Youtubeに映画が一本まるまるアップされていた。
申し訳なさを感じながらも見てしまった。
映画には何億というお金がかけられている。
その莫大な予算と労力を少しだけ考えられるようになった作り手の側の立場からすれば、違法アップロードされたコンテンツへ「もっと見たいのでアップしてください」などというコメントには複雑な心境がわく。
自分もちゃっかり見たから同罪なのにね。
テレビでスマフォで月額500円ちょっとで5000タイトルの映画見放題という宣伝がやっていた。
コンテンツはどうしてもこの方向で、つまり「月額課金で見放題」へと時代は突き進むだろうとは感じながら、「一体どこで製作資金と、次作への余剰資金を得るのだろう」と考える。
コンテンツは「元手を回収しただけ」では、どうしようもない。
当然才能は作りながら積み重なっていくものだし、「次回の作品も期待します」と言われながらも次回作へ必要な資金が確保されなければ作られることはない。
ここら辺の感覚は「見ているだけの人」には、とことん欠如してくる。
身銭を切って物を作るということをしたことがないなら余計に欠如する。
もっと莫大な資金をかけなくとも作品が作れるようにミニマムな製作が好まれるようになるのか、それともあらゆるメディアミックスをしながら垣根という垣根が取り払われ巻き込んでいくのかはわからない。
いずれにせよ、お金を得られる瞬間というのは「いかに鮮度の高い話題性を呼べるか」にかかってくるのかもしれないと薄々感じている。
例えば「ライブ」であったり「今旬の俳優の最新作」「ドラマのスピンオフ」など、現在進行形で、かつ「誰かと話題を共有する時に古くさくないこと」が最も大事なことなのではないか、と感じた。
カラオケを歌うとき、結構大事なのは「場が盛り下がらないこと」だ。
歌われた分だけ権利者や作者に支払いがいっている。
歌う方の選曲で気を遣うのは「場を共有している」ことにある。
ソーシャルの大事な点も「場を共有している」ところにある。
アメリカの映画館に行くと、日本とはまったく違って、観客が劇を見るように反応する。
見せ場には「ヒュー」と盛り上がり、悲しい場面には「オー」と悲痛な声を出す。
ちょうど日本で言う歌舞伎の観客のように画面に向かって反応するのだ。
それは文化の違いと一口に言えばそうだが、「場を共有できる準備」が「観客」にも「作り手」にもできているということだ。
「場」というのは「両者の完成された空間」にしか過ぎない。
作り手にとって、この理屈は別に目新しいものでもなく、昔からこんこんと受け継がれてきたものなのかもしれないが、やたらと「ソーシャル」なのなんなのと、どうも変な理屈で現代風こじつけをされるようになってきてしまったのかもしれない。
さて場を作り上げるには観客も訓練されなければいけない。
個人的な信条や思想が作品の価値を大きく左右する本となると余計に難しくなるかもしれない。
どのように本を持ち寄った場を作るために訓練しなければいけないのか。
その試みは、どうやらあまりなされてきていないようである。
バラバラに存在し、そのバラバラを持ち寄って「商品の客観的な価値」を作るところまでは来ているが、バラバラを新たに再構成して価値を作るという新しい領域が出来ている人は少ないし、むしろそれができている人はうまくやっている。
もの凄くプライベートな感想を持ったとする。
でもそこで人に言う時、日本人が一番怖がるのは「場の空気を乱すのではないか」「自分が的外れなことを言っているのではないか」という「不和」だ。
違ったものに対して意見や感想を述べるというのは、よほど勢い余ったときぐらいしかない。
スムーズな場を作る上でやはり大事なのは、いかに会話や対話を繰り返してきたか、というところに落ち着く。
発言しやすい、参加しやすい雰囲気作りと場を作り込む力。
いくら人が来ても、これがなければ場として機能しない。
そして場として機能し始めて、ようやく本は売れるような気がしている。
落語やジャパネットでさえ言っていた。
「昨日の話題、例えばスポーツの試合の結果などを一言でも盛り込む。すると生放送だという臨場感が出てくる。これを伝えることが大事だ」と。
ということは「いかに鮮度の高い場を作れるか」にかかってくる。
そしてそれは「本」ごとに違うし、そのバラバラの本は「作者」や「ジャンル」といったカテゴリーでくくられる場合もある。
「鮮度の高さを感じられる場を作る」ことは、各々のブランディング力次第なのだろうけれど、共通した答えのこの課題を、いかに自分の持っている作品と絡めながら作れるかが勝負どころなのだろうなと考えている。
既に「パッケージを売る時代」から「パッケージの周縁を作り込み、売っていく時代」を越えて、さらに「周縁からパッケージをカスタマイズする時代」になっている。
次はおそらく「パッケージとその周縁の相互カスタマイズ」だろう。
具体的な言葉を言うならば「観客がコンテンツにより直接的に関わる時代」となるはずだ。
その方向性でなければ、死滅すると私は見ている。
そして作者に求められる資質は「ライブをこなせる実力」であり、売り手に求められるのは「ライブ会場のセッティングを演出する」ということだろう。
「セルフブランディング」となると、この両方をこなさなければいけない。
そして初めてコンテンツが動き、売れるという時代に完全になる。
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