これはゼロから始める場合にとくに言える。
そろそろ、このような意味もなく湧き上がる自信や幻想はやめにしないか、といきなり切り出す今日の考え事。
というのも、当然よい作品は口コミで広がる、作品がお客を引き込んでくる、と考えられがちだ。
しかし本当にそうなのだろうか。
では「同調効果」で爆発的に売れるものはどうだろう。
何年立ってもリメイクされ、年月が経っても色あせない名作はある。
しかし一方ではけなされ、これは商品レベルではないと言われながら、買った読者の一部を幻滅させながらも十分商業レベルで成り立っている物がある。
これについてどう説明すればよいのか。
今までの流れから言えば売れたものではないものが売れる。
若い世代の、同世代の話のネタやすき間時間の楽しみになっている。
今や目の肥えて金を出し渋る人間よりも無垢な読者に刺激を与えた方が儲かる場合がある。
理想論どうこうではなく、現実なのだ。
作者として当然よいものは作りたいし、よい作品は必ず日の目を見るのだと思い込みたい。
だが私は気がつきました。
「いつ、よい作品が生まれるの?」と。
誰も保証などしてくれないわけです。
それに、「よい作品って何?」この世界の総人口に聞いたってまともな答えは出てこないだろう。
いい加減に「よい作品だから売れる」なんて幻想はさっさと過ちだったと認めるべきだ。
得に芸術家など「個性」を売りつけているわけです。
「個性」に「正解」などあってたまるか。
「個性」を「売りつける」ってことは「人によっては嫌がられる」ということでもあるわけです。
これは「技術」とはまったく違う次元の話なのです。
目の肥えた人間は「技術」や「知識」に対する重厚さを作品の中に求めますが、コミュニティー空間における話のネタ、手軽さにおいては「個性」が重要視されている。
この二つのことを同一視して、技術のことをけなすわけです。
腕がない、商品レベルじゃない。
しかし個性とコミュニティーと演出で商売としては成り立っているのだから、しょうがない。
時代は変わったのだ。
だからと言って、腕を磨くな、技術は関係ないという話しにはならないわけです。
技術がなければ、下地が深くなければ続かないことは当たり前だし、一発屋で終わりたいならまだしも作品群にするためには多くの知識が必要になってくる。
これはどんな道でもプロフェッショナルとして見られたらやらざるをえなくなってくる作業だし、本当に作品作りに真摯に向き合っているならば自然と身につくことなのです。
もし、よい作品というものが存在し、それをあえて定義するならば「技術的に優れており、作品に対する考察や直感力が読むものを圧倒している」となるだろうと考えるわけだが、さてこの定義は読む年齢層によっても違ってくる。
だったら個人で思っている「よい作品」だなんて、幻想そのものじゃないですか。
他者から見たら価値のないものに変わり果ててしまうかもしれない。
「よい作品」とは「共同幻想」なのですよ。
それのよい例が「携帯小説」なわけですよ。
あれは作品を売っているのではない。
コミュニティー空間をそのまま売っているわけです。
応援してくれていた人へのメモリアルと場合によっては言えるかもしれない。
とにかく、ひとつだけ言えることは「同調効果」をうまく利用しているわけです。
人を多く集めて「よい作品感」を演出しているわけです。
じゃあちょっと立ち戻って考えるわけです。
「共同幻想」とは言いましたが「作品の質」とは具体的に誰が決めるのでしょう。
この漠然として曖昧で、誰かの価値観の中にしかない独善的な言葉の内容を、一体誰が決めていくのか。
それは「良い!」と大きな声で示してくれた人が作っていくものだと考えるわけです。
つまり「ファン」の存在です。
歴史に残るなの時間に耐えられるなの、そんな大それたことは「生きている人間」は考えなくていい。
ただ作品に対して懸命であればベストなわけです。
じゃあ「ファン」なる存在を作るにはどうすればよいのか。
私の経験上では作品を公開するだけでは足りない。陳列だけではどうにもならない。
会話の成り立っていない間接的な読者はすぐ離れていってしまう。
存在さえも思い出されないわけです。
もちろん作品が読むものの心をとらえなければ、次の話すら読んでもらえないことは間違いない。
しかし基本は「会話」の中にあります。
会話の奥にある「背景」のようなものを見てもらえると印象深くなります。
親しくなると作品の中身の説明もないのに買ってくれたりしました。
そういうものなのです。
つまり「ファン」とは「自分の存在そのものを応援してくれる人」のことなのです。
作品の質がどうこうじゃない。
あなたが作り出す世界が好きだよと言ってくれる人のことなのです。
このような存在は「読者」とは少し違うわけです。
まず「ファン」の存在が作品を神聖化し、そして「読者」となる人に伝わっていく。
その「読者」の中から、また「ファン」が生まれてくる。
この流れはほとんど例外がないように思います。
結局「買う前から納得」している状態がここにあります。
買うときには既に「お金を払うだけの価値を得ている」状態だからこそ、買ってくださる。
その「価値」について「納得」している状態の人たちが「ファン」であります。
このレベルでは「よい作品」も「悪い作品」もない。
この二つの選り分けは常に後付けでされていくものです。
目が肥えていて作品を客観的に見れる人は常に意見を持ち合わせていますが、好きになってくれるとは、その次元とはまったく違うところにいる。
何か、底知れぬ愛情のようなものを感じるのです。
「よい作品」だから売れるのではない。
愛されるから、価値を感じるから売れるのです。
愛されるためには愛さなければいけない。
そんな基本的で密な関係性を構築できれば、「ファン」は増えていくし、作品の価値も高まります。
よいものを作りたいし常にそうであればいい。
しかし「よいもの」も、最初は思い込みでしか過ぎない。ただの主観でしかない。
よい料理を作るには何度も失敗を繰り返し試作品を作り、おいしいものをたくさん食べ比べ、試行錯誤の上で作り上げるものですが、そんな莫大な労力の上にできる「名作」の出現は本人ですら保証できないし、誰も保証してくれない。
作品が出ても「名作」は「迷作」となり、入り組んだ迷宮の奥深くへ行ってしまうように次々と出される作品の中へと埋もれてしまう。
これが現実なのです。
だから目を覚まさなければいけない。
「よい作品」は、まずは存在などしない。「作品に対する良し悪し」は作品に対する反応は生んでも、作品が読まれる・買われるまでの道筋は「作品そのもの」からは生まないのです。
そのよい例が「青空文庫」の中にはごまんとある。
「よい作品」は作者を取り囲む人たちが作り出す「神秘の像」なのです。
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