少し立ち止まって考えを整理したい。
今うわさの会社の携帯小説コーナーを覗いている。
そして同時に書籍化された感想をAmazonで見ている。
アマゾンの方はかなり、猛烈に、これでもかというほどの酷評。
そもそも一般文芸から携帯小説というのも無理があるだろうし、批判している人の中には実際に文学賞を狙い、何度も投稿し、何作も書き上げている人もいるだろう。
自分と作者との労力と努力の差から理不尽さを感じ嫉妬し下品なコメントをしている人も中にはいるだろう。
私はといえば、携帯小説など肌に合わなかったし、内容の酷さ、繰り替えされる同じネタ、シチュエーションのえげつなさ、これが本当に未成年の読み物かと気持ちが悪くなったし憤りも覚えた。正直日本語のことよりも内容その物にショックを受けた。
でも実際大人が知らないだけで子供の性の事情は深刻だし進んでいる。
二十年前の私の中学生時代でさえ3年生にもなれば噂レベルではなく結構している人がいた。知っているだけでも5人以上はいた。つまり、学年で言えば1割ほど。そしてその頃は市内の中学でもトップクラスの学力を誇った。そこでさえそれだ。
今ならもっと低年齢化していても別に不思議ではないだろう。
しかもこの手の話題、えげつない事件も含め、大人にバレるものは末期となる。
つまり学生だけでは対処できないような際どいものだけが表出し、穏便にすませられるものはやり過ごされる。
校内でレイプが起こったとしても、親に迷惑かけたくない、学校中の騒ぎにしたくない、口に出すのも嫌だ、などの理由で負の事件は黙っているなどもある。
同意の上ならば絶対に話さない。
だから自分がしていなくとも、友達がしたとかの理由で話の話題にあがっていると思われる。
得にいじめとなると陰湿だし、やり口も汚いし、そういう子たちって絶対に逆らわない、チクらない子を選び取るのがうまいから、これもなかなか表出しづらい。
つまり表には出なくとも「知っている」のだ。
自分が参加しなくとも「知っている」のだろう。
これはネットの情報がどうこうという問題ではなく、子供を取り巻くすべての環境に言えるかもしれない。
と、このようなことを考えれば、今の携帯小説の内容について憤っていてもしょうがないと考えることにした。
国語表現については、確かに問題があると言える。
しかしその前にちょっと待てよと考え直してみた。
そもそも何が凄いかって、1万でも2万でもコミュニケーション空間を作れること自体凄いのだ。
自分の小説ではそれだけのコミュニティーを作ることさえできない。
その点では日本語表現うんぬん以上に凄いこと。
この国は資本主義で動いているし、会社だって社会に奉仕するためにあるわけではない。
稼がなければいけない。
つまりもっと言えば、金を持っているものが勝つ。
稼いだものが発言権を増していく。
それがお金の理屈なのだと私は考えることにした。
あれはだめ、これはだめ、そう言ってお金を投資しなければ大事なものは残っていかない。どんなに優れていようと金がなければ滅びるのだ。
これは厳然たる事実なのだ。
芸術において、この理屈はこれからも覆されないだろうと思う。
そして金を持っているものが人を雇うことができ、人を雇ったものが、会社を動かしていく。
つまり、お金の払われないところには滅びが待っているだけなのだ。
会社は稼げる間は必ず繰り返す。
稼げなくなるまで繰り返す。酷いと罵られようが、これは商品じゃないと言われようが稼げるうちはやるのだ。向こうだって家族がいるし、食っていかなきゃいけない。
こんな当たり前の理屈に対して何が文学だと反省することにした。
不満があるなら今携帯小説に食いついている人たちに対し、面白いものを作らなければいけない。
もっといいものを作って、コミュニティー空間を作って、彼らに対してアプローチしなければいけない。
そういうことを考えると、さぼっていたんじゃないのか。
若い人たちに文章の面白さをきちんと伝えていくことをさぼっていたから、新しい時代に対して新しい表現を編み出し、彼らへの面白みを創造することをさぼっていたんじゃないのか。
古典がどうこう、近代文学も読んでないのか、このジャンル書くのにこれは押さえておけよ。
しかし何も知らない読み手は、そんなことどうでもいい。
活字がズラッと並んでいるのを見ると勉強しているようで嫌になるんじゃないだろうか。
夏目?芥川?川端?三島?江戸川?溝口?司馬?なにそれ?知らない。これでおしまいだろう。
勧めても「長いし面倒くさい」で放置。
それが現実なんじゃないだろうか。
私だって中学のころは児童文学も面白くなかったし、「龍馬がゆく」を勧められても文字数の多さ、大人の世界観に入っていけなかった。
今は面白いのだけど、やっぱり人はステップアップしていかないと面白いものにも面白みを感じない。
こうじゃなければいけない、ああじゃなければいけない。
自然とこのような考え方が染み付いていた。
隔たった考え方をしていたのは、自分であったかもしれないと、今猛烈に反省している。
人を集めて金を出させたものが勝つ。人を集められるだけの作品を書けなければ敗北するのだ。
今回は始めに書いたように整理のために残しておく。
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