御節料理Wikipedia
御節料理は「縁起物」とよく聞きますし、テレビでも料理番組を見る人なら料理に込められた意味をちょろっと説明してくれます。
しかしちょっと待てよと。
料理を作らない人や、そもそも家庭で正月には御節料理を作ったり頼んだりする習慣がない家庭も、もしかして多くなってきたのではないかと、あるブログの記事を見て思ったわけです。
日本語には
忌み言葉というものがありまして、言葉に対して非常に繊細な感覚と想像力を昔から持っています。
その逆もまたありまして、この御節料理に代表されるように「験を担ぐ=縁起を担ぐ」意味においても想像力ゆたかに「保存食」とも兼ね合わせて作ったわけです。
ただ「正月もの」とか「縁起物」だけであるわけではなく、一つ一つの料理に意味を込めて、その「意味を想像しながら食べた(祈った)」ことは容易く想像できます。
「縁起物」として「意味を食べる」過程でちょっとずつ今の形になったのでしょうね。
せっかく意味が込められているのだから、バクバク食べればいいってものではない。
一つ一つ噛み締めながら食べることでも「一年の心構えや気分を心に思い浮かべ血肉にする」ことができると思います。
このように意味を込めた料理は結構多くて今でも普通にテレビで行事の季節が来ると自然と流されますが、だんだんと形骸化しているのかな、とも感じるわけです。
味付けに関しては現代では高カロリー高血糖など、食べ物があふれているため昔通りでは多少きつい感じがしますが、そこはさじ加減。
それよりも「作るのが面倒くさい」「頼むと高い」「わざわざ食べるほどでもない」「おいしくない」「正月気分で」「ご馳走ならもっとおいしいものがある」など「意味が抜き取られている」ということに少し恐れを抱くわけです。
そもそもこの飽食の現代日本に、わざわざ古典的な、別に無理して食べる義務もなく、他の惣菜買えばもっと立派になるのに手間暇かけて作り、など食べる必要性すら感じなくなってきていますが、もっと根本的な生活感覚に立ち返れば、「節目に想像力を駆使する」ことが少なくなってきているのかな、と思うわけです。
「文化」とは何かなと考えると「形式」ではなく「想像力」なのかなと思うわけです。
言うなれば「創造性」とも言いますか。
一つ一つ意味や思いを心に描いてみる。
そんな感覚が「創造性」を後押ししているのだと感じることがよくあります。
だんだんと時代の流れなのか、あらゆるものが「形骸化」している。
「形式」だけ残って「意味が抜かれて」いっている。
現代の人は「想像力」がないと言われていますが、豊かな未来を描く想像力をぜひ各々思い描いていって欲しいなと願うわけです。
「意味」という「骨」が抜き取られれば、崩れ落ちるのは容易くなる。
これは色んなところにおいても言えることだと思います。
こんな時代だからこそ、他人の幸福、一年の実りある幸を心に浮かべることのできる創造性をもって欲しいと、御節料理に対する感覚を読みながら思った一日でありました。
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