけでも「紙の本はこれだけ優れている」という点から電子書籍を見ているに過ぎないが、電子書籍を「コンテンツ」とか「ツール」だと思えば別にこの考えはどうでもよくなる。
そして感覚を携帯世代に合わせてみよう。
1、携帯世代には読了へのプレッシャーよりも、別の目的がある。
つまり一昔前に帯で流行ったが「泣ける」「感動」を入れると売れるなど、本は小説であろうと「目的別」によって売れていると見たほうがよい。
だからこそ自分が望んでいないものへの抵抗感が強く、また「目的」に沿って買っているということは既に「コミュニケーションツール」であって「感情の共有」が最終的な目的となっている。
「ビジネス書」を買いに来た人が「感動の純愛小説」なんてものには目もくれないのと一緒だ。
本屋での偶然の出会いを期待しているのは本に慣れ親しんだ玄人であって、年間5冊も読まない人は「偶然の出会い」よりも「目的のものがあって本を買う」ことが言える。
2、必要ない。
これはプログラムの問題であり、きちんと整理できるようにユーザーのニーズに応えればいいだけの話だ。
しかしだいたいプライベート端末、携帯の中に入っているデータと言えば「人にはおおっぴらには言えないもの」だったりする。
少し話がずれるが、私の男友達は携帯の中にいやらしい動画がたくさんストックしてあって、確実に「何が好きか」がハッキリとわかる。
その友達も同じで趣味の違いがハッキリわかったと言っていた。
日本の電子書籍市場のほとんどの内訳はBLとエロ漫画だったりするわけだし、個人の好みに沿ったものしか買っていかないわけだから、「一箇所にまとめる」のは「中への透明性がはっきりでる検索」などで充分だろう。
問題は書店とは違って中身が不透明であるため、買う前の問題が山積みとなっているわけで、買った後の問題などプログラムの問題でしかないということ。
3、もし必要だとすれば作ればいいだけの話だが、あまり必要だと思えない。
勉強するために余白を使う、文章を共有するために手書きのメモをアップロードできるようにする、などといった技術はこれから出てくるだろう。
その答えはソーシャルネットワーキングの会社やアップルらへんがやってくれるのではないか。
懸念するほどでもない。
私は逆に本に書き込みをするのが嫌いで、発想はすべて別の紙かパソコンなどに保存している。
というのも本に書き込みをすると、その時の発想でまた再度本を読んでしまい、新しい発想で本を読めなくなるからだ。
昔の人はよく本に書き込みをするが、今の世代が「書き込み」をするとしたら「他の人がどう考えているのか」という点を引き出したい目的が強いように思う。
これは本の内容によって違ってくるため、書き込みを必要とする勉強目的の本は今までの発送を買えて「コンテンツ・アプリケーション」として売り出す必要がある。
つまり、ゲームとして。
本の文章のままのコンテンツだとしても、例えばマーキング機能をつける。
ペンタッチ機能で線引きした場所が書籍内から取り出せ、メモを書ける。
また引用メモからの逆引き・関連検索などもできるようにする。
一語関連検索、ひとつの単語に反応してコンテンツ内の関連文章一挙閲覧など。
そうなれば「ツール」としての利便性は高くなる。
4、価格に関してはインターネットのコンテンツそのものが「無料化」に向かっているため、紙の本を売るように高い金を取ろうとすると、たちまち抵抗感が出てくることは否めない。
お金を払ってコンテンツを楽しむという発想すら薄れてくるだろうことも充分考えられる。
日本で一番現実的なのは「ファンサイト」のような「月額課金」がやりやすいのではないかと思うが、その仕組みをどうするかは一概には言えないので省く。
しかし今までの料金形態は確実に崩してまったく異次元の発想から新しい料金携帯を作る必要がある。
しかもユーザーが「お金を払っている」となるべく意識させない誘導の仕方が大変望ましい。
5、コンテンツは共有し、コミュニケーションツールとしての機能が強く、インテリアとしての機能は「コアなファン」以外は望まない。
つまり、どの業界でも「グッズ」を「インテリア」として扱っているのは「それが大好きな人」でしかない。
アニメであろうと音楽であろうと本であろうと、どんな業界でもグッズを「インテリア意識」にまで高めているのは、惚れ込んでいる人しかいないのだ。
あまり興味のない人にそんなものを望んでも拒否反応を起こすだけである。
つまらない音楽や本はさっさと捨ててしまうし、本当に好きだったら「探してまで買おうとする」ぐらいの熱意が湧き上がるものだ。
しかしそれは「グッズ」という機能を果たすものだけである。
「コンテンツ」となれば、目的は「趣味」と「感覚」の「共有」である。
「同じ事を思っている仲間がこれだけいる。楽しい」というコミュニティー空間を作るための「手段」なのである。
また自分の「楽しみ」を満たしてくれる「ツール」としての機能なのである。
だからこそ「グッズ機能」は「共有化」や「興奮・惚れ込み」の後に出てくる「コアなファン層」に望むべきであって、最初からコア向けの発想をしてはいけないのである。
いかがであろうか。
この5つだけとっても、これだけ「本」というものとはかけ離れていることがおわかりいただけると思う。
正直に言って「書籍」というネーミング自体が業界に呪いをかけ、その呪いの中で電子空間であろうとも「本」という幻想を見ているに過ぎないのだ。
「電子書籍」は本ではなく「コンテンツ」です。
日本の電子書籍の夜明けは、私の子供世代になりそうな予感はしている。
[0回]
PR