保留にしている小説がある。
長編小説だけれど、他のブログの人気キーワードトップ10の上位に「消えたい」があったので、忘れないうちに書こうと思った。
保留にしている小説の中で、リストカットをする女の子がいる。
その子は「死にたい」ではなく、「消えたい」と切に願っている。自分は不幸だと。
なぜ、「死にたい」ではなく、「消えたい」なのか。
それは「死にたい」と思えるほど自己を強く感じていない。まるでいないかのような、うすっぺらのような感覚で過ごしている。本当に自分は生きているのだろうか、本当に自分は誰かに必要とされているのだろうか、こんな自分でも心底泣いてくれる人がいるのだろうか。
それは、まるで「アイデンティティー」というものが、霞のようになっていて、自己を確認できないあいまいさの中にいる。泥の中にいるようで、感覚さえも麻痺して、何かを強く感じることがない。
強烈な自己否定の連鎖の中で、その痛みに耐えるために心が勝手に死んでいくのだ。
私がそこから出られたのは「偶然の理解者」だった。「者」ではなく「物」だったのだが、歌舞伎だから「者」でもある。
「心から通じ合えているな」という充実感を持っていれば、「消えたい」なんて思うことはない。その前に強烈な否定を数多く受けてしまえば、自分の存在そのものがあいまいになる。特に優しい人はなりやすい。
もし、このような人に会ったら、その人の言っていることを否定してはいけない。なぜならば、その人の言っていることは、
「自分の感覚においては限りなく真実」
だからだ。
そしてそこに反論をするということは、
「相手の感覚を否定する=その人の存在を否定する」
ということになるからだ。
「最後の砦」として、「自分の感覚」がある。
否定されたものは「最後の砦」を守ろうと必死になって防戦するだろう。
「そんな元気があるならどうしてできない?」
ということを言う人もいる。
しかし待ってください。
それは「あなたの感覚」ではないのですか?
それを押し付けているということは、「相手の感覚を無視している」ということです。
長く長く話を聞いていれば、必ず客観的な真実が見えてくる。
時間がかかるが、その部分においては嘘は付かないと思われる。
「消えたい」と思っている人は、自己のみならず、他者にまで否定的になる。
それは恐らく、ほとんどの場合は他者から強い否定を受け続けてきた結果なのだろうと思う。
このクセは、発作的に残ったりする。
よほど気持ちを入れ替えないと抜けきらない。
もしくは強い自己肯定体験(簡単に言うと成功体験)を体感しないと、人に対して心を開ききれない。
どんな人間にも必ず才能はある。
ほとんどの人間は、その才能の片鱗にも気がつかずに死んでいく。
それが「普通」だという人がいる。
私はそうではない気がする。
社会が、人が、真に人間らしくいきいきとしていけることを、地域に住まう人が一生懸命考えて実行すれば、私は「消えたい」と思う人が消えるのではないかと思う。
役に立たない人はクズじゃないよ。
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