この年になって比較する過去の自分が増えてきて気がつく。
自転車を走らせていると次々と過ぎ行く景色に頭が追いついていない。
前は視界に映ったものを満遍なく見渡せたのが、処理能力が落ちているせいで、集中すべきポイントを絞っている。
「ああ、これはひどい」と感じると同時に、自分がどれだけ新しい刺激にさらされていないかを思い知った。
処理能力が落ちるということは、感性が鈍るということだ。
少年のように新しいものに触れて「わあ」と感動する能力が落ちてくる。
自分の思考回路についても同じことが言える。
毎日のルーティンの中で「自分の周囲はこういうもの」という観衆を通じていつの間にか思考回路まで固まり、決まってきてしまう。
結果発想の転換ができなくなる。
疑問を持たなくなる。
アホらしいことでも平気で信じるようになってくる。
行動様式が画一化される。
つまり、感受性が死に絶え平凡なものになる。
「これは当たり前のことなのだ」といつの間にか無意識で捉えだしている。
目の前のほとんどのものを「慣れ親しんだもの」として脳内が捉えている。
しかも自分の脳が衰えている。
使ってないせいだ。
使っていると思い込んでも、毎日の繰り返しが脳内を硬化させている。
創造の枠組みも狭まり個性は消え去り落ち着くところまで落ちるだろう。
運動をしていないと筋肉は衰える。
食べ物だけ食べて体重が増えぶくぶくと脂肪だけが蓄積されて体が使い物にならなくなってくる。
少し体を動かしただけで面倒になり、すぐ筋肉が痛くなり、動くのも嫌になってくる。
そういう怠惰を突っぱねて筋肉を痛めつけ、動かし、苦痛を与え、鍛える。
そうしないとしなやかな体は作られないし、正常に動かすこともできなくなる。
最近気をつけて運動するようになっているのでよくわかるんだ。
つまり、これは「頭」のことにも置き換えられる。
脳のしなやかさも使って使って使いまくって、しかも新しいものを吸収し続けることでスマートさが保たれる。
年をとっていくということが、怠惰な枠組みの中に常に納まり続けるということではいけない。
それでは創造していく意味がないではないか。
先日400枚ミステリーを先送りにすることに決めた。
とてもではないが間に合わない。
というかあるシチュエーションに遭遇して「話全体を暗号化する」というアイディアが浮かんで構想がぶっ飛んだ。
んもー!自分が楽に書いていけるという程度の話ではとてもじゃないけど、賞なんて取れないんだよね。
自分でどんどん苦痛を与えなければ作家としての進化もない。
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