最近人を殺そうと思う時がある。
それは不特定多数や見知らぬ人ではなく、知っている人だ。
理由は、個人的な事情だ。
憎しみを抑え切れないことがある。
その前に、自分が死のうかと考えることもある。
どちらを選ぶにしろ、自分の人生はそこで終わる。
日本ではそれ以上は生きてはいけない。
塀の中で生きたままゆっくり死体になるのなら、いっそのこと死んだほうがましだとも思い直す。
因果応報という言葉がある。
この言葉を使うときはだいたい「悪いこと」が起こったときに使う。
「あいつが、あんな悲惨な目にあうのも、昔の悪事のせいよ。因果応報だな」
という具合にだ。
普通人は、この「因果」のことを、「自分の行動によってもたらされた様々な事柄が自分に返ってくる見えないつながり」のように考える。
ゆえに「応報」、「自らの行動の結果は自らがこうむる」と。
しかし、この「因果」は自分がまったく関わっていない場合もある。
誰かがもたらした行動の結果が理不尽にも降りかかる場合の繋がりも「因果」に含まれる。
人は見ず知らずの幸運や不幸が降りかかった時、必ず「運がいい」とか「運が悪い」と言う。
この「運」には陰陽五行説も含まれており、いわゆる簡単に言うところの「天地の理」、もっと簡単に言えば自然現象も含む意思を持たない流れ、「自然」も入っている。
それを仏教や風水や陰陽の世界は複雑化して理論体系化していった。
私たちは、自分の人生は自分自身で選択できるものだと考えている。
しかし、実際は違う。
能力を信じて信じぬいたものだけが偉業を成しえると説く人間もいるし、人間における成功哲学を打ち立てた人間も既にいる。
「人間がいかにしてすごしていけば人類が平和で人間同士が幸せに暮らせるか」
という問いには、人類は既に答えは出している。
この「資本主義社会」に対しても、既に答えを出している。
しかしそうはならない。
なぜか。
「人は思い通りに自分を律することができない」
つまり、最大の敵は他ならぬ自分自身であり、自分自身を一番思い通りにできない弱い存在だから、「勝者」と「敗者」という存在に隔てた時その差がハッキリと出るのだ。
そしてその「勝者」「敗者」の中に、悪事を働くものが数多く現れるからこそ、何者かが理不尽な事態に見舞われるのだ。
そう考えると「因果応報」とは、「行動の結果」という考え方よりも「自らに降りかかった因果へ、いかに対処できるか」の問題であるとも言える。
私が憎むべき存在を殺さないのは、私を信じていてくれる人のことを思い出してだ。
作家として大成するのを待つ人間が、まだこの世界に生きている。
その存在がなければ、私は今頃全国ニュースで報道されるくらい派手な殺し方をしているかもしれない。
または冷静になり「殺す価値がない」と寂しい気持ちになるかもしれない。
感情には未来がなく、常に今しかないのでどうなるかはわからない。
「カルマ」とは「業」と日本語で書く。
この「業」とは「因果」も含む。
「カルマ」は身に降りかかった不幸を「何らかの悪事の浄化」とも考える。降りかかった時点で、自分が既に犯した罪を何らかの形でこうむっていると勘ゲル。
また、自分が他者に対してよからぬ行動・感情を持った場合も自らの「カルマ」を抱える。
つまり、「輪廻」、巡り巡って返ってくる一連の輪になぞらえ、誰かがその「カルマ」の「罪深さ」に気がついて、「耐えて連鎖を断ち切る」ことでしか、その「カルマ」からは逃れられないと説くのが基本的なカルマからの解脱の考え方だ。
説明すると、自分が「むしゃくしゃ」している。
誰かに「当り散らす」と当り散らされた人間は家族に「暴力を振るった」。
暴力を振るわれた家族の子供は学校で「いじめ」を行った。
いじめられた子供の家族は逆に子供を「責めた」。
責められた子供は不良となり、社会に対して「悪事を働く」ようになった。
凶悪な事件が起きて社会が「ギスギス」するようになった。
ギスギスした社会がやがて「他者に対しても不信感を抱く」ようになった。
不信感の渦巻いた社会は軽率な行動をする人間を「責め」出した。
責められた人間は「むしゃくしゃ」しだした。
どうだろう。
言葉で簡潔に繋げるとこうなる。
最初と最後が繋がるのがよくわかるだろう。
人と世の中はもっと複雑だからこうはならないが、実際これに近いことをやっているのは事実だ。
前世のカルマというのもあるらしい。
占星術に長けた人に占ってもらってショックだったのは、前世から引き継いでいる「魂の傷」が現世でも再現されるらしく、実際そのようになっている。
そして、殺そうと考えている人間はそのカルマの中に存在している。
その人間によって、本当にひどく傷つけられた。
細胞分裂よりも激しいスピードで一度刺激されると憎悪が止められなく、危ない時がある。
実際、少しだけ一線を越えかけた。
よく考えてみれば、よく相手を知れば、相手もカルマを知らずにそのまま私に流している。
自分で耐え切れずに、いや、耐え切れた部分だけは守りつつ、それ以外のところで流している。
「なぜ人はカルマから逃れられないのか」
この問いに非人間的な行為によって解脱をはかろうとするものがいた。
しかし人間生活、人類すべてがそのように「解脱への行動」によって人生が成り立つわけではないし、実際成り立たない。
「カルマ」は、「因果応報」という言葉の一般的な解釈を超えて現世にのしかかってくる。
私もまた「カルマ」と戦っている。
仲良くできるかどうかは、今のところはわからない。
たとえ自分が乗り越えたからといって、誰かに「戦え」と無理強いするつもりもない。
だが最後に、ほんの少しだけ思ったことを言いたい。
もし、
誰かを殺すか、
自殺をするか、
どちらかを考えた時、
それを止められるのは、
心から親身に自分の話を最後まで聞いてくれる人だ、
と。
[2回]
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